第九章|対面記録:迷入者N-X
照明が一度だけ瞬いた。仮滞在室の空間は無音のまま、じわじわと“準備された演出”のように変化していく。
卓上端末が光を帯び、短く振動を返した。
《面談接続準備》
《担当官:オスカー・ヘイズ》
《仮設リンク、起動中》
葉月の目の前の壁がゆっくりと淡く透けていき、やがて一室の仮想空間が浮かび上がる。
シンプルな構成の室内、その向こう側にひとりの男が座っていた。
静かな白髪混じりの黒髪。陰のある目元。
控えめな表情で、ただじっとこちらを見ていた。
「こんにちは、葉月さん」
思っていたよりも、声は柔らかかった。
けれど、どこか研ぎ澄まされた無機質さが底にある。
「共感」ではなく、「理解」からくる落ち着いた抑揚だった。
「私は、GIA所属のオスカー・ヘイズ。
いくつか確認事項があります。少しだけお付き合いください」
葉月は、戸惑いながらわずかに頷いた。
「あなたは現在、“迷入者”として仮登録されています。
個人コードはN-X。滞在区画はユ=フィーネ16-04。
行動制限は制御コードレベル3に準拠しています。
……わかりにくいと思いますが、これはあなたの身の安全を最優先とした設定です」
卓上に置かれた分厚い本が目に入る。
葉月は、それを見て、さらに困惑する。
「なにこれ……?」
「《迷入者対応ファイル:A群用》です」
オスカーはやや間を置いて言った。
「今後の生活や、GIAとの接触についてまとめられています。
難しい内容もあると思いますが……少しずつ、読んでみてください。
あなたの視点で、どう見えるかを知ることにも意味があります」
葉月は言葉を失ったまま、本に視線を落とす。
それがただの“マニュアル”ではないことは直感できた。
「……あたし、帰れるの……?」
小さな声だった。震えも混ざっていた。
問いではなく、ほとんど願いに近かった。
しばしの沈黙のあと、オスカーは静かに言った。
「――可能性は……極めて低いです」
葉月はまばたきもできずに彼を見つめた。
「G群とあなたの出身地であるA群では、構造的な座標が完全に異なります。
今回の“通過”は極めて例外的な事例であり、再現性は……まだ確認されていません」
オスカーは一度言葉を切る。少しだけ、目を伏せて続けた。
「……ごめんなさい。
今、私たちにできるのは、あなたを保護し、観察し、理解を深めることだけです」
それはあまりにも優しく、しかし容赦ない現実だった。
葉月はその言葉を、じわじわと受け止めていくしかなかった。
オスカーは再び視線を戻し、最後にこう言った。
「あなたが、ここでどんな日々を過ごすか。
それによって、見えるものは変わってくると思います。
質問があれば、端末から申請を。私が対応します」
その言葉に、わずかな“人間らしさ”がにじんでいた。
事務的な対応ではあるが、それでも彼なりの誠意が感じられた。
《接続終了まで、残り三十秒》
仮想空間に淡く浮かぶ表示が、葉月の視界の端にちらついている。
葉月は黙ったまま、本をじっと見つめた。
けれど、ふと顔を上げて言った。
「……なんで、そんなに普通なの?」
オスカーは静かに首をかしげた。
「普通、というのは?」
「私、たぶん……あんたたちにとって“おかしな存在”でしょ?
それなのに、まるで“仕事”みたいに、割り切ってて……」
オスカーはしばらく沈黙したのち、わずかに目を細めた。
それは、珍しく感情を帯びた表情だった。
「“おかしな存在”に見えないように、努力しています」
「……は?」
「GIAにいる者たちは、特異な存在を日々見ています。
迷い込んだ人、異なる理を持つ者、言葉が通じない者。
でも、そういう人たちも“どこかで生きてきた”んです」
一瞬、葉月の心に小さな波が立った。
「あなたが“ここに来てしまった”理由を、私たちはまだ知りません。
でも、あなたのせいじゃないかもしれない。
だからこそ、私はまず、あなたを恐れずに見る必要があると思っている」
それは理屈ではあるが、温度のある言葉だった。
葉月は目を伏せ、つぶやいた。
「……あんた、嘘ついてるとかじゃないの?」
「嘘はついていません。
けれど、全てを伝えるには、まだ早いかもしれません」
率直すぎる返答に、葉月は不意に笑った。
それは苦笑というよりも、緊張の隙間に入り込んだ微かな呼吸のようなものだった。
《接続終了まで、残り五秒》
「また会いましょう、葉月さん」
「……うん。たぶん」
ゆっくりと、仮想空間が幕を閉じていく。
透明だった壁が再び不透明な面に戻り、いつもの仮滞在室が静寂を取り戻した。
けれど、その空間は、ほんのわずかに――
人の声が響いた“痕跡”だけを、確かに残していた。