7月4日
「はぁ......」
今日何度目になるか分からないため息をつく。
安物のパイプ椅子に深く腰かけると、ギシギシと不安な音を立てた。
昼間の光景が目から焼きついて離れない。
透明になった手が、困ったように笑う霧島さんの顔が、不安に震えた声が、何回も何回も頭でループする。
仮眠をとりにいったはずなのに、結局寝れずにぼんやりと起き続けている。
日中の授業をどうやって乗り切ったのか、記憶がない。
気がつけばアルバイトの休憩時間になっていた。
「はぁ......」
またため息をついて、スマートフォンを取り出して何回も見たインターネットのサイトを開く。
透明化症候群について
透明化症候群は、患者の身体の末端から徐々に透明化が進行し、最終的には全身が消失するという極めて特異な症状を呈する。
症状の進行速度や透明化の順序には個人差があるが、一定の加速度的進行が報告されている。
透明化が進行した部位は他者から視認できず、加えて当人にも感覚が失われていく。
初期にはわずかな痺れや熱感を訴える患者もいるが、感覚は次第に消失する。
また、透明化した部位であっても、短期間は物体に触れたり干渉したりすることが可能であり、その後、徐々に物理的な干渉力も失われていく。
本症候群の発症原因は不明であり、遺伝的要因、環境要因、精神的要因など複数の仮説が存在するが、いずれも科学的根拠には乏しい。発症年齢や性別、国籍などに明確な傾向は見られない。
進行の最終段階では患者の全身が消失するとされるが、症例数が極端に少ないため、その後の状態については記録も観測も存在しておらず、全く不明である。
その特異性と不確実性ゆえに、透明化症候群の患者は医療機関での対応が困難な場合が多く、また公的支援制度の対象にもなりづらい。
本人や周囲の人間にとって精神的負担が大きく、当事者の多くは孤立や希死念慮に陥るリスクが高いとも指摘されている。
全国的に症例が少ないのだろう、一日スマートフォンに張り付いて分かった情報はこれだけしかなかった。
珍しい病気に便乗する怪しげなサイトを除けば、まともなサイトはないと言っても過言ではない。
分かったことはただ、いずれ霧島さんは消えていなくなるということだった。
(透明化した部位は、徐々に干渉力が失われていく......)
何も見えなかった左手の指先を思い出す。
手袋をはめた時はなめらかに動いているように見えたあの指も、もう長くはこの世に存在しないらしい。
明日? 明後日? いつ消えるとも分からない体と向き合い続けるというのは、想像もつかないストレスがかかるだろう。
霧島さんの笑顔がまた、脳裏をよぎる。
自分がその立場になった時、偽物でもいいから人に笑いかけられる余裕があるとは思えなかった。
小学校の先生が言っていた。
『もし、明日が人生最後の日だったら、今日ぐらいは頑張って生きようって思えない?』
小学生の時はあまり理解できなかったが、今なら言いたいことは分かる。
時間は有限で、無駄に過ごした今日はいくら後悔してもやり直せないということだ。
中学時代に戻れたら、高校の時にもっと勉強しておけば、好きだったあの子に告白しておけばよかった、反省や泣き言がいくらでも出てくる。
ただ、それでも自分は漠然と今日を生きている。
一日一日、死ぬ気で何かに本気で取り組むわけでもなければ、時間をかけてでも成し遂げたいことがあるわけでもない。
適当に公務員になって、適当に困っている人を助けて、適当に傷ついて生きていくのだ。
そうして大きくなってまた、大学時代に頑張っておけばなぁと後悔するのだ。
明日がある、未来がある。
それは、自分の人生において疑いのない前提条件だった。
車にひかれて死ぬだとか、通り魔に襲われるだとか、そんなことが怒らない限り明日はあるものだと思っていた。
いや、当たり前すぎて考えたことすらなかった。
霧島さんは、どうなのだろうか。
透明化症候群が最終的に消えてなくなる病気というのならば、それは実質死刑宣告に等しいだろう。
