7月31日
「そういえば、江の島の感想をまだ聞いていなかったね」
バイト中、シフト表を見ながら店長が呟いた。
江の島に行ってから3週間程度経ったか。
テストやインターンの準備で、店長が気を利かせてくれたおかげで、ずいぶん長い間シフトを空けてしまった。
「いいところでした。海が壮大で、富士山も見えていい観光になりました」
まだ3週間と捉えるか、もう3週間と捉えるか。
どちらにせよ、時間というものは無情にも止まることなく今日も刻まれていく。
あの日から、雪さんと透明化症候群について話したことはない。
どれだけ症状が進んでいるのかは自分には分からない。
もしかしたらあの日から進んでいないかもしれないし、進んでいても微々たるものかもしれない。
……そんな甘い話があるわけないのに、希望にすがってしまうのはなぜだろうか。
「そうかい、良い気分転換にはなったかい?」
「......えぇ、また行きたいと思いました」
「それは良かった」
また行きたい。
彼女が、笑っていられる間に。
左手を庇うように生活をしていることに、最近になってようやく気がついた。
一緒に居る時に、左手がよく体に触れることがあった。
それが、雪さんの距離感の近い性格のせいだと思っていた。
バカだな。
答えはずっと知っていたのに、都合のいいようにしか見れなかったんだ。
『実は、左手の感覚もほとんどないんだ』
『初期にはわずかな痺れや熱感を訴える患者もいるが、感覚は次第に消失する。』
触れていることに、本人は気づいていない。
左手の感覚がない分、体のバランス感覚がおかしくなっているのだろう。
少しだけ傾いた体やだらりと揺れる白い手袋が、自分にもう左腕の機能を消失したことを伝えていた。
注視して見れば、日常生活も右腕ばかり使っている。
海沿いで見たあの日の光景が何度もフラッシュバックする。
あるべきはずの肌色はそこにはなく、手袋とまくられた袖の間にはどこまでも続く空と海の青が広がっていた。
「......まだ、悩み事があるのかい?」
「生きている限り、悩みから解放されることはないんじゃないですか?」
「それはそうだ。ただ、寄り添い合えば一時でも誤魔化せることはできるよ」
また顔に出てしまったのだろうか。
このバックルームで店長にだらしのない姿を見られて以降、店長は時々心配してくれる。
気遣いの出来る人だ。
甘えたくなる気持ちをグッとこらえて、とぼけて話をする。
「顔が怖いのは誤魔化せないでしょう。こないだも、作り笑顔が怖いと友人に言われました」
「久瀬君は確かに営業スマイルできないもんなぁ。接客を教えた時はどうなるかと思ったよ」
「そんなこと思ってたんですか」
「そりゃ教えてる身としたら心配になるさ。逆切れする客とかいるからね。まぁ、久瀬君を見てイチャモンつけるほどの気合の入った人はいないだろうけど」
「結構努力してるつもりなんですけどね」
「今、僕を客だと思って営業スマイルを作ってごらん」
「いらっしゃいませ」
「......就職は、接客と営業はやめた方がいいかもしれないね」
そうか、やはり下手か。
落ち込みつつ、くだらない話に付き合ってくれる店長に、心の中で感謝する。
悩みを打ち明けるのは、きっと悪いことではないのだろう。
全て自分で解決できる人間なんていない。
だから、これは自分の悪癖だ。
誰かに相談すること、頼ることを良しとしない、独りよがりの考え方。
言葉をぶちまけて、感情をさらけ出して楽になるのは自分だけだ。
それに、一番苦しんでいるのは自分ではない。
どうして、自分が楽になりたいと思っていい理由があるのだろうか。
ピロピロと来客を告げるベルの音がする。
新聞の配達でも来たのだろうかと監視カメラを見れば、来店したのは見知った顔だった。
立ち上がろうとした店長に声をかける。
「自分が行きます。友人です」
「おや、じゃあ任せようかな」
パイプ椅子から立ち上がり、バックルームから出る前に少し気合を入れる。
情けない顔は、あまり見せられない。
——————
「やぁ、こんばんは」
「何でここに?」
「私だってコンビニぐらいいくよ?」
「雪さんの家知らないけど、いつもここじゃないでしょ」
「ふふ、そうだね。杉本君にバイト先聞いちゃった」
「俺にそのまま聞いてくればいいのに」
「ビックリさせようと思ってね。ただ、あんまり驚いてなさそうだね」
「裏のカメラで見えたからな。レジ中に来たら驚いたかもしれないけど」
「なんだ、つまらないなぁ」
深夜、それももうすぐ早朝と言ってもいい時間帯にも関わらず、彼女の姿は変わらずに見慣れたものだった。
(今日、いや昨日か。大学で会った時と変わってない?)
