6話 鍵音は幸運に感謝する
マナ・フラウロス。ソロモン72柱の1柱。伝承では悪魔の中でも最高位の1柱と語られている。フラウロスは地獄の大公爵で、過去や未来の出来事および他の悪魔について教えてくれるが、正しく命令しないと嘘をつくと聞いたことがある。
本屋鍵音は懸命にソロモン72柱の悪魔の伝承を記憶から呼び出して、フラウロスの素性を推察していた。
森林の中でサクサクと草を踏み分けつつ、目の前を歩く美少女は光の翼を生やし、その優しげな顔立ちは天使にしか見えない。言動だって、聖女とも思えるほどに丁寧で相手を思いやっている。その様子からは悪魔だとはとてもではないが思えない。
(悪魔は注意するものと言われてるけど本物は見たことも聞いたこともないし、優しいし、忠実だし、可愛いし、召喚獣は裏切ることはないと昔に実証されてるし、なによりも私の傷跡を治してくれた! 警戒しなくても大丈夫だよね?)
悪魔と名乗られたので、警戒してさり気なくマナを鍵音は覗き見ていた。本人的にはさり気ないつもりだが、他者から見たらガン見であることに気づいていない。
もちろんマナは鍵音の視線に気づいて、その美貌を向けてニコリと微笑んでくる。その美貌に鍵音は早くもクラクラしてしまう。
「どうしましたか、マスター? 私に気になることでも?」
美貌だけじゃなくて、声音も頭を揺らす甘い声音だ。とろけるような声音とはこういう声を言うんだろうなぁ。
「えっと、たいしたことじゃないんだけど……フラウロスって、豹だって聞いてるの。堕天使タイプは他の悪魔だし、そもそも天使にしか見えないし、なんでかなって思って」
指を絡めながらモジモジとして尋ねると、マナは両手を胸の前に持ち出して猫の手になり━━。
「にゃ~ん」
茶目っ気のあるスマイルで、私に即死魔法を使ってきた。その魔法の名前は『ニャンコのポーズ』だ。しかもほんのりと頬を染めて恥ずかがってもいるので、その威力は倍増していた!
「かっ、かわっ、かわいい~! うん、そのそのそのポーズは私の前以外でやったら駄目だよ! マスターの命令だから! たとえ3つしか命令できなくても一つ目の命令にするから!」
「ふふっ、ありがとうございます」
優しい声音で猫の手にしている腕を横へと伸ばすと同時に草むらが鳴り━━。
「ウォヴゥッ!」
ふたつの頭を持つ人のように大きな犬が飛び出してきた。短剣よりも切れ味の鋭い牙を剥き出しに、涎を垂らして口を大きく開ける。
ヘルハウンド! ランクCのモンスターであり、その噛みつきは魔鉄の鎧をもやすやすと切り裂く怪物だ。私は不意打ちに身体を固まらせて動くこともできなかった。
だが、マナは違った。軽く腕を振って、茶目っ気のある声を上げる。
「にゃ~ん」
ヒュッと風切音がして、ヘルハウンドの頭に4筋の切れ目ができると、頭から尻尾まで斬り裂かれるのであった。
「へ?」
唖然としてしまう私を横目に、マナは体を斜めに傾けると、他の草むらから炎弾が飛んできて、マナの身体を横を通り過ぎていく。
外れた炎弾が後方で爆発する中で、マナは笑顔を崩さずに、なにもない空間に横蹴りを繰り出す。いや、意味はあった。
「ぎゃうんっ!」
マナの蹴り足から魔力の斬撃が放たれていた。魔力の斬撃は草むらを真横に綺麗に切り倒し、犬の悲鳴が響くとなにかが倒れる音と、草むらから血が流れてくる。
「にゃにゃーん」
その結果を見ることもせずに、マナは私の頭を抱き寄せると身体を回転させて場所を入れ替えて、パンチを繰り出す。
今まさに私の後ろから噛み付いてこようとしていたヘルハウンドへと。
今度は拳からハンマーのような魔力の塊が放たれて、ヘルハウンドはトラックにでも当たったかのように身体をひしゃげて潰されると血の入った風船のように肉塊となって地面に落ちるのであった。
「豹らしかったでしょうか、にゃ~ん」
ふふっと微笑む猫さんマナの茶目っ気のある笑みに見惚れつつ、私は血の気が引いていた。
時間にして10秒にも満たない戦いだった。私はまったく動けずに、それどころか命の危機であったことを知った。
ヘルハウンドがいつの間にか忍び寄ってきて、私たちを喰い殺そうとしていたのだ。
(も、ももも、もしも私だけなら確実に死んでた! ヘルハウンドにまったく気づかなかった。えぶぶ………)
ヘルハウンドたちの死骸を見てじわじわと死の危機が実感されて脚が震える。ツインヘッドオーガに追われた時は巨人の脅威は分かりやすく、無我夢中だったが、今の奇襲はまったく気づかなかった。きっと私一人なら、あっさりと殺されていただろう。
だが、マナは気づいていたのだ。周りを気にする様子も見えなかったのに、正確に敵が隠れていることを見抜いており、たった3撃で倒した。最低限の動きでの迎撃はまるで敵が倒されるために現れたかのように冗談のような戦闘だった。
(し、しかも。しかも、マナはまったく魔力の変動がない! 普通は攻撃する際は筋肉の起こりのように前兆があるはずなのに! 凪いだ水面のように乱れが全くなかった!)