彼女にとって、明日は当たり前ではない。
刻一刻と消えていくロウソクのようだ。
自分が近いうちに死ぬことだけが分かっている。
そんな状況で、人に笑いかけることなど自分には無理だと思った。
「バカらしい......」
スマートフォンを机に放り投げ、パイプ椅子にだらしなく全体重をかける。
人がこないコンビニの夜勤とはいえ仕事中に褒められた態度ではないが、さすがに身が入らなかった。
自分がイヤになる。
当たり前が当たり前ではないとうことを今更認識する自分に、同級生の病気にかこつけて勝手にナイーブになっている自分に。
知ろうと思えば知れたはずだ。
同じゼミで、友人だったのだから。
昨日今日の知り合いではない、大学2年の初めからずっと、友人でいたのだ。
聞こうと思えば、いくらでも聞く機会はあったのだ。
『どうして、肌を隠している?』
自己紹介の時に言っていた、日光に弱いなんて言っていたことは嘘だと薄々感づいていた。
日の光を浴びることに抵抗がない、肌が弱いという割に肌を気にする様子をあまり見せない。
夏でも厚着をして、手袋をはめた両手をさする癖以外は普通の女の子だと思っていた。
だから、隠しているなら聞かないほうがいいんだと思って見て見ぬふりをした。
それが配慮だと思って、優しさだと思って。
バカみたいだ、ただ面倒事から目をそらしただけだろうに。
深く、霧島さんに踏み込まない選択肢を選んだのは自分だ。
今更、彼女のことを心配する権利なんて自分にはない。
できることは、いつも通りに接してあげることだけだろう。
……彼女がいなくなった後に、自分はそれで後悔しないのだろうか。
「久瀬君がそこまでだらけているのを初めて見るね」
ぼんやりと虚空を眺めていると、いつの間にかレジから離れてきた店長が近くに立っていた。
机のモニターに目をやると、どうやら客は一人も来ておらず手持ち無沙汰らしい。
夜勤はこういう時間がよくある。
白髪をオールバックにして整えた小堀店長は、今年で65歳になるがいつもハキハキと仕事をしている。
いばらず、おごらず、謙虚で、丁寧。
こういう年の取り方をしたいものだ。
夜勤のシフトはいつも、店長と自分が中心で回している。
「何か悩み事かね? 目の隈もひどいようだが」
「すみません、友人のレポートに付き合っていたら徹夜になってしまって」
「はは、泊まり込みで作業か。いいね、楽しそうだ」
嘘ではない。
実際に、寝不足なのは杉本のせいなのだから。
ただ、今頭を悩ませているのは別の人物なのだが。
「でも、本当に大丈夫かい? さっきも心ここにあらずといった感じだったからね」
「すみません」
「いや、責めてるわけじゃないんだ。ただの心配だよ。なにか、悩み事でもあるんじゃないか?」
「それは……」
いっそ、全部話してしまおうかと思った。
店長は口が軽い人間ではない。
答えのないこの悩みも、誰かと共有すれば解決するのではないか。
そう考えて、口にしようとしたがどうしても喉につっかえて言葉が出ない。
『ごめんね、ひっそりと消えるつもりだったのに。イヤな記憶になっちゃうね』
彼女のセリフに、胸がズキリと痛んだ。
この痛みの理由は、自己嫌悪か哀れみか。
気のきいたセリフの一つも言えない自分の浅さが、厚かましく人にすぐ頼ろうとする自分の幼さが、心の奥底で他人事だと叫ぶ自分の醜さが、ズキリズキリと主張を続けている。
「……また顔で人を怖がらせてしまったんです」
結局口から出てきた言葉は、明らかに誤魔化しと分かるものだった。
店長は一息ついて、深くは追及せずに自分の誤魔化しに乗っかってくれた。
「はは、僕は久瀬君の顔が好きだけどね。昔見ていた任侠映画の主演みたいで」
「遠回しに怖いっていってませんか?」
「そんなことないさ。そうだ、伊達メガネでもしたらどうだい?」
「それだけで変りますかね」
「インテリヤクザぐらいにはなるんじゃないかな」
「結局ヤクザじゃないですか」
他愛もない会話で時間を潰す。
核心に触れない優しさが、今だけは傷口に染みるように痛かった。