1話 鍵音の大逆転のプロローグ
本屋鍵音という名の少女はこれまでの人生を振り返り、幸運よりも不幸の天秤に傾いていると考える。
まずは、小5の時に魔物の襲撃で両親が亡くなってしまったことだ。両親は鍵音を守るために庇ってくれて、魔物に殺された。両親が2人とも亡くなったことが1つ目の不幸。
2つ目は、鍵音は生き残りはしたが、その傷跡は大きかったことだ。精神的なこともあるが、物理的に傷跡が残った。魔物の爪に引きちぎられて、鼻の半分と左唇が失われて、口は歯茎が外から見れるほどの傷跡となった。
この傷跡はそれまで将来は美女になると周りから褒められて、男子からはもてており、女子のカーストグループでは常に最上位にいた鍵音の評価を地に落とした。鍵音の顔を見て顔を引き攣らせると友人たちは去っていき、口裂け女とあだ名がつけられて虐められた。これが2つ目の不幸だ。
3つ目は親戚を盥回しにされた挙句、養護院に押し付けられた鍵音がそれでも希望を持ってしまったこと。1000人に1人しか発現しない魔力を覚醒させて、この姿でも将来に希望が持てると淡い期待をして━━ハンター養成学校で自身の魔力が最低ランクで固有スキルも持っておらず、無能だと分かったことであった。下手に希望を持ってしまったからこそ、上げて落とされたショックは大きかった。
そして最後の不幸。4つ目はというと━━━。
「うぅ、酷いよぉ。な、なんでランダムテレポートで下層に来るの? いじめられるとは思ってたけど、普通は同じ階層に飛ばされるじゃん! な、なんで、どう考えても、あの魔物は1階層じゃないっ! もももしかして、最下層なんじゃ」
現在進行系で進んでいた。鬱蒼と茂る草むらを突き抜けて、息を切らせながら走り抜ける。心臓が激しく鼓動し、足が痛くなってくる。道を塞ぐように生え広がる小枝の中を腕をふるって強引にどけながら突き進むため、肌に枝先が引っかかり、細かな傷により血が流れるが気にする余裕はない。
「ウォォォォォ」
足を止めることはできないのだ。後ろから聞こえてくる獣にも似た咆哮が鍵音に走れと催促していた。ここで立ち止まると確実に死ぬ。後方でバキバキと折れる枝や草むらから鳴る激しい葉擦れの音がさらに恐怖を煽る。
脳内で残る理性が、もはや自分の命はないことを教えてくる。このダンジョンを訪れる際に、班の女子たちに嫌がらせを受けることを予想していたので、しっかりと調べてきていた。その記憶から追いかけてくる魔物は最下層にしか存在しないことを知っている。
魔力の尽きた自分では、いや、たとえ魔力が残っていても、追いかけてくる魔物に傷一つつけられないだろう。そして、この先に新たなる魔物が現れる可能性は極めて高い。
即ち、自分は死ぬ。監督して配置されている先生たちも3階層までしか巡回していないはず。最下層である10階層に生徒がいるなどと頭には絶対にないに違いない。
哀れ、アカデミーの劣等生である本屋鍵音はここで死に、ここで死んだことすら誰にも気づかれないに違いない。班の皆は親の権力で、孤児でありなんの力もない鍵音の行方不明などは揉み消せる。
「いや! いやだ、嫌だよぅ。こんなことってある? 私はゴミなの? ううん、誰にも知られることがないなんて粗大ゴミ以下だよぅ」
少なくとも粗大ゴミなら、場所を取って邪魔だと認識される。鍵音のように空気のような存在ではない。人間であるのに粗大ゴミに負ける存在とはどんなものなのか泣きたくなる。
だが、ここで泣き言を口にしても何も変わらないことは分かっているため、必死になって駆け抜けて━━━森が急に開けた。
そしてそれは死刑宣告でもあった。
「う、い、行き止まり………そんな………どこまで、どこまで私は不幸なのぅ」
額からポタポタと汗が流れていき、荒げた息で老婆のようにゼェゼェと呼吸しながら、心臓が破裂しそうなほどに苦しい。足が砕けるかのように力が失われて崩れ落ちそうになる。魔物の足は遅いとはいえ、生粋の狩人は獲物を決して逃さないだろう。
眼前には湖があった。森林の少し開けた場所に小さな空き地があり、湖面が凪いで静かな湖が。こんな時でもなければ、ダンジョンでなければピクニックをしたくなる優しい光景だ。
鍵音にとっては死刑場も同然だが。湖に入って泳ぐことは考えられない。確実に魔物が棲息してるし、それでなくてももはやそんな体力もない。そもそも鍵音は泳げなかった。
「な、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで。私がそんな悪いことをしたの? 前世は極悪人だったとか? それでなくても前世の罪の清算とか、自己破産するから冥土の役所を教えてよね……はは……は?」
世界を憎むかのようにブツブツと呟いて、追いかけてくる魔物に生きながら食われるくらいなら自殺をしようかと考え始めて━━。
