序章|観測不能記録 N-X
一枚のモニターが、異常波形を吐き出していた。
発光を繰り返す画面の奥で、赤黒いノイズが脈打つように揺れている。
その軌跡はまるで、有機体が蠢くような不規則さと、どこかに“理”を孕んだ律動とを同時に持っていた。
ただの機械エラーのようにも見えるが、その裏には確かに、何かを“伝えようとする意思”の輪郭が滲んでいた。
場所は、GIA中央本部。
その中でも限られた職員しか立ち入ることのできない、深層観測セクター。
灰鉄色の壁に囲まれた静寂な通路を、巡回中だった主任は、
その“微細な違和感”に足を止めた。
歩行補助の無音スーツ越しに、何かが肌の下にざわめくような、説明のつかない生理的な異常。
彼女の視線が端末のひとつに引き寄せられる。
「……ザルフ通知か? でも……コードが通ってない」
ディナは眉を寄せる。
Zərf──存在証明波形。
この世界において“在ること”を他者に伝える、最も根本的かつ確実な通信手段。
意志をもってザルフが発信されれば、波形と共に位置座標、発信者情報、さらには断片的な映像や音声が即時にGIA中枢モニターへ跳ね上がってくる。
だが──いま彼女の前にある波形は、明らかに“それ”ではなかった。
意味とノイズの混交物。
構文を拒絶する文字列。
同期を拒む空間座標。
そして、知覚の処理機能そのものを破壊しかねない未定義の断片映像。
「……記録不能。コード……N、X……?」
思わず、喉奥から漏れるように、ディナは声を発した。
それは警戒の呟きというよりも、もっと根源的な、理解を拒むものに直面した者の反応だった。
この波形は誰かの発信ではない。
ザルフ特有の意志信号を持たず、自ら名乗ることもなく、座標も与えず、ただ“ある”という事実のみを露呈していた。
それは、意図しない漏出だった。
存在そのものが誤って可視領域に引っかかってしまった痕跡。
背後の観測席から、低く応答音が響く。
「主任、それ……Zərfじゃありません。これは……」
応じたのは、観測子《アール7》。
任務中の彼女は個体識別番号のみを用い、本名は一切名乗らない。
GIAにおいて観測職は、あくまで“匿名性”と“合理性”を原則とする立場にある。
彼女の端末に浮かんでいたのは、異常波形を診断したシステムの自動応答。
記録不能 [N-X]
Nulltrace Detected / Source Undefined / Protocol Rejection
分類:未記録個体(推定群外起源)
アール7は数秒、ディスプレイを凝視したまま黙っていた。
その沈黙ののち、短く──確実に言い切る。
「……何かが、群境を越えて、こちら側に“落ちて”きました。
本人の意思とは、無関係に。
しかも……“視られて”います。教団の干渉を受けています」
沈黙。
ディナは息をのみ、即座に判断した。
「この記録……ヘイズに。――すぐ、送れ。
これは……事案になる」
彼女の声はもう、観測者ではなく、記録者の語調になっていた。
──その瞬間、世界のもう一方で、祭壇の空気がわずかに歪んだ。
儀式の空間。
瞑目していた信者たちが、まるで共鳴するように一斉に顔を上げる。
数十人の中央に立つのは、識別名“●03”を持つ祈祷官。
その身を覆う黒布のフードの奥、彼の目は塞がれていたが──彼は“視て”いた。
「……視られた」
くぐもった低音が、冷たい礼拝堂の空気を震わせる。
「異端が、落ちた。
われらが主《Ṯa-Kḥār(タ=クハール)》は、望んでいない。
……だが、あれは視た。
群境の外から来た、“在らざる者”を」
信者たちは息を殺し、沈黙のまま頭を垂れる。
「抹消するか、取り込むか。
いずれにせよ、記録者たちに先んじねばなるまい。
──あれが記録される前に」
――記録不能コード N-X。
それは、観測不能の断片。
記録の網からすり抜けた、
名もなき少女の、最初の痕跡だった。