少しだけ違和感を覚えたのは、昼間に見た時と服装が変わっていないものだったからだ。
暑い夏の時期に、家に帰ってから一度も着替えずこんな時間までいるのは、少しズボラに思えた。
それとも、徹夜で課題をしたり遊んだりしていたのだろうか。
酒が飲める大学生は夜に遊ぶものなんだと杉本が言っていたから、雪さんもそうなのかもしれない。
いや、プライベートを深く詮索してはいけない。
法律に反するような遊び方さえしなければ、あとは当人の自由だ。
外野がいちいち気にするというのは野暮というものだ。
「それで、買い物は?」
「あー、実は買い物にしに来たわけじゃないんだよね」
「......何しに来たのさ」
「働いている様子を見に、かな」
「冷やかしなら帰ってくれ。仕事中は真面目にやるって決めてるんだ」
「仕事中じゃなくても真面目なのに」
「それとこれとは話が別だ。お金貰ってるんだ、適当なことはできない」
話しながらバレないように目線だけで雪さんを眺める。
微動だにしない左腕は使わないのか、使えないのか。
時折ピクリと動いたり、まだ手袋が身に付けられるということは、完全には無くなったわけではないのだろう。
凹んだ部分でどれだけ症状が進んだか判断しようと思ったが、パッと身では指先全て凹んだ様子はない。
綿でも詰めているのだろうか。
分からない。
聞けば教えてくれるのだろうか。
聞いたところで、何ができるのだろうか。
言いようのない焦燥感が、胸の奥で燻り続けている。
「結局、何しに来たんだ?」
「ねぇ、あとシフトどれくらい?」
「もうすぐ上がりの時間だけど」
「終わったらさ、一緒にファミレス行かない?」
「ファミレス? なんでまた」
「早朝のファミレス、行ったことないんだ。行ってみたいなって」
いつもの、お願いの一つだろう。
雪さんのお願いは、いつだって些細なものだ。
カラオケでオールしてみたい、学食で注文したことないメニューを食べてみたい、授業をサボって空を眺めたい。
普通の学生となんら変わらない小さな体験を、とても楽しそうにしている姿を見るたびに、胸が痛くなる。
もっと望めばいい、もっとわがままを言えばいい、それが許される立場だ。
「いいよ、それぐらい」
「本当? やった」
「ちょっと待ってろ、店長に早上がりお願いしてくる」
「そこまでしなくても、全然待てるよ?」
「暇だから、早く上がりたい気分なんだ」
そう言ってバックルームに戻る。
早上がりなんてしたことはないけれど、店長ならいいと言ってくれるだろう。
甘えだな、人柄の良さにつけこんだ自分勝手な行動だ。
それでも、今だけは自分の行動に目をつむる。
最優先は、雪さんのお願いだ。
自分にできることは、何でもすると言ったのだ。
『じゃあ、消えるまでの間、一杯頼んじゃおうかな。やってみたいこと、たくさんあるんだ』
どれだけ、力になれているのだろうか。
焦燥感は消えることなく、ずっと燻り続けていた。
——————
バイト先のコンビニから目と鼻の先にあるファミレスへ、二人で入った。
早朝のファミレスは閑散としており、いつもとは別の雰囲気を醸し出している。
ヘッドホンをしながら何かパソコンに向かって作業している女性がいるだけで、それ以外の客はいなかった。
案内された窓側のテーブルに座る。
「いつも夕方ぐらいにしか使わないから、ちょっと新鮮だ」
「そうだね、人が少ないだけで違う場所みたいだよね」
メニュー表を開きながら、何を食べようかぼんやりと考える。
あまり食欲があるわけではないが、こういう場所にきてドリンクバーだけで済ますのはなんとなく申し訳ない気分になる。
マグロのたたき丼にでもしようか。
ちらりと雪さんの方を見るともう注文は決まっているのか、メニュー表を閉じて窓の方を見ていた。
山の向こうから段々と太陽が昇ってくる。
夕焼けとはまた違った、青みがかった赤が空を泳ぐ雲を染めている。
店員に注文を頼んだ後も、二人して何も言わずただただ空を眺めていた。
少しの沈黙の後、雪さんがゆっくりと口を開いた。
「......コウ君は、夏休みどうするの?」
「どうって、何が?」
「ほら、お盆に実家帰ったりさ。何か予定あるの?」
脳内で8月のスケジュールを確認する。
インターンシップ以外、予定らしい予定は入っていない。
「いや、インターン以外に予定はないな」
「実家は?」
「今年は帰らないかな。夏休みも大学はちょくちょく登校するから。それに帰ってくるなって言われてるから」
「え、仲悪いの?」
「お盆に旅行に行くんだってさ。だから、帰ってきても誰もいないから帰ってくるなって」
「あら、熱々だね」
「旅行の頭数に俺が入ってないのは納得いかないがな。一言言ってくれればいいのに」
