第十二章|記録不能対象に対する初期適応訓練
白い静けさのなか、扉が音もなく閉じた。
部屋の中央には葉月、そしてその向かいにオスカー・ヘイズ。
その場は、対話のために設けられたものであるはずだった。
だが、葉月は感じていた――あの仄暗い儀式空間よりも、今のほうがよほど自分の心を深く見透かされているようだ、と。
「ここに来てから何日経ったのか、わかるか?」
淡々とした問いに、葉月はわずかに首を振った。
食事の回数で数えようとしたが、あまりに規則正しく、時差も感覚もぼやけていた。
「三日と五時間。
身体機能の安定を確認してから、接触の手続きを取った」
「……接触?」
「こうして、面談という形で話すこともその一部だ。
だが今日の主目的は、君に“Zərf”の初期適応訓練を受けてもらうことにある」
葉月は言葉を失った。
「ザルフ」――それは彼らが、しきりに使う言葉。だが、正体はまだ知らない。
オスカーが続ける。
「君は“通るはずのない座標”を経由した。
その事実だけで、GIA内部では君を“Exol-Karmaの回し者”ではないかと疑う声がある」
「……なにそれ。“何とかの回し者”って、意味わかんないんだけど」
「当然だ。組織は理で動く。
あの教団の内部に、迷い込むだけで済んだ者など前例がない。
君が無事であること自体が、不信の対象になる」
葉月は答えなかった。
言葉が喉の奥で引っかかったまま、視線だけがテーブル上を彷徨った。
「だが私は、君を“故意の関与者”とは見ていない。
むしろその逆だ。
君が“意図せず視られた”ことに、教団の連中すら動揺していたのを、我々は観測している」
「じゃあ……どうすればいいの?」
「君が、自分の意志でGIAとの接続を試み、証明するしかない。
“無関係であること”は証明できないが――“味方であること”なら、示せる」
その言葉と共に、オスカーが指先で卓上端末を操作する。
すぐに葉月の前方に、半透明のパネルが立ち上がった。
そこに、またしても見慣れない幾何学模様の文字列が浮かび上がる。
「……また読めないやつ……」
思わず葉月がつぶやいた瞬間、パネルの文字がにじむように変化した。
線が解け、文字が崩れ、そして――
《ZƏRF:意識接続訓練モード / 第一段階へ移行します》
葉月の目に、馴染みのある言語が浮かび上がった。
「ナニコレ……」
オスカーが淡々と答える。
「Zərf――緊急通報のようなものだ。
ただし音声や動作ではなく、“意識”を通じて行われる。
危険を感じたとき、強く念じること。
それだけで、我々に届く。君がどこにいようと」
葉月は戸惑いながらパネルを見つめた。
まるでSF映画の装置に囲まれているような気分だったが、それが“安全”と直結しているというだけで、ほんの少しだけ息がしやすくなる気がした。
「……そんなの、できるの?」
「訓練すれば、できるようになる。
ただし、意思は正直だ。
ごまかそうとしても、ザルフには伝わらない。
恐怖か、怒りか、祈りか――何を発しても構わない。
だが“本気”でなければ、通じない」
葉月はじっとパネルを見つめていた。
そこに映る文字はもう見慣れたものになっていたが、その意味はまだ遠かった。
(本気で……助けて、って……)
心のなかで反芻した言葉は、まるで自分自身の過去を問い直してくるようだった。
“誰かに助けを求めたことなんて、あっただろうか?”
「君に与えられている時間は、長くはない」
オスカーの声が、ほんの少しだけ優しかった。
「これは組織の都合だ。
無関係であるなら、そう証明してくれ。
そうでなければ――君は、教団に近しい者として“処理”される対象になる」
葉月はその言葉に目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
思えば、こちらに来てからずっとそうだった。理解できない言葉、通じない空気。
でも今、ようやく「何を求められているか」が、はっきりわかってきた気がする。
「……わかった。やってみる」
オスカーは短くうなずいた。
「君のコードは《N-X》。
記録不能個体として処理されかけた君を、私は保留にした。
理由は単純だ――“まだ判断できない”からだ。
だが判断できるようになるのは、他でもない君自身だ。
君が、自分を“どう証明するか”によって決まる」
その言葉と共に、ザルフの訓練画面が新たなステップへ移行する。
柔らかな光が葉月の目の前を包み、パネルが薄く発光した。
その中央に、青い文字が浮かぶ。
《ZƏRF起動確認中——意識同期率:12%》
部屋には静寂が満ちた。
けれど葉月の胸の内では、ゆっくりと“何か”が、確実に始まりつつあった。