第三章|迷入者対応、フェイズ1
GIA中央本部・記録統合階層。
数百もの演算ノードが並ぶ中、ただ一つのモニターに全注意が集まっていた。
波形。Zərfパターン。群境の歪曲マップ。
教団側の動き。断続的な視線痕。
そして――“それ”の記録不能波。
記録不能 [N-X]
区分:迷入体(非登録群生命体)
状態:不定/視認:教団儀式空間にて
位相:非安定化/因果座標:一時的重複
判定:記録対象候補(※記録構造との接続失敗)
その画面の前に立つ一人の男の存在が、室内の温度を変えていた。
オスカー・ヘイズ。
記録統括官。GIA最深記録局の責任者。
群境観測の第一人者にして、無数の“記録不能”と向き合ってきた伝説的職員。
白髪交じりの短髪。無表情の奥に、沈殿した熱を宿したような瞳。
その目が、今はただ一点――モニターの中央に表示された「N-X」の三文字に釘付けになっていた。
「記録不能……この構造は“Nulltrace”と見ていいだろう」
周囲の分析官たちが固唾を飲む。
中には、まだ彼と直接顔を合わせたことのない若手もいた。
だが、誰もが噂を知っていた。
“記録者の王”――その異名を、彼は好んでいない。
だが、最も多くの「存在に意味を与えた」人物であることに異論を挟む者はいない。
「迷入か。それとも……転落か」
ヘイズは静かに言葉を漏らす。
「この信号には、意図がない。
それなのに、教団のほうが“反応”している。つまり、彼らが視た。記録より先に、視たのだ」
「……記録者たちよりも早く、“意味付け”が行われてしまったということですか」
後方で控えていた分析官が応じる。
肩にかけた識別パッチには「I-12」の文字。
「ええ。あの教団が、自発的に“視返し”に動いたのは初です。
しかもN-Xは、事案の最中に我々のZərf構造に干渉せず、外部から直接現れました。
群境からの異常転移と断定されます」
「無論だ」
ヘイズの言葉にかぶせるように、隣接した会議ブロックの壁が開く。
中から複数の高官と技術局長が姿を現すが、誰も彼の判断を疑わない。
「問題は、“視られた”という事実。
あれが我々にとって未定義であるように、向こうにとっても未定義である。
だが教団は、未定義を許さない。意味づけと同化が、彼らの信仰だ。
“主の座を視た”というだけで、粛清が始まる」
再度モニターが切り替わり、映し出されたのは礼拝殿の断片映像。
映像解析が進まず、無数のノイズが波打つ。
だがその中央、白い衣を纏った祈祷官と、フードを被った者たちが並ぶ輪郭は、確かに見えた。
【推定:視返しの儀】
儀式変質確認。教団側、迷入者の特定と追跡に移行。
「放っておけば、“あれ”は向こうの記録で定義されてしまう。
それは、我々の敗北だ」
ヘイズはゆっくりと腰を下ろし、掌をモニターにかざす。
彼の端末が起動する。
「現地対応は?」
「――オペレーター《F-89》が出動中。すでに座標帯A5に進入しました」
「F-89か」
わずかに口角が上がる。
「あの者は“観測の前に立つ者”だ。記録とは何かを、よく理解している。
――最初に視る者が、意味を与える。
それを彼は実践してきた。ならば、あれを視る資格がある」
◆
同時刻、霧に包まれた岩地帯――群境A帯座標A5。
気圧が落ちたような沈黙。
空間の端が歪んで見える。地平線の先が微かに螺旋を描いている。
黒衣の人物が、静かにそこに立っていた。
フードの奥、目は閉じている。風の音すら聞こえない。
F-89。
GIA現地対応オペレーター。
無数の迷入者、異端、記録不能事案を前線で“見てきた”記録者。
端末からの指示が振動と共に伝わる。
接触対象:迷入者N-X
状態:未記録/生存率:中
教団接触兆候あり。
優先任務:視認・意味化・保護。
F-89は歩き出す。
靴が土を踏む音も、やがて霧に吸い込まれる。
彼は考えていた。
この空間に“落ちた”誰か。
記録されていない存在が、教団の祈りを“視て”しまったこと。
その意味。
(記録とは、死を避ける手段ではない。
だが――意味を与えることで、生を編むことはできる)
彼は、意味を与えるために歩く。
記録の最前線は、戦場ではない。
だが、“遅れた者は、定義できない”。
迷入者が視た世界の前に。
教団の刃が届くよりも早く。
その者に、名前を与えるために――
F-89は霧の向こうへ、姿を消した。