第二章|主の座を汚す者
黒曜石で築かれた礼拝殿の奥、祈祷官《●03》はまだ膝をついたままだった。
儀式の失敗ではない。
だが、完遂でもなかった。
祈りは届かなかった。
ではなく、祈りの座に異物が触れた。
「在らざる者……」
ゆっくりと口の中で繰り返す。
その発音は、彼の舌の上ですら拒まれそうな異質を孕んでいた。
祭壇の松明はすでに消されている。
空間は月光と、天井に埋め込まれた石灯だけに照らされ、柔らかな薄明が礼拝殿を満たしていた。
中央の広間では、今なお数十人の信者が沈黙している。
誰も騒がない。怒らない。逃げない。
“異端が混じった”という重大な事実に、ただ沈黙で向き合っていた。
「我らが主《Ṯa-Kḥār》は言葉を持たず、意志のみで示される」
●03は静かに立ち上がり、振り返る。
その顔はフードに覆われて見えないが、声音だけで場に緊張が走った。
「だが……いま、意志は濁った。
われらが主の座、その縁に……視られてはならぬ目が触れたのだ」
誰かが微かに息を飲む音が響いた。
別の祈祷官、識別《●19》が一歩前に出る。
「あれは……“迷入者”にございますか?」
「いや。迷入ではない。
落ちてきたのだ。群境の裂け目から。
こちらに在るべきではないものが、我らが式典空間に墜ちた」
●03は言い切った。
「そして、“視た”。
我らが祈祷──昇格の途上にある者の内奥を。
主の座の端を。
言葉にできぬ記録の座を。
それは穢れだ。」
次の瞬間、背後にいた一人の信者が膝をついた。
「では……消しますか。
あるいは、連れ戻し、主に奉じて――」
「待て」
●03は手を挙げ、空気を断ち切るように言った。
「記録者たちが動くだろう。
我らより速く、あれを“記録”するつもりだ。
ならば――」
その声が沈んだ瞬間、礼拝殿の床下で何かが震えた。
Zərfでもない。祈祷波でもない。
呼吸のような、深い、うごめく気配。
「……ならば、我らが先んじねばなるまい」
●03のフードの奥で、目が光ったように見えた。
「視られたのなら、視返さねばならぬ。
主の意志を汚した者がどこへ行こうと――記録が完了する前に」
彼の背後、闇に溶け込むようにして、一人の影が現れた。
影はひざまずき、無言で頷いた。
その手には、“座標追尾の印”が刻まれた札のようなものが握られている。
「行け。《Δ7》。
次なる儀式を準備せよ。
“視返し”の儀を以って、迷入者を主の領分に戻せ」
静かに足音が消えていく。
●03は再び、祭壇に向き直る。
「……これより、“浄祓”の手筈に入る。
その者の名は、まだ知らぬ。
だが、その存在が記録されるより前に――主のため、消去しよう」
フードを被った者たちが一斉に立ち上がった。
その動きには言葉がない。
だが全員が、何かを“探す”準備を始めていた。
それは、弾劾の続きではない。
昇格の儀でもない。
これは、記録に先んじるための“儀式”だった。