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7月22日

「......ん、うぅん。あぁー、まだ10時かぁ」


 ジリリと騒音を立てるスマートフォンのアラームを止めて、時間を確認する。

 世間様からしたら、決してまだと言って良い時間ではないが、朝が弱い私にとって10時はとても早い時間である。

 高校の時に染みついた、夜型の生活リズムは大学に入って抜けるどころかよりひどくなってしまった。

 だいたい、パソコンというものが良くないのだ。

 動画サイトを適当に流しながら、ネットサーフィンをしていると無限に時間が溶けていく。

 コミュニケーションも、インターネット越しの簡略な関係は私にとって都合がいい。

 声だけの関係ならば、見た目を気にする必要がないからだ。

 もぞもぞとベッドで何度か寝返りを打つ。

 二度寝という気分にもならないが、別に動き出す理由もない。

 暇な時間は好きだ。何もせずボーっとする時間も好きだ。

 ただ、それは完全にフリーな時に限っての話だ。

 何か予定が埋まっている時の、その予定までの空いた時間の使い方というものは20年間生きてきたが上手にならないままだった。

 授業があるのが13時、準備や移動の時間を抜いても2時間近くの空き時間がある。


(大学に早く行ってもなぁ、特にやることないしなぁ)


 やることは決まらなかったが、授業があるから外出は避けられない。

 それならば起きたタイミングで諸々済ませた方が楽だということは、最近になってようやく学習してきた。

 もう3回ほどベッドでうごめいてからようやく起き上がる。

 部屋は暗く、クーラーが効いていてとても夏とは思えない。

 ベッドから洗面台までは移動を遮るものは何もないから、明かりがなくても歩いていける。

 暗い部屋で、すり足で歩く滑稽な自分の姿が脳裏に浮かんだ。


(そういう動物みたいだなぁ。まぁ、やったのは私だけど)


 部屋から外に繋がる全ての光源は何かしらで塞がれている。

 窓はカーテンとは別に遮光シートが貼ってあるし、玄関もポストやのぞき穴をガムテープで見えないように乱暴に貼ってある。

 それは防犯意識なんて高尚なものではなくて、狂いそうになった自分の痕跡であった。

 今となっては正しい行動であったと振り返れるが、当時はただ必死であった。

 慣れた暗闇を歩いて、右手に感じるスイッチを押す。

 明かりが点く。

 ひび割れた鏡の前には、左腕の肘から下が透明になった自分がそこには立っていた。


(ちょっと、進んだかも)


 水道の蛇口を捻って、流れる水に向かって左手を差し出す。

 おおよそ第一関節ぐらいの辺りだろうか、水は何かにぶつかったかのように流れを変えている。

 指先の感覚が無くなってからは、そうやって病気の進行度を確認していた。

 遮られる水に向かって右手も合わせる。


(イリュージョン)


 宙に浮かぶ水を見ながら、バカみたいなことを考える。

 右手は冷たさを感じているが、左手はもう何も訴えてこない。

 今、左手を切り裂いたらちゃんと血は出るのだろうか。

 パシャリと溜まった水で顔を濡らして、何度考えたか分からない邪念を振り払う。

 痛いのはイヤだ、血が出るのは怖い。

 破れかぶれになって鏡に向かって拳を振るった時、あまりの痛みに泣いてしまったことを思い出す。

 指を切ってちょっとだけ出た血にすらビビったのだ、自分で傷をつけるなんて無理だ。


(鏡、大家さんに言わなきゃなぁ......どうしよう。お父さんにも病気伝えなきゃなぁ)


 雑に髪を整えて、簡単なメイクをしながら考える。

 人付き合いが減ってからは、ちゃんと化粧をしたり髪形を変えたりすることは減った気がする。

 最近ちゃんとおめかしをしたのは、こないだの江の島の時ぐらいだろうか。

 幸い、ナチュラルメイクと言い張ってもなんとかなるぐらいの顔であったことから学校生活では問題ない。

 ただ、こうも左手の感覚がないとそろそろ厳しいだろう。

 いつになったら、全てに清算をつけようか。

 お決まりになったインナーとタイツを身に着けて、ローテーションと化したシャツとズボンをその上から着る。

 どのタイミングで、誰に、何を、何て言えばいいのかな。

 自分が透明化症候群だと自覚した時に、真っ先に恐れたのは人の目だ。

 珍しい病気だ、どうしてもろくでもない注目を集めてしまうだろう。

 ゴシップだけで済めばいいが、最悪一生入院の可能性だってある。

 視界に入るもの全てが怖くなって、部屋から動けない時期だってあった。

 割れた鏡や、念入りに塞がれた窓はその時期の名残だ。

 その時期があったおかげで、手袋や肌を隠している説得力が出たのは怪我の功名ではあるけれど。

 いつか誤魔化せない時期はやってくるだろう。

 パッと消えられるなら問題はないが、このままズルズルと消えていくなら、ただ生活するのにすら誰かの助けが必要になってくる。


(どうしようかなぁ)


 定まらない思考を切り裂くように、ベッドに置いてあったスマートフォンの通知音が鳴る。

 コウ君だろう。

 江の島から帰ってきてから、彼はちょくちょく連絡をくれる。

 真面目な彼のことだ、私が言った『行く場所行く場所で写真を撮るよ』がまだ適応されているのだろう。

 なんてことはない日常の写真とともに、一言感想が添えられている。

 その飾り気のない、不器用さとてもが彼らしい。


(コウ君に、全部頼んじゃおかなぁ)


 不意に、投げやりな考えが頭をよぎる。

 自分が透明化症候群だと知っているのは、世界で彼一人だけだ。

 何もかも、彼に頼りきりになってしまおうか。


(……もう甘えられないよなぁ)


 そう考えた自分に大きなため息をつく。

 お人好しな彼のことだ。

 全て打ち明けても、下手な作り笑いを浮かべながら『任せろ』と言ってくれるだろう。

 ただ、それだけはしたくない。

 展望台で、空き教室で、波の音が聞こえる砂浜で。

 真剣に悲しむ彼の顔を見てしまったから、これ以上の重りにはなりたくなかった。

 イヤな記憶になりたくない。

 それは、心からにじみ出た本音だった。

 キレイな霧島 雪という存在でいたかった。

 大学時代に、仲の良い女の友人が居たんだと笑って語ってもらえる存在になりたかった。

 それは、精一杯の強がりだった。


(弱いなぁ、私。見栄はったのになぁ)


 ただの友人。それ以上を望んではいけないのだ。

 普通の大学生活を、友人として送る。

 それだけで、いい。

 変わらずに友達でいてくれと願ったのは、他でもない自分なのだから。

 飾り気がなくて、不器用で、鈍感で、真面目で、お人好しで、優しい彼。

 その将来を、自分という記憶で縛りたくはなかった。


(......まだ、笑えるかな)


 靴下をはこうとして俯いた視界は涙で霞んでいたせいだろうか。

 右のつま先が半透明に見えていた。


 ——————


 昼休み、ゼミが始まるまでの空き時間を杉本と適当に潰す。

 手に持ったスマートフォンには、既読だけついて返信がこない画面が映っている。

 いつもならすぐ返信がくるのだが、何かあったのだろうか。


「コウさぁ、スマホいじる時間増えたよね」

「え? あぁ、すまん」

「違う違う、責めてるわけじゃないよ。ただ、珍しいなって」

「現代人なんだから普通の姿だろう?」

「......霧島ちゃんかな?」

「......今、雪さんが関係あるか?」

「はぁ、何で隠すのかなぁ。友人達がくっつくんだ、盛大に祝ってあげるってのになぁ」

「そういう反応をするからだ。本当にそういう関係じゃないから、雪さんに構うなよ?」


 大げさに肩をすくめて首を振る杉本に注意する。

 妙に様になっているのが腹立たしい。


「そういう関係じゃないなら、僕が手を出したって問題ないのかい? あんなカワイ子ちゃんなんだからさぁ」

「......そういえば、お前雪さん相手はあんまり口説いてないよな? なんでだ?」

「あぁ、えぇ。うーん、マジかぁ」

「?」


 人付き合いが多く、女遊びも盛んな友人に疑問を抱く。

 今まで杉本が色んな女性を口説いている場面に出くわしたことはある。

 ただ、雪さんとは初めて会った時からずっと、友人というスタンスを貫いているような気がしている。

 タイプじゃないのか?

 でも可愛いって言っているし、そもそもこいつは顔で選ぶ人間ではないからまた別の問題なのだろう。


「コウ、本当に分かんない?」

「実は仲悪かったりするのか?」

「......ここまでヒドイかぁ。煽っても意味ないなぁ」

「すまん、聞こえなかった。もう一度言ってくれ」

「霧島ちゃんが可哀そうだなぁって」

「なんでそうなるんだ?」

「経験不足というよりも、単純に朴念仁だよね、コウってさ」

「......お前にコミュニケーションで言い勝てる要素がない」

「そりゃそうだこの鈍感ボーイが」


 悪口を言われているのは分かるし、別に不満があるわけではない。

 経験不足なのは事実であるし、人の心を上手に読み解けるわけでもない。

 ただただ、したり顔でこいつに言われるのが悔しいだけだ。

 なんで杉本が雪さんを口説かないことに、俺が関係しているんだ?

 最近の出来事だけで見れば、まぁ分かる。

 女っ気のない男友達が、女友達と良くいる場面を見たなら自分でも多少は配慮するだろう。

 ただ、初めて会った2年のゼミから、ずっと変わらない調子なのだ。

 どう考えても、杉本と雪さんの話であって、自分が関わる余地はないだろう。


「なんの話?」

「やあ、霧島ちゃん。コウをどうしようかなぁって話。社会に出たらきっと苦労するよ」

「あぁ、それは分かるなぁ」

「勝手に親気分になるな」


 悩んでいると、風通しのため開けっ放しになっているドアの方から声が聞こえた。

 いつもと変わらない格好の雪さんが、自分たちの方に向かってきていた。

 勘違いだろうか、いつもより若干声の調子が悪い気がする。


「......ノータッチの方がいいかな?」

「杉本君は、社会でも苦労しなそうだね」

「コミュ力と目だけで生きているようなものだからね。寝坊したんだろ?」

「そうそう、ちょっと寝起きが悪くてね。昼寝しすぎちゃった」


 なんの話をしているか分からなかったが、自分の違和感は間違っていなかったのだろう。

 寝起きってあまり喉の調子よくないからな。

 目元も多少赤く腫れている、相当慌てて起きたのだろうか。


「あー、おはよう?」

「おはよう、コウ君」

「......まぁ、コウはこっちの方がいいか」

「そうだよ、これがいいんだよ」

「......なぁ、俺のことバカにしてないか?」

「僕らがそんなことすると思うかい?」

「すると思うかい?」


 明らかにこちらをからかうような態度を取る杉本と、それに便乗する雪さんに少しイラっとする。

 いつものことではあるから怒ったりするようなことはしない。

 どうせ教えてくれないのだ、リアクションしても疲れるだけだ。

 何を隠しているかは気になるが、無理に聞きたいほどではない。


「ねえ、ゼミ終わったら、三人で学食行っておやつでも食べない?」

「いいね。 ついでに僕のレポート手伝ってよ。明日締め切りなんだ」

「お前、まだレポート終わってなかったのか......」

「助けてよコウ」

「知らん、いい加減学習しろ」

「でも、助けてあげるんでしょ?」

「そうだよ、コウはなんだかんだ優しいからね」

「うるせぇうるせぇ、本当に手伝わねえぞ」


 梅雨明けの湿気を帯びた風が強く教室を吹き抜けた。

 じわりじわりと暑くなり始めた気温が、本格的な夏の到来を感じさせた。

 窓の外で大きくなり始めた入道雲を見る。


(夕立の季節か)


 風の中に、かすかに感じる湿った土の臭いに目を細める。

 来年も、この夏を、日常を迎えることはできるのだろうか。

 楽しそうに話す二人を見てそう思った時には、体は無意識に動いていた。

 パシャ、無機質な電子音が鳴る。


「おっと、急にコウが写真を撮るなんて珍しいな」

「肖像権の侵害だよコウ君」

「いや、なんか無意識に撮ってた。消した方がいいか?」

「んー。折角三人いるんだからさぁ、どうせ撮るなら三人で写ろうよ」

「いいねぇ、そういえば霧島ちゃんと僕たちだけの写真ってないもんね。じゃあ僕が撮ろうかな。コウが真ん中で、霧島ちゃんが一番左ね」

「雪さんが真ん中の方がいいんじゃないか?」

「むさい男二人に囲まれたって嬉しくないでしょ。ほら、撮るよ」

「わーい」


 別に大して変わらないのでは?

 そう思ったが杉本と雪さんが息のあった動きで自分の隣に移動してくる。

 杉本が細長い腕を目一杯伸ばして、インカメに三人写るようにしている。


「ほい、チーズ……相変わらずコウの写真写り怖いなぁ」

「ふふ、いつも睨んでるみたいな顔だよね」

「しょうがないだろ。カメラのレンズ見てたらそういう顔になるんだよ」


 画面に写った写真には、満面のうさんくさい笑みを浮かべた杉本と、可愛らしくほほ笑む雪さん、その間に挟まれた硬い表情の自分が写っている。

 写真慣れしている二人は流石だ、よくあの短時間で表情を作れるものだ。

 いつか、自分も上手く表情を作れる日がくるのだろうか。

 ……その日に、雪さんはいるだろうか。


(いかんな、暗くなりがちだ)


 自分にできることを、精一杯こなす。

 後悔も反省も、いつだってできるのだ。

 今できることに、全力を尽くすのみだ。


「......コウ、作り笑い下手だなぁ」

「引きつった口が怒ってるみたいに見えるよ」


 ……作り笑いは、別に練習しなくてもいいか。

 自分の顔を指さして笑う二人を見て、ため息をついた。

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