第十一章|裁定なき使命
沈黙は深く、まるでこの殿堂そのものが思考しているかのようだった。
灰を含んだ空気が、祭壇の周囲にうっすらと降り積もる。
祈祷官たちは円環状に並び、未だ消えぬ“視られた者”の余韻に囚われていた。
視線。
吐息。
呼吸の微細な変化が、上層の祈祷官たちの間で交わされていく。
明確な言葉は存在しない。
だが、彼らは理解していた。
一瞬の視線の交差――《†03》と《†05》、そして《†07》。
仮面の奥に潜む理性が、それぞれに同じ結論を下していた。
《Δ08》を使えばいい。
彼が動けば、我らは手を汚さずに済む。
言葉にすればあまりに醜い。
しかし、教団の秩序を保つには、時に“信仰の狂気”を利用することも、必要だった。
それを察したかのように、《†05》が穏やかに言葉を発した。
「……我々に与えられたのではないか、と思うのだ」
その一言が、祈祷官たちの思考を音として解き放った。
「我らが予測し得ぬ異物。
予告なき干渉。
そして、神の視線を受けた存在」
《†07》が応じる。
「それは、啓示ではなく――試練。
信仰が揺らぐか否かを、神は見ておられる」
《Δ08》はわずかに身を震わせた。
その仮面の奥、燃え上がるような光が灯る。
「……私は、まだ試されるというのか……?」
《†03》が静かに告げた。
「我々は誰も、決して神の意志を正確に知ることはできない。
それでも、神の記録に忠実であろうと努めるのみ」
その時だった。
《Δ08》が一歩、前に出た。
その姿勢には、血が滲むような決意が宿っていた。
「我に――裁定を」
「……」
「その者を追い、神が何を記録されたのかを確かめる。
この身をもって、真意を明かす」
彼の声は、祈りでも報告でもない。
**“宣誓”**だった。
しかし、その瞬間――《†06》が制止するように問いかけた。
「……待て。もし、それが――“あのお方”の意志に背く行動だったとしたら?」
殿堂の空気が張り詰める。
“あのお方”――
タ=クハール。
名を語ることさえ禁じられた、教団の絶対的象徴。
その存在に背くという可能性に、《Δ08》が小さく肩を震わせた。
「……そんなはずがない」
「だが、万が一ということもある。
“あのお方”が、その者に視線を注がれたのだとすれば――
それは我々の理解を超えた、何らかの選別かもしれぬ」
《Δ08》は声を震わせながらも、振り絞るように叫んだ。
「そんなわけが……そんなはずがないだろう……!」
「……」
「私は……ずっと、祈ってきた……!
夜ごと皮膚を裂き、骨の奥にまで誓文を刻んできた!
記憶を削り、家族を捨て、名を捨て、ただ神に記録されるために……!」
その叫びに、誰も返す言葉を持たなかった。
《Δ08》は、絶望の淵に立ちながらも、信仰の刃を振りかざしている。
その姿こそが、まさしく“選ばれなかった者”の業だった。
《†03》が、再び前に出る。
「命は下さぬ。
だが――止めることもしない。
汝が信じる道が、神の記録に連なっていると確信するならば……進め」
《Δ08》は、息を飲んだ。
そして静かに頭を垂れ、言った。
「我が魂の最後の頁を、神の記録に捧げます」
その言葉は、誰の胸にも刺さらなかった。
しかし、それを止める者も、いなかった。
《†03》は一度だけ視線を巡らせ、
祭壇の周囲に立つ上位祈祷官たち――《†05》《†06》《†07》の目を順に見た。
再び、うなずきが交わされる。
“やらせておけばいい。勝手に燃え上がり、勝手に終わる”
そしてその沈黙のあと――
《†05》が、わずかに仮面の奥で口元を緩めた。
「……ふふ」
《†06》がそれに倣い、頬を緩める。
《†07》もまた、目を細め、仮面の縁から微笑をにじませた。
“しめしめ”
“都合のいい狂信者だ”
“これで我々は手を汚さずに済む”
その笑みは、まるで**《Δ08》の忠誠心が滑稽であるかのように**。
いや、それとも――“哀れな道化”が踊ってくれることへの歓待か。
仮面の奥の笑みは、誰にも見えない。
だが、あの石造りの天蓋だけは、静かにそれを見下ろしていた。