第五章|霧の中の名もなき者
森は沈黙していた。
まるで言葉を持たない生き物の内臓に、足を踏み入れてしまったような感覚だった。
葉月は、折れた枝を踏みしめながら歩いていた。
右足首の痛みは薄れてきたものの、踏み出すたびに鈍い痛みが走る。
それでも立ち止まることはできなかった。
何かが、確かに後ろから近づいてきている気がした。
(ぜったい、誰かいる……)
空気が揺れていた。
気温ではなく、構造そのものが。
視界の端に、影のような何かが浮かんでは消えた。
その瞬間だった。
「――そこに立ち止まるな。位置を明け渡せ」
耳のすぐ脇で声がした。
振り返っても、誰もいない。
だが、霧の向こう、一本の古木の影に、黒衣の人物が立っていた。
顔は見えない。
フードが深く被られ、目すら映らない。
だが、ただの人間ではないと直感した。
「おまえはこの座標群に属していない。記録名のない侵入者だ」
「……っは? 誰……? ここって、どこなの……? あたし、ただ……」
「転位反応あり。非安定型。zərf経由での迷入と判断される」
「意味、わかんないって……!」
怖かった。
言っていることも、存在そのものも、何もかもが。
葉月は一歩後ずさり、枝に背を打ちつけた。
黒衣の者は数歩、音もなく近づいた。
足音は一切なく、霧の中で地面と一体化しているようだった。
「この地点は交戦予測範囲に入っている。おまえをここに残すことはできない。手を見せろ」
「交戦……!? 誰が誰と……!?」
「速やかに従え。これは保護処置だ。記録されるより先に、おまえを隔離する」
そのとき。
空気が歪んだ。
「なに……」
葉月が問う暇もなく、霧の奥に裂け目のようなものが生じた。
そこから、銀色の仮面が現れる。
装束は黒。質感は硬質で、兵士とも僧侶ともつかない。
肩に刻まれた三角形と数字の記号――Δ7。
「視認済み。対象座標、特定。補足開始」
声は機械的で、抑揚がなく、冷たかった。
それでも、仮面の奥にある“意思”だけは確かに感じられる。
「……! あれ、なに!? あれが、何を――」
「敵意は不明だが、接触意図は明確だ。おまえを視た存在は、必ず“記録”に組み込もうとする」
「記録って、なに!? どういうこと……」
「説明は後だ。逃げろ。視線を向けるな。応じれば記録される」
黒衣――F-89が片手を翳す。
空中に紋様が浮かび、葉月の足元に輪が描かれる。
「なに……いまの……」
「干渉処理だ。おまえの記録領域を一時保護する」
葉月の目に、フラッシュのような映像が走った。
まぶたの裏に、またステータス画面のような何かがちらつく。
数値、赤いバー、未知の言語。
「やめて……なにか入ってくる……!」
Δ7が滑るように迫ってくる。
霧は裂け、空間が軋み、地面が歪んだ。
「接触――」
その瞬間、F-89が葉月の手を掴んだ。
強くではない。ただ、確かにそこにいると伝えるように。
「選ぶな。反応するな。いまは、逃げろ」
視界が、裏返った。
音がすべて遠ざかり、重力が斜めに傾く。
葉月の身体が霧に飲まれる直前、Δ7の仮面が彼女を正面から見ていた。
そして、言葉が聞こえた。
記録不能コード:N-X
状態:不定座標
追跡:継続中
通知:上位階層へ送信