5分ほど会話して、料理が届いた。
黙々と料理に手を付ける。
雰囲気というものだろうか、学食では明るく話しながら食事をするけれど、静かなファミレスではあまり喋ろうという気分にはならなかった。
ゆっくりと右腕だけでオムライスを食べる雪さんを待つ。
左手は机の上に出ているが、あまり動く気配はない。
カチャリとスプーンを皿の上に置いて、雪さんは大きく息を吐いた。
右手だけを目の前に掲げて、ごちそうさまでしたと言っている。
また、沈黙だけが残った。
カタカタと、他の客の打鍵音だけが店内に響いている。
「コウ君、インターンはどこに行くの」
「市役所」
太陽を見つめていた、雪さんが口を開く。
蛍光灯ではなく、太陽でしっかりと照らされた雪さんの顔は少しやつれていた。
眠れていないのだろうか、クマがうっすらと目の下にできていた。
「公務員になりたいって言ってたもんね。それがコウ君の夢?」
「夢って言うと、ちょっと大げさだな」
「そっか。コウ君って夢はないの?」
「夢か、あんまり考えたことないな」
「スポーツ選手とかさ、漫画家とかになりたい! とか思ったことないんだ」
「そうだな、昔からつまらない人間だった」
夢と言われて、頭に思いつくことはそんなになかった。
公務員だって別にどうしてもなりたいわけではない。
自分の成績の中でなれそうな職業の中で、マシなものを選んだだけだ。
夢、夢、夢、頭の中で探してみたが特にしたいこともなりたいものも思いつかなかった。
「......雪さんは、夢、あるの?」
「私? あるよ。いやあったよ」
「どういう夢?」
「日本一周かな。お金貯めて、車で行きたいところだけ行く旅を大学4年の夏休みにする予定だったんだ」
「楽しそうだ」
「でしょ? 車の後部座席で寝泊りしながら、一杯写真撮って、食べたい物食べて、意味もないご当地グッズ買ったりしたかったんだ」
自嘲気味に、笑ったその顔に胸がつまる。
過去形で語られる夢。
それは、叶わない願いだと割り切った言い方だった。
「暗くなっちゃったね。こんな話しにきたんじゃないのに」
「いや、勝手に暗くなってた。聞いたのは俺なのに、悪い」
「コウ君はそのままでいいよ。それよりほら、見てよこれ」
そう言って彼女はバッグから二枚のチケットを取り出した。
右手に握られたそれは、花火大会の席のチケットのようだった。
手に取ってまじまじと詳細を見る。
「なんと、シート席のチケットになります!」
「......結構デカい花火大会なのに、よくこんないいチケット取れたな」
「杉本君から貰ったんだ。コネって言ってたよ」
大学から30分ぐらいで行ける市で行われる花火大会は、県内でも最大級の花火大会になる。
車道を歩行者天国にして、屋台もたくさん出る花火大会のチケットを気前よく貰える杉本の人脈はどうなっているんだろうか。
「二人で行かない?」
「俺でいいのか?」
「乙女がわざわざ誘ってるんだからさぁ、即決するのが男らしさってものじゃない?」
「......ありがたく行かせてもらうよ」
「やったね、日程は大丈夫そう?」
「......インターンとは被ってないから大丈夫だな」
日付を見る。
8月末、インターンや事後報告なども終わっているから、これなら行けるだろう。
「楽しい夏にしたいね、コウ君」
「......なるさ、楽しいと思えるまで遊べばいい」
「ふふ、一杯頼ることになっちゃうよ?」
「そういう約束だろ?」
「......そうだね。あぁ、花火、楽しみになってきたな」
カランとグラスの氷が鳴る音がした。
溶けた氷がグラスの底に水となって溜まっている。
……溶けた彼女は、どこに消えるのだろうか。
さんさんと輝く太陽は容赦なく照り付けるだけで、答えを教えてくれはしなかった。
「帰ろっか。今日は付き合ってくれてありがとね」
「これぐらいならいくらでも付き合うさ」
「友達付き合いがいいね。もっと友達多くいてもよさそうなのに」
「友達が少ないって決めつけるな」
「多いの?」
「......友達が多いことってそれほど大事か?」
「ふふ、少ないんだ」
くだらない話をしながら、ゆっくりと歩いて帰った。
いつもは一人で帰るこの変哲もない道も、雪さんと話ながら帰るだけで新鮮な気分だった。
きっと、一人で帰るときにふと今日のことを思い出す日がくるのだろう。
呪いみたいだ。
彼女と遊ぶ度、思い出を増やす度に、自分に消えない記憶が増えていく。
それでも、ただ忘れてしまうよりよほどいい。
彼女が笑えるなら、それだけでいいと思えた。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。