12月24日
たくさんの思い出を、君と
しんしんと降り続ける雪によって、展望台から見える街は一面の銀景色であった。
ベンチに積もった雪を適当に手で払って腰をかける。
降り注ぐ雪は、真っ黒な服に白いまだらの模様を作っては熱で溶けて消えていく。
「雪は、見てなかったな」
目の前の光景と、ひと時も頭から離れない人の名前が重なる。
腕の中から透明になって消えてしまったあの日から、気がつけば1か月も経っているのか。
やることがたくさんあったおかげか、この1か月の記憶はあまりない。
車椅子を無理やり借りた大学からは、何もお咎めはなしだった。
ゼミの教授が一言添えてくれたらしい。
流石に欠席し続けた授業の単位は取れないから、後期は丸々無駄な時間になってしまったが、4年時に多く単位を取れば卒業はなんとかできそうだった。
問題は、他にあった。
(親御さんに説明するの、きついな......)
雪には捜索願が出されていた。
大学を無断で辞めて連絡が一切取れない一人娘、しかもアパートはがらんどうになっている。
そんな状況では誰でも警察を頼るだろう。
雪さんに教えてもらった住所に説明しに行った時は、話をろくに聞いてもらえずに怪しい人物として通報されてしまった。
事件性の確認のために、警察署で延々と話す羽目になったことは記憶に新しい。
自分の説明と旅先の監視カメラの映像に矛盾がないこと、第三者による自分たちの関係性の聞き取りによって、半信半疑ながらも警察には無実だと解放されたが、親御さんには信じてもらえていない。
今も、一人でポスターを作っては探し歩いているようだ。
雪が頑固と言っていた理由がよく分かる。
根気よく通い続けてはいるが、いつになったら信じてもらえるだろうか。
彼女に頼まれたことだから、諦めることはしないが。
一人ぼんやりと景色を眺めていると、ざくりざくりと新雪を踏みしめる音が聞こえてきた。
こんなところに、自分以外の人が来るとは。
そう思って音のする方を向けば、喪服姿の杉本が立っていた。
「やぁ、コウ。そんな真っ白になっちゃって、風邪引くよ」
「......イブだって言うのに、こんなところで時間潰してていいのか? 色男」
「伊達男と言ってほしいね。喪服で歩いてくコウを見かけたって話が聞こえてね、僕も来ちゃった。迷惑かい?」
「いや、迷惑じゃない。喪服なのも、気分に浸りたかっただけだ」
「そう? じゃあ、お隣に失礼するかな」
そう言って雪を払って杉本も座る。
ベンチに二人、男が喪服姿で座っている様子は傍から見たら異様に見えるだろう。
「助かった。警察に説明してくれて」
「お礼は何回も聞いたって。市民としての協力をしただけで感謝されるようなことはしてないよ」
「それでも、俺は助かったから」
「はいはい、真面目なのは変わらないね」
「一生変わらんさ」
「変わらないものなんてないと思うけどね。ほら、コウ、だいぶ表情柔らかくなったよ」
「そうか? 自分じゃ分からん」
「なんて言えばいいかな。トゲが無くなったというか、陰が消えたというか」
「変か?」
「いいんじゃないかな......コウ、こっち向いて?」
「あぁ?」
「ハイチーズ......ほら、前より自然に笑えているよ」
「……散々、練習させられたからな」
向けられたレンズに、思わず条件反射で作り笑いをする。
画面には、違和感がない程度には笑えるようになった自分の姿がある。
雪に写真を撮られるたびに、練習した成果だろう。
「いい旅だったわけだ」
「あぁ、賑やかだったよ。車、ありがとうな」
「いいよいいよ、他に力になったわけじゃないし」
会話が途切れて、二人して無言で景色を眺める。
雪は止む様子はない。
「なぁ、コウ」
「なんだ」
「霧島ちゃん、最後はどんな表情だった?」
「......笑顔だったよ。とびきりのな」
「......そっか。そりゃよかった」
瞳を閉じて柔らかくほほ笑んだ彼女の表情が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
旅で見たものの中で、一番美しいと感じた。
自分の返事に満足したのか、杉本が立ち上がる。
「邪魔したね。今度はもっとゆっくり霧島ちゃんとコウの話聞きたいな」
「もう行くのか? 別に邪魔ではないが」
「一人でゆっくりしたいだろ? またでいいさ」
「......すまんな」
ひらひらと手を振りながら杉本は去って行く。
一人になったベンチには、耳が痛いほどの無音で満ちていた。
雪が緩衝材の役割をしているせいだろうか、自分の呼吸以外の音は何もしなかった。
空を仰ぐ。
