第三十三章|記録の門出
――GIA本部・記録局個人認証室。
重厚な構文障壁に囲まれた静謐な空間。
中枢デバイスからは、常時微弱なザルフ波が流れ出し、存在の輪郭を淡く照らしていた。
葉月は、認証台の前に立っていた。
白い制服に着替えた彼女の姿には、まだどこか不安定な影が残っている。
だが、その瞳には確かな意志が宿り始めていた。
向かい側にはオスカー・ヘイズ。
その手には、封印コードで封じられた薄い書状と、黒地に金の構文が刻まれたコードプレートがあった。
「これが君の“初期コード”だ。
今日から君は、コードで呼ばれる存在になる」
葉月は小さく息を呑み、視線を落とした。
「……名前って、必要ないんですね」
「名前は、“元いた世界”での君を示す印だった。
だがここでは、新たな記録が始まる。記録とは、過去を捨てることではなく、未来に備えることだ」
オスカーの言葉に、葉月はそっと頷く。
「……私は、もう“葉月”じゃないんですね」
「君がそれを望むなら、そうだ。だが、忘れる必要はない。
名前は、どこかに記しておけばいい。思い出したいときのために」
少しの沈黙ののち、オスカーは記録プレートを差し出した。
「初期コード《NX-HZ-09》。
それが、君の存在を“この世界に記す”ための印だ」
葉月は両手でそれを受け取り、胸の前で静かに見つめた。
「……NX、HZ、09……」
言葉にするたびに、自分が新しい何かへと歩み始めたような感覚が生まれてくる。
「同時に、これは“推薦書”だ。記録官育成機構への案内文が含まれている。
君が望むなら、記録者としての道を歩むこともできる」
葉月は、もう一度だけ迷うようにオスカーの目を見た。
「私、できますか?」
「記す者に“資格”はない。ただ、“覚悟”があるかだけだ。
君が“見たもの”と“感じたこと”を、誰かに残したいと願うなら……それで十分だ」
そう答えるオスカーの声は、穏やかで、どこまでも確かなものだった。
認証台の奥の扉が、自動的に開く。
まばゆい光が差し込み、外の回廊へとつながっている。
葉月は、プレートと書状を抱えたまま、無言でその扉へと歩を進める。
ひとつ、またひとつ。
白い床に足音が刻まれ、やがてその姿が光の中へと溶けていく。
オスカーは、その背を見送っていた。
彼女はもう、過去を振り返らない。
今ここに、“ひとりの記録者候補”が誕生した。




