第二十章|コード:N-X
静けさ。
目を閉じれば、ただそれだけが広がっていた。
葉月はひとり、何もない空間に横たわっていた。
柔らかいのか、硬いのか、それさえもよく分からない足元の感触。上下の境界も曖昧で、白とも灰ともつかない光が空間の隅々を満たしていた。
思考は濁っていた。
……ここはどこだろう。
……いつから私は、ここにいるんだっけ。
まぶたを開けても、何もない。
最初は恐怖もあった。
でも、それすらも徐々に、薄れていく。
まるで、ここに長くいすぎて、自分の形があいまいになっていくような――そんな感覚だった。
ぼんやりと、記憶を辿る。
最後に見た景色は、眩しい光だったような。
それから何かが、意識の奥に触れた気がする。
でも――。
「あ……もしかして、私、死んでたのかな」
ぽつりとこぼれた独り言が、やけに現実味を帯びて響いた。
誰も来ない。何も起こらない。これが夢だとしたら、随分と残酷だ。
「あれもやりたかったな、これもやりたかったな……やり残したこと、まだたくさんあるなぁ……」
ふと、誰かの顔を思い出そうとしたが、霞がかったように掴めなかった。
名前すら出てこない。
胸の奥がじわりと痛んだ。
そのときだった。
空間の奥に、ふっと揺れるような波が走った。
耳ではなく、意識の奥で何かが触れた。
『……N-X、識別応答を確認』
低く、抑揚の少ない声だった。
けれど、それは紛れもなく知っている声。
オスカー。
確信はない。でも、わかった。
『こちら、GIA観測域管理中枢。現在、微弱ながら意識波形を捕捉。状況は認識済み』
まるで……コード通信みたいだ。
感情もなく、短い文節だけで構成された“軍事的な言葉”。
でも、その無機質なやりとりが、逆に安心感をくれた。
“存在を認識されている”という実感が、胸にひとすじ灯る。
『N-X、現在位置は座標干渉外。引き続き経路解析中。応答継続を推奨する』
その瞬間、葉月の視界に淡く光の粒が広がり、通信が途切れた。
「……今の、ほんとに……?」
自分に問いかけた。
けれど、それが幻でも、希望でも――どちらでもよかった。
「助けて」
彼女は、ただ、そうつぶやいた。
そしてもう一度、ザルフを念じた。
これまでに何度も失敗したあの方法を、もう一度だけ。
「助けて。助けて」
声は出ていない。けれど、強く、心の奥で叫んだ。
⸻
教団・監視部門
金属質の仄暗い部屋に、警告音が微かに鳴り響く。
壁面の数枚のモニターには、無数の波形と図像が刻々と変化しながら映し出されていた。
「報告。精神領域内における外部波形の侵入を確認。断片的な交信ログあり。識別コード:N-X」
「発信元は?」
「不明。が……構造解析よりGIA由来の観測干渉と思われます」
報告を受けた記録担当が眉をしかめ、淡々と指を走らせる。
モニターに映る葉月の意識領域は、赤黒いグラデーションでじんわりと染まっていた。
「……遮断済みの領域だ。通常であれば干渉は弾かれる」
「それでも波形は届いた。強制的な挿入の痕跡があります。
一瞬だったが、意識核まで到達していた可能性も」
「記録を保存しろ。最優先で波形解析班に送れ」
別の監視官が低くつぶやいた。
「――観測されていた、ということか」
部屋の空気が、一瞬だけ重くなる。
他の誰も、声を発さない。
ただ、その意味の重さを、黙って共有していた。
「この個体、少し扱いを見誤ったかもしれんな。
いずれ、《Δ08》への通達も視野に入れておけ」
その名が出た瞬間、誰かがわずかに息を呑む音がした。
「《Δ08》はすでに行動規制を解いたばかりです。投入すれば、今度こそ後戻りは――」
「わかっている。だがこちらも遊びではない。
“主(Ṯa-Kḥār)”に視られたというなら――あれを鎮めるのもまた、我らの務めだ」
再び静寂が落ちる。
端末が、ただ淡々と波形データを記録し続けていた。