水辺近くで何かがキラリと光ったことに気づく。その光は単なる日差しの照り返しなのかもしれない。だが、鍵音はなぜかその光に魅入られて、一歩、また一歩と近づく。光の先には小指の先ほどの大きさの六面体の水晶が転がっていた。
「これ、これ、これは、あわわわ、これ、もしかして、もしかして」
信じられないと言葉を震わせて、そっと水晶を手に取る。水晶からはほんの少しも魔力を感じない。これがダンジョンの外なら、無視して通り過ぎるだろう。
だがこの形はとても似ている。書物で見たことがあるし、テレビに出演していたハンターがそっくりな物を見せていた。
そして、ここはダンジョンだ。しかも最下層。時折レアなアイテムが落ちている危険地帯。
なによりも自身の予想通りの物だと信じたかった。そうでなければ、この絶体絶命の危機を免れることは不可能だ。
「こここ、これは召喚石。しょそょしょそょ召喚石。うん、間違いない、間違いないから……なにか出てきて〜。わたしをわてしにょたしゅけてー!」
段々と近づいてくる足音に恐怖しパニクりながら叫び、最後に残った魔力を水晶に送り込む。これが本当にただの水晶なら無駄なことをして死期を早めただけだが躊躇うことはない。どうせ魔力が残っていても、数分寿命が延びるだけだろうから。
神でも悪魔でもなんでも良い。いくらでも祈るからこの水晶が召喚石であることにしてほしい。最下層に落ちている召喚石なんだから、私を助けることができる可能性が高いと信じたい。
そして、鍵音の魔力が水のように水晶に吸い込まれていき━━なにも起こらなかった。
「だ、だめか。ははは、そうだよね……まぁ、そうですよね……私みたいな全ての不幸を担いで生きているような人間にそんな幸運が訪れるわけがなかったんだ……私はダンジョンで死ぬんだぁ〜、………えっ!?」
力なくへたり込み、泣こうとすると水晶から強烈な光が放たれた。その光は昼の森林を模している周囲を白い光で染めていき、水晶の上に複雑な模様と文字で描かれる魔法陣が発生すると、その人は現れた。
水中から浮き出てくるように、青みがかかった黒髪を靡かせて、光の翼で身体を抱え込み、その少女は姿を見せる。
「わ、わぁ、め、女神さま?」
その少女は美しかった。祈りを捧げているように目を閉じているが、その小顔の顔立ちは全てが完璧に作られたかのような美しさだ。身を包む翼が開いていき、その均整な体つきが目に入る。その身体はレオタードにも似た肌にピッタリと張り付くスーツを着ており、年若く清楚な雰囲気の中でもヘソの部分が開いており、肌の露出が多く、扇情的な妖しい空気も醸し出していた。
光で作られた翼をゆっくりと広げて、フワリと優雅に地上に降り立つと、思わず口をぽかんと開けて見惚れていた鍵音の前に跪く。
「私を召喚していただきありがとうございます。貴女が私のマスターでよろしいでしょうか?」
ニコリと微笑まれて、慌ててワタワタと手を振ってしまう。
「へ? ま、ま、ますたー? わ、た、わたしが? は、はいっ、へいっ! わたしがあなたのましゅたーで」
「ウォォォォォ!」
触れてはいけない存在にも見える少女を前に動揺し混乱するが、正気に戻したのはこの状況をもたらした咆哮であった。振り向くと人間ではあり得ない4メートルはある背丈の大男だった。腰巻きをしただけの半裸の大男は人間ではない証拠にふたつの頭を生やしていた。
「ひゃっ! あわわわ、『ツインヘッドオーガ』においつつつつかかか」
召喚はできたが、現れたのは自分と歳の差が大差ないか弱そうな少女だ。自分が想像していたのは、強力な魔物だ。炎を吐く狼や大斧を持つ牛男。リュックも持てなさそうな少女では断じて無い。
ガタガタと震えて青褪める鍵音。ツインヘッドオーガの手に持つ棍棒の一撃で今日の夕食のハンバーグになってしまう。
しかし、鍵音の前にスッと少女が立つと、見惚れてしまう美しさの微笑みを見せて口を開く。
「あれを倒せばよろしいでしょうか?」
「へ? へいっ、でででも、あ、あいちゅ強くて」
まったく太刀打ちできそうにない。が、青褪める鍵音とは正反対に、微笑みながら少女はツインヘッドオーガに向き直ると、翼を大きく広げる。
「畏まりました。では片付けます」
小さな荷物でも片付けるかのように言うと、少女が開いた光の翼が大きくはためき━━━純白の光を纏わせた暴風が巻き起こった。
その暴風はツインヘッドオーガを巻き込み、鉄よりも頑丈であるはずの肉体を一瞬で切り刻み、なおも途上にある草むらもツインヘッドオーガの後方にある木々も全てを吹き飛ばしてしまうのだった。
「あわわわ、えぇ〜。なに、この威力……ツインヘッドオーガはBランクのパーティーでなんとか倒せる強さなのに……」
信じられない思いで、光の風により吹き飛んで綺麗に更地となった攻撃跡を見て唖然としてしまう。
その光景を見ている鍵音の前に、優雅に片膝をつくと少女は微笑む。
「ソロモン72柱の1柱、マナ・フラウロスと申します。どうかこの私とご契約していただけますか?」
それが本屋鍵音とマナ・フラウロスの出会いだった。