鍵音は弱い。だが弱いからこそ、観察力だけは一流だとの自信がある。ツインヘッドオーガに追われた際も敵の振り上げる時の腕への魔力の集中や、行動する際の魔力の変動を観察して躱せたのだ。
しかしマナにはそれがない。全く魔力の乱れが無いために、攻撃されても躱そうとすることもできないだろう。
(こ、これがソロモンの悪魔! 大悪魔の力なんですね。見た目はCランク程度の魔力しか感じないのに、魔力操作能力が抜群なんだ!)
マナの内包する魔力がうっすらとわかるが、圧倒的な強さはない。Cランクだから弱くはないけど、同じCランクのヘルハウンドを一撃で倒すことはできない。それが常識であるがこの大悪魔に通じないのだろうか。
「どうしましたか、マスター? どこかお怪我をしたのでしょうか?」
「いえ、ううん、大丈夫、デデデでーじょーぶ、ですっ」
考え込みすぎていた私を心配顔で覗いてくる天使様に、慌ててプルプル首を振る。
「そうですか、お怪我が無くて良かったです。ではこれからどういたしますか? ここはマスターのおうちの庭ですか?」
「えっ!? 庭? いえ、そそそんな、こんな危険な場所をおうちにしないです。ここをおうちにしててててら、死んじゃいますので」
「そうなのですか? ではこれからの行動方針は?」
「えっと……正直迷っています。マナの力はCランクだと思ってたんです。だから、ここから階段を登ってダンジョンから脱出するつもりだったんです。でも、今のマナの力をみれば、ダンジョンボスも倒せるかもです」
コテンと小首を傾げる天使様の問いかけに迷ってしまう。
マナの強力な魔法と内包する魔力なら、なんとか最下層から脱出できると思ってた。
「『南千住』ダンジョンの特徴は階層ごとに足立区全体と同じくらいの広大な空間と、1階層降りることに魔物のランクが大幅に変わることなんです。えっと、この特徴は世界でも珍しくて、同じダンジョンはほとんどなくて。1階層登れば敵のレベルは一気に下がり、Dランクとなるので、そうなればなんとか外まで脱出できるんじゃないかって考えてました」
「なるほど、それなら階段を探せばよろしいのですね?」
「でも、軽くヘルハウンドを倒せるなら話は変わるんです。ダンジョンコアを守るボスを倒せば、帰還の魔法陣が現れて、一気に外に出れます。正直言うと、このダンジョンは広いですし、食料も水もない中で登って脱出を目指すのはかなりの賭けだったので、ボスを倒す方が早いし安全かも」
「ダンジョンコアの場所はおわかりでしょうか?」
「うん。『地図』の魔法にここのダンジョンの全ての階層を覚えさせてきたから。覚える時はいらないと思ってたんですけどね……はは」
入る前に念の為と地図を記憶してきて本当に良かった。やっていなければ、きっと迷って餓死していただろう。
「ふむ……それならば話は簡単ですね。私も大事なマスターが命の危機となるダンジョンとやらにずっといるのは反対です。お任せください、そのダンジョンボスとやらを倒してみせます」
「えぇと、ここのボスは倒しにくいと噂のボスなんだけど……本当に大丈夫?」
「はい。どのような敵が相手でもこのマナ・フラウロスが倒しましょう」
「う、うん。それじゃよろしくお願いします!」
マナ・フラウロスの自然体の微笑みに鍵音はダンジョンボスを倒すことを決意するのであった。
◇
『地図』は記憶させたダンジョンを立体的に映し出し、周囲の地形と照合し、自分がどこにいるかを教えてくれる。
そのため、あっさりとダンジョンボス部屋の前に鍵音たちは到着した。
大森林の中にある高層ビルのように太い巨木の前に、蔦が張り付いた5メートルはある高さの金属の両扉がある。鬼のレリーフが彫られた扉は前に立つ者に重圧感を与えて、心の弱い者なら怯んで回れ右をして去っていくかもしれない。
鍵音はダンジョンボスに挑むのは初めてだ。両扉と威圧感を前に震えは隠せない。
(だけど、ここで震えて縮こまっているわけにはいかないよね。私もできるだけ援護しないと!)
「えええええと、マナ、こここのダンジョンボスはスリーヘッドオーガ。3つの頭を持つオーガで、死角がありません。後はオーガよりも怪力で素早いくらいです。ただ耐久力が、えっ!?」
説明をしようとしてるのに、マナは話を聞かずに両扉に蹴りを入れた。ダンジョンの扉はとても硬い。その硬さはSランクでも破壊するのに苦労するはず。
「え!?」
なのに、ゴカンと重い音がすると扉が傾いて外れた。そして、ギギィと軋む音がすると倒れてきて━━。
ヒュウと、軽く息を吸い込むとしなやかな動きで蹴りを倒れてくる扉に入れた。本来は数トンはあるだろう分厚い金属の扉はベニヤ板のように吹き飛んで、奥へと飛んでいった。
「ヴォォォ、オ?」
そして、侵入者が現れたと、奥にて立ち上がろうとするスリーヘッドオーガへとフリスビーのように飛んでいき、その身体に命中した。オーガの巨体といえど、数トンはあるダンジョン産の頑丈な金属の扉に耐え切れるわけもなく、その身体を引き裂く。
グシャリと嫌な音がして、スリーヘッドオーガは右半身と2つの頭を破壊されて倒れ込む。
「え!?」
ぽかんと口を開けて唖然としてしまう私に、涼やかな顔でマナはみてくる。
「これでただのオーガですね、マスター」
こんな攻撃方法、見たことも聞いたこともない。やっぱりとんでもない化け物だよ、マナ……。