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7月12日 ②

「うひゃ~、海だ~」


 電車を乗り継いでやってきた江の島駅から10分ほど歩くと、賑やかな人の声と共に海水浴場が見えてきた。

 凪いでいるのか、潮風というものはあまり感じられなかったが、視界一杯に広がる海というものは少しテンションがあがる。

 生まれてこの方、内陸県以外に住んだことがないということも影響しているだろう。

 少しだけ香る潮の香りと、白い飛沫をあげるさざ波に雪さんもご満悦の表情だ。

 海開きはもうしているらしいが、シーズンと呼ぶには早い時期のせいだろうか、想像していたよりも海水浴場の客は少ないようだ。

 ほどほどにテントやパラソルで埋まった砂浜は、観光気分を味わうには一番丁度いいのかもしれない。

 着替えがあるわけではないから泳ぐことはできないが、靴を脱いで足で海を感じることは出来そうだ。


「いやー、ドロップアウト組で良かったねぇ。本当なら今頃、大忙しの時期だもんね」

「そうだな、課程から外れた気楽さはある」


 自分と雪さん、ついでに杉本も、同じ社会福祉学部の人間である。

 本当なら大学3年の夏休み前というものは、社会福祉学部、つまり社会福祉士を目指す人間にとって大変忙しい時期になっている。

 期末の課題に加えて、夏休み中にある実習に向けての準備があるからだ。

 実習先に向けての挨拶やゼミとの打ち合わせ、細かいあれやこれをこなさなければいけないわけだ。

 そういった煩わしいことは、今の自分たちには関係ない。

 ドロップアウト組というのは、社会福祉学部にいながら社会福祉課程から外れた人間のことだ。

 実習がない分気楽でいいのだが、もちろん悪い面もある。というよりも、悪い面の方が多い。

 まず大学からのサポートが二の次になる。

 当たり前だ。社会福祉学部なのだから、社会福祉課程に沿っている人間が優先されるのは正しい姿だ。

 次に、就活だろうか。

 課程に乗っていれば実習や国家試験に向けた支援も受けられるが、ドロップアウト組にはそれがない。

 自分で就活を始めなければいけないし、インターンシップなどの情報収集も自分でしなければならない。

 キャリアサポートセンターはあるのだが、そういったものを活用するということを自分で行動しなければならない。

 コミュニティが狭い人間はこういった時に苦労する。


「コウ君は進路決まってるの?」

「公務員」

「あー、らしいらしい。窓口にいそうだもん」


 幸い、自分が志望とする市役所のインターンシップの予約は取れたので気楽である。

 そうでなければ、呑気に旅行などしている場合ではないだろう。


「じゃあ、公務員試験対策しなきゃだねぇ」

「……江の島まで来てする話か?」

「んー、それもそうだね」


『雪さんは、どうするの?』


 思考と、口に出た言葉の形は大きくかけ離れていた。

 課程から外れる、つまり取る単位から社会福祉学部のものが大きく消えるわけだが、雪さんはそうではないと知っている。

 多分、実習以外の福祉課程の授業はほとんど出ているだろう。

 それが意味することを、4月の時はよく分かっていなかった。

 ただ単に、福祉以外に携わりたい分野が出来たものだと思っていた。

 今なら分かる。

 生きていると、卒業まで体が残っていると、雪さんは思ってはいないのだ。

 大きく時間を取られる実習だけ取らず、限られた時間を好きなように使うためだろう。

 蓋をしていた考えに、意識が行きそうになって無理に話題を変えようとする。


「波打ち際まで行こうか」

「私はいいよ。コウ君行ってきなよ」

「いいのか? 海、行きたいって」

「見たかっただけなんだ。それに、もし手袋濡れて透けちゃったら大変だから」

「......じゃあ、俺もいいよ」

「ふふ、気にしなくてもいいのに」


 ひらりひらりとこちらに向かって振られる左手に、バスターミナルで抱いた違和感の答えに気がつく。

 さっきまで鮮明に聞こえていた、波が立てる音も、子供の歓声も、フィルターがかかったようにぼやけて聞こえる。

 海に浮かぶヨットの白い帆も、空と海が混じるまで続く青も、今は色が抜け落ちたように灰色に見えた。


「............指先、どうした」

「え? ……あぁ、ごめんね、 今までの癖が抜けてなくてつい手振っちゃった。目いいね」


 第一関節より少し上、爪あたりまでだろうか。

 いつもなら膨れているはずの手袋の指先が、少しだけ凹んでいる。

 まるでその先が無いかのように、ぺしゃりと潰れている姿が目から離れない。


「無くなっちゃった。実は、左手の感覚もほとんどないんだ」


 明るく告げられるその事実を信じられなくて、マナーだとか距離感だとかそんなものお構いなしに彼女の手に触れる。

 そこにあったものはただ布の手触りだけだ。

 指先以外は触ることが出来るのに、人肌の体温が手首から先には感じられなかった。