曇天の空の向こうに、彼女はいるのだろうか。
「何に、祈ればいいんだろうなぁ......」
骨も、髪も、爪も、何もかもが透明になって消えてしまった彼女には、どこへ祈るのが正しいのだろうか。
溶けた雪が水になって、髪を伝って頬に流れる。
この儚い雪ですら水になって証を残すというのに、どうして彼女は何も残らないんだろうか。
ふと、スマートフォンを取り出して、雲の写真を撮ろうとした。
なんてことはない景色の、写真を撮ろうとする癖が抜けていないようだ。
見せる相手は、もういないのに。
「あぁ、独りなんだな」
言い様のない喪失感が胸を襲う。
忙しさで紛らわしていた孤独が、誤魔化しきれなくなって頭をぐちゃぐちゃにする。
一度自覚すると、もう取り繕うことはできなかった。
忘れたわけじゃない。
ただどこか、実感がなかっただけだ。
ひょっこりと彼女が現れるのを、心のどこかで待っていたのだ。
コウ君と、あの声でまた呼んでほしい。
声が思い出せなくなると店長は言っていた。
やがていつか、あの澄んだ声を忘れてしまうのだろうか。
頬を伝う水に、熱いものが混じる。
取り出したスマートフォンの画面にポタリポタリと水たまりを作る。
「コウ君、元気にしてる?」
突如、耳に響いた声に思わず立ち上がる。
幻聴だ。
そう分かっていても、体は反応してしまう。
辺りを見回しても、自分以外の人はいない。
自分の腕の中で消えたのだから、彼女がいるはずがない。
「びっくりしてるかな? リアクション見られないのって、ちょっとモヤモヤするね」
幻聴ではなく、今度はしっかりと聞き取れた。
ただし、肉声ではない。
手に持ったスマートフォンから動画が流れているようだ。
水がかかったことで、アルバムが開いたのだろうか。
車内の天井を背景に、雪の顔が下を向いている。
「うーん、指が無いから持てないな。腕に上手く乗っけようとしたけど、落としちゃった。変な角度になっちゃうけど、許してね」
食い入るように画面を見つめる。
雪、雪、雪!
肉声でなくても、過去の記録でしかなくても、二度と聞くことはないと思っていた声に胸が熱くなる。
「本当は何か物を残してあげたかったけど、思いつかなかったから声にするね。日記もあるから後で見てね。恥ずかしいけど、二人の思い出だからさ」
自分が車に居ないときに、スマートフォンに向かって何か熱心に書いていたのは知っていた。
別れてからは、スマートフォンをいじるような時間はあまりなかったから、それが日記だとは知らなかったけれど。
「本当はさ、くだらない話をたくさんしたいけど、あんまり長くなっても迷惑だから、短くまとめちゃうね」
「迷惑じゃない」
返事が来るわけもないのに、画面に向かって話しかける。
迷惑なわけがない。
雪と話す時間が、どれだけ楽しかったか。
「久瀬 幸大へ、霧島 雪より。初恋で、最後の恋だったよ。消えるまでずっと一緒にいてくれて、幸せだった。夢、覚えてくれて嬉しかった。」
「......あぁ」
「好きだよコウ君。愛してるよ、消えても、ずっとずっと、コウ君だけを想ってる」
画面の向こうの雪は、どんな表情をしているのだろうか。
視界がぼやけてしっかりと見えない。
俺も、ずっとずっと、君を想い続ける。
好きだ、愛している。
「イヤな記憶になったかな? まぁ、コウ君なら大丈夫か! 辛い時はまたこれ見てね! バイバイ!」
「......はは、恥ずかしがってら」
照れ隠しだろうか。
わざと明るめに振舞ったお別れに、思わず笑いがこぼれる。
慣れないことをするからだ、声色が少しうわずっている。
スマートフォンをポケットにしまって天を仰ぐ。
「バイバイ、また会おう」
あの日、言えなかったお別れを口にする。
心の傷は癒えることはない。
喪失感がなくなることはない。
これから何をするにも、雪の影がちらつくだろう。
ただ、それを悪いことだとは思わない。
それだけの思い出を積み上げたのだ。
それだけの思いがまだ燃えているのだ。
パシャリと変哲もない空を撮る。
たくさんの写真を撮ろう。
彼女に会った時、口下手な自分では上手く伝えられないかもしれないから。
たくさんの思い出を作ろう。
一人で待っている彼女に、面白い話をできるように。
「天国、行けるかな」
雪は天国で待っていると言っていた。
それなら、ベンチで悲しんでいる暇はないだろう。
立ち上がり、もう一度眼前の光景を眺める。
二人の約束が始まったこの場所で、今度は一人で約束をする。
「絶対に、迎えに行くから。待ってくれよ、雪」
『ふふ。いつまでも待ってるよ、コウ君』
耳に聞こえたのは、幻聴か願望か。
どちらでも構わなