第八章|仮収容区画:透過寮ユ=フィーネ
目が覚めても、夢の中にいるようだった。
天井には照明の輪郭が見えない。
だが、空間は白く照らされていた。まるで光そのものが空気に溶け込んでいるかのように、柔らかく、しかしどこか人工的に。
葉月は、無音の空間に戸惑いながら上体を起こした。
ベッドは一枚の板のように滑らかで、角という角がなかった。
布団と呼べるものも、まるで空調のように一定の温度を保っていて、包まれる感覚が希薄だった。
壁には繋ぎ目がなく、装飾もない。
無彩色の無機質な箱の中にいるようだった。
ただ、床と壁の境界に沿ってごく細い光のラインが走っており、それだけがこの空間が“意図されて設計されたもの”だという痕跡だった。
窓のようなものがある。
けれど外は見えない。そこでは淡く水色の光が揺れ、まるで深海のような錯覚を与えていた。
――静かすぎる。
空気は動いているはずなのに、風の音も、機械の振動も、まったく聞こえない。
自分の鼓動と呼吸だけが、この空間に存在していた。
卓上にカードと薄い端末が置かれているのに気づく。
葉月はそっと端末に触れた。
その瞬間、光が走る。
表示されたのは、見たこともない文字列だった。
曲線と直線、幾何学的な記号がいくつも並んでいて、まったく意味がつかめない。
(ナニコレ……読めない……)
そう思った瞬間――
文字列が波紋のように揺れ、目の前で“切り替わった”。
意味のなかった記号群が、まるでこちらの言語を「読み取った」かのように、見慣れた形へと再構成されていく。
(……え……)
目を凝らすまでもなく、それは自分が読める言語になっていた。
翻訳ではない。“最初からそうであったかのように”自然に。
そこに、彼女ははじめて、
この空間――この場所が持つ、計り知れない文明の深さを垣間見た。
仮登録コード:N-X / 仮滞在認可:透過寮ユ=フィーネ 16-04
・現在あなたはGIA保護対象として一時的な生活環境に移行しています。
・安全保障のため、個室環境内においても映像・音声記録が行われています。
・質問・要望は卓上の端末より申請してください。
・危害・逃走・自傷の兆候が確認された場合、即時隔離処置に移行されます。
(保護……? 誰に? 何から……?)
端末の冷たい光が、現実を容赦なく突きつけてくる。
彼女はひとつ息を飲んで、機械音声の案内に耳を傾ける。
《現在の仮環境はユ=フィーネ仮区画 第16列4番個室です》
《食事は自動搬送式。申請により内容変更可能》
《自由時間内の移動は不可。視聴・読書・自己課題より選択を》
《面談および評価のため、規定時刻に対応をお願いします》
ただの音声なのに、どこか“人の手”が介在していないような、
完璧に最適化された冷たさがあった。
しばらく、葉月は身を縮めて座ったまま動けなかった。
思い出すのは、仮面の集団、炎のゆらめき、空間がねじれる感覚、そして“見られた”あの瞬間――
あれは現実だったのか。幻だったのか。
確かにあったのに、言葉では説明できない。
そのことが、いちばん怖かった。
「……ここ、どこなの」
小さくつぶやく。
だが声は反響しなかった。
音すら、この場所に拒まれている気がした。
そのとき、端末がわずかに明滅した。
面談申請通知|担当官:オスカー・ヘイズ
本日 第二周期・第六刻、面談室リンク開通
名前を見た瞬間、何かが引っかかった。
知らない名前のはずなのに、なぜか“知っている”ような感覚があった。
あのとき、何者かが呼びかけてきた声――
その輪郭が、重なっているような気がした。
それが誰であれ。
それが何であれ。
この沈黙の中で、最初に“名前”を持った存在だった。