 思わず力を込めて握ってしまったはずなのに、彼女は痛がる素振りが一切見せない。


「誰も見てないかな......まぁいっか。じゃーん、もうここまできちゃった」

「っ!」


 わざとおどけて言いながらインナーをまくる彼女の左腕は、肘から先が半透明になっていた。

 事情を知らない人間が見たら、マジックのように見えるだろう。

 何も無いところに、白い手袋が浮いている姿に言葉を失う。


「見えないだけでまだ使えるんだけどね。肘から上はまだ感覚あるし、このペースなら今年は越せるかも」

「......なんで、笑えるんだ?」

「え?」

「怖くないのか? 展望台であった時もそうだ。なんで笑えるんだ? 俺が雪さんの立場なら、絶対に笑えない」

「怖いよ」

「なら......」

「気楽でもあるよ。ゴールがあるんだもん。人生、終わりが分かっているって大きいよ」

「そんなものをゴールとはいわない!!」

「一緒だよ。ただの言葉遊び。死って言わないだけ、前向きだとは思わない?」


 向き合ってないだけだ。

 逃避を前向きとはいはない。

 死を肯定するのはモラルに反する。

 喉元までたくさんの言葉がつっかえて、音にならない声になって消えていく。

 部外者の自分が言える義理なんてない。

 一般論を振りかざすことに意味はない。

 それが適用されるのは、一般的な出来事だけだ。

 道徳もモラルも知識も、彼女の前だと何もかもが無力だと思い知らされる。

 強く握りしめた手のひらに、爪が強く食い込んで痛かった。


「......すまん、大声上げた」

「いいよいいよ。優しさからだって分かってるから」

「いいのか、貴重な時間、俺と過ごして」

「ふふ、友達と過ごす普通の大学生活をしたいって言いだしたのは私だよ? イヤなわけないよ」

「そうか。なぁ」

「なに?」

「なんで、海が見たかったんだ?」

「んー、なんとなくかなぁ」

「なんだそりゃ」

「透明になって消えたらさ、海に還るのかなって、ぼんやりと思ったんだ。どこに行くのかな、私の体」

「......温かいところの方がいいんじゃないか」

「私暑がりだからなぁ、少し寒いぐらいがちょうどいいよ。うん、海がいいな」

「......麻婆丼、食べてる時汗すごかったからな」

「そうなんだよ、代謝すごくてすぐ汗かいちゃうんだ。あぁ、食べ物の話したから、お腹空いて来ちゃったな。ヘイ、コウ! おすすめの江の島グルメを教えて!」

「そんなSiriみたいな聞き方されても困る。とりあえず、しらすは美味いらしいが」

「海鮮いいねぇ。海が近い場所の強みだよね。それじゃあ、江の島上陸と行きますか」

「そうだな」

「楽しもうね、コウ君」


 言外に、もう病気の話は終わりということだろう。

 強く息を吐いて、強張った体を解きほぐす。

 分かっていたことだ。

 自分が彼女にできることなんてろくにないことは。

 陽射しを反射してキラキラと光る水面を背景に立つ、雪さんをしっかりと見つめる。

 いいさ、楽しんでやる。

 記憶に刻もう、彼女との思い出は、イヤなものではなかったんだと胸を張って言えるように。


「どこから行こうか」

「ご飯! 展望台! 洞窟!」

「あー、飯だけ食べて、回る順番は俺が決めていいか?」

「いいよー」


 明るく返事をする彼女に対して、自分は上手く笑えているだろうか。

 自信はなかった。

 潮騒がひと際大きく鳴った。風が出てきたようだ。


 ——————


 不穏な出だしとは裏腹に、江の島観光はとても穏やかに進行した。

 天候に恵まれたおかげか、江の島大橋からは富士山を見ることができた。


「私、生で富士山見たことなかったかも」

「俺も、多分ないな」

「写真撮っとこうかな」

「撮ろうか?」

「うーん、あ、そうだ!」


 雪さんは何かを閃いたようで、道行く人に声をかけ始めた。


「すみません、写真撮ってもらってもいいですか?」

「あぁ、いいですよ」

「ありがとうございます。撮ろうか、コウ君」


 自分にはないコミュ力を見せつけられ、流されるままに彼女の隣に立つ。

 慣れない行為に、少し肩の力が入る。

 砂浜とは違い心に余裕が出来たせいだろうか、それともその一件のせいで意識が強くなったのだろうか。

 彼女の体温や匂いがより鮮明に感じられる。

 変態チックだと責める自分と、健全な男らしくなってきたと褒める自分を、心の中でしばき倒して平静を保つ。

 声をかけられた人も、ノリのいいお兄さんだったらしく、茶化しながらもしっかりと写真を撮ってくれた。


「彼氏さんちょっと暗いかなぁ! 笑って笑って! 撮りますよー、ハイ、チーズ……オッケーでーす!」

「ありがとうございます、助かりましたー」

「ありがとうございました」


 彼氏扱いは意図して無視し、撮ってもらった写真を二人で見る。

 ……鏡で見る自分は少しマシに見えるが、写真で見る自分はどうしてこうもいかつく見えるのだろうか?

 隣に映っている富士山と雪さんはキレイなのだが、あまりにも自分の存在が浮いているように見える。


「おぉー、いい写真だね」

「俺も写る必要あったか?」

「あるでしょ、二人で来た記念に撮ってるんだから」

「あんまり人に見せられるような写真にはならなかったと思うが......」

「いいんだよ、思い出なんだから、見せびらかすようなことしなくも。それに、まだ一杯撮るよ?」

「これで終わりじゃないのか?」

「行く場所行く場所で撮るよ、ソロでもツーショットでも、旅行なんだからさ!」

「......目に焼き付けるタイプなんだけどな」

「普段の私もそっちだけど、滅多にしない旅行だからね。今回は一杯撮ろうかなって。イヤかな?」

「イヤじゃない。ちょっと恥ずかしかっただけだ」

「......コウ君って本当に包み隠さないよねぇ」

「何か言ったか?」

「いーや何も言ってないよ、次行こっか」


 それからは宣言された通りに、行く場所行く場所で写真を撮った。

 鳥居のそば、参道グルメを食べてる姿、洞窟にある龍の石像、辺り一面を一望できる展望台で。

 ありとあらゆる場所で写真を撮りながら歩いた。

 おそらく、自分がスマートフォンを買ってから、一番カメラボタンを押した日になっただろう。

 自分には何か写真を撮るという風習がなかったものだから、お世辞にも上手に撮れたとは言えない。

 ただ、アルバムに自分が撮った写真が増えていく感覚は、少しだけ楽しかった。

 今は、二人で龍恋の鐘というカップルの名所を回り終えたところであった。

 なんでも、二人一緒に鳴らせば永遠の愛が叶う言い伝えがあるらしい。

 周りの人の目や気恥ずかしさが勝り、さすがに二人で鳴らすようなことはしなかった。

 不思議と雪さんもこの場所では静かにしており、今はフェンスに向かって一人南京錠をつけている。

 フェンスには数多くの南京錠が既に所狭しとつけられており、雪さんは場所を選んでいるのだろうか、少しもたつきながら付けているようだ。

 不意に、いたずら心が湧いてきて、スマートフォンを彼女に向ける。

 パシャリと鳴った音に反応したのか、タイミングよく付け終わった雪さんがゆっくりと歩いてくる。


「コウ君、そういうの盗撮っていうんだよ?」

「言わないだろ、今日何回撮ったと思ってるんだ?」

「声掛けがあるのとないとじゃ違うんだよ」

「じゃあ雪さんの写真も盗撮になるだろ。どれだけ勝手に俺のこと撮ったと思ってるんだ?」

「私はいいんだよ」

「なんだよその謎理論」


 楽しむように、ゆっくりゆっくりと回ったせいだろうか、想像よりも大分時間が過ぎていた。

 もうそろそろ、帰る時間を意識しなければならない。

 近くの水族館も巡って丁度いい時間かなと見積もっていたが、やはり実際に現地に行ってみないと時間感覚は分からないものだ。

 思ったよりも起伏があったこと、写真を撮る時間が多くなったことで、あれほど眩しかった陽射しが段々と沈みかけている時間になってしまった。

 真っ赤に染まった大海原は、日中に見たものとは大きく印象が変わっている。


「キレイだねぇ」

「そうだな」


 帰り道、二人してぼんやりと夕焼けを眺めながら歩く。

 何回も階段を昇り降りしたからか、一日中ほとんど立ちっぱなしだったのか分からないが、雪さんの足取りは非常にゆっくりとしたものだった。

 自分もその歩調に合わせて、ゆっくりと歩く。

 何かを失ったわけでもないのに、胸に残る寂寥感は、旅行特有のものだろうか。

 また来ればいい。

 心の中で強がりを言う。

 夏休みだって、遊べばいい。

 もう一回江の島に来たっていい。

 今度は一泊で、夜のライトアップされた庭園を見に来ればいい。

 また、来ればいい。


「あー、楽しかったな。後で撮った写真共有しようね。アルバム作っとくからそこに送ってね」

「分かった。ただ、あんまり面白い写真はないけど」

「いいよいいよ、そういうのって自分じゃ気づかないもんだから」


 またでいいのか?

 もし、明日彼女が消えたら、自分はそれで後悔しないのか?

 もっと、今自分にできることがあるんじゃないのか?

 言い様のない焦りが胸を焦がしている。

 何か、何か、何か、自分にできることは。


「また、来たいねぇ」


 小さく呟かれた雪さんの声に、思わず立ち止まる。

 不思議そうに振り向いた彼女は、自分の顔を見て、何かを察したように微笑みをこぼしている。

 あぁ、きっと全部顔に出てしまったのだろう。


「ねぇ、イヤになってきた?」

「イヤなわけがあるか。次、どこに行くか考えてただけだ」

「次も遊んでくれるの?」

「そういう約束だろうが。まだ、少ししか頼まれてない」

「ふふ、そっか。そうだよね。一杯お願いするって約束だもんね」


 結局、大したことは思いつかずに雪さん任せになってしまう。

 自分にできることなんてあまりないことを痛感しつつも、それでも虚勢を張る。

 何にもできないし、力になれているか分からないけれど。

 それでも、ひっそりと彼女が消えていくことだけはイヤだった。


「次はなにをしようか」

「うーん、次かぁ。カラオケ行ってみたいなぁ」

「カラオケか......」

「あれ、苦手なの?」

「流行りの曲とかが全然分からなくてな、ヒトカラはたまに行くんだが」

「へぇー、ヒトカラのイメージないなぁ」

「......逆に、何のイメージがあるんだ?」

「......たまに、人から怖がられてるの見るよ」

「見なくていいそんなもん」

「こないだ子供に泣かれてたもんね」

「......何で知ってる?」

「転んだ子供に駆け寄ったのに、すぐ逃げられちゃったね」

「この話は終わりにしよう」

「ふふふ、もっとしたいけどなぁ」


 帰りの電車も、バスを待つ時間も他愛もないことを話していた。

 ずっとずっと、この日常が続けばいいのに。

 今はただ、別れが来るなんてあまり信じたくはない気分だった。

 帰りのバスの中、右隣に座った彼女の体温を感じる。

 雪さんは早々に寝てしまった。

 普段から運動している自分でも相当疲れたから、彼女も疲れたのだろう。

 行きのバスでは気恥ずかしさから気付かなかったが、今なら分かる。

 肩や二の腕から感じる温かさが、肘先から全く感じないことに。

 スマートフォンのアルバムを開いて、自分が撮った写真を眺める。

 たくさんの思い出が、今日一日でできたと思う。

 これからもたくさん、増やしていくだろう。

 積もりに積もっていく思い出と真逆に、消えていく彼女の体に、自分は慣れることができるだろうか?

 揺れる車の中、答えのない問いを考えながら、写真を一枚一枚見つめていた。

 

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