第六章|隔離処理室ト=イナス19
光が白すぎた。
目を開けた瞬間、視界が焼かれるような錯覚を覚えた。
人工的な白。それ以外の言葉が見つからない。
天井も、壁も、床も、ベッドすら――すべてが、まるで存在の影を許していないようだった。
葉月は、自分がどこにいるのかわからなかった。
けれど、ここが現実だということだけは、皮膚の感覚が告げていた。
布のざらつき、喉の乾き、腹の奥に残る冷えたような緊張。
それらすべてが、夢ではないと主張していた。
「――目覚めたな」
声が降ってきた。
振り向くと、部屋の端に立つ人物――フードを被った黒衣の存在がいた。
あの森で、霧の中から現れた者だ。
視線の奥に、記憶の薄い刃が走る。
「……あんた……あんた、森で……」
「F-89。そう呼ばれている。GIA観測子階級。個体識別番号での呼称が許可されている」
「GIA……観測……なにそれ……ここどこなの……?」
葉月の声は震えていた。
身体が震えているというより、“言葉”そのものが震えていた。
「現在、おまえは隔離領域ト=イナス19に保護されている。
干渉処理がなされた状態で、zərf波による追跡は遮断済みだ」
「遮断って……わかんないよ、何も……! あたし……なんでここにいるの!? どうやって来たの!? あたし、電車に乗ってただけで――!」
葉月は思い出そうとした。
けれど、思い出せば思い出すほど、すべてが歪んでいった。
異様な空間、祈る声、円陣、仮面――
あの異常な視線を、もう一度感じた気がして、思わず身体を抱きしめる。
「おまえが通ったのは、“通るはずのない座標”だった。
本来、迷入者は安定領域に誘導されるはずが、座標断裂により誤接続が発生した。
zərf波の反応変調により、おまえは不安定領域――儀式空間を経由した」
「だからそれが何!? 通るはずがないとか、断裂とか……! 知らないってば……っ」
葉月は立ち上がろうとしたが、足元がぐらついた。
恐怖でも、混乱でもない。“何も分からない”ことの絶望が、身体を締めつけた。
「おまえは“記録不能個体”と認定されている。
名前、属性、来歴――あらゆる識別要素が、記録として固定されていない。
それゆえに、視認した者によって記録が上書きされる危険がある」
「記録ってなに……!? 名前を知られてるとか、忘れられてるとかじゃなくて、
“記録される”って、どういうことなの……っ」
「“存在を証明される”ということだ。
あの者たち――Δ系列の階層構成体は、存在の根拠を他者の記録によって成立させている。
おまえのような不定存在は、視られた瞬間に“組み込まれる”」
葉月は言葉を失った。
ただ、冷たい汗が背中を流れていくのを感じた。
「……なんで……あたしが……そんなの、関係ない……!」
「zərfを使ったからだ」
「使ってない! あたしそんなの知らない! 使った覚えなんか……!」
「意図の有無は関係ない。“言語”のようなものだ。
意識せずとも、思考に沿ってzərfは作用する。
それがおまえの迷入反応だ」
葉月は、もう言葉を発することができなかった。
思考の流れに、別の言語が入り込み、自分の言葉を駆逐していく。
“この世界のルール”が、彼女を圧し潰そうとしていた。
それでも、かすれるような声で言った。
「……帰れるの……?」
F-89は、少しだけ間を置いた。
「現在、おまえの帰還は不可能とされている。
座標再接続の条件が整わず、識別処理も終了していない。
上位判断により、再分類および帰還可否が決定されるまで、この領域での安定を優先する」
「……あたしの……名前、聞かないの……?」
長い沈黙が落ちた。
F-89は、顔を上げることなく言った。
「必要ない。
ここでは“名前を記録すること”が、逆におまえの存在を危うくする」
彼女の中にある常識が、ひとつひとつ、溶けていくような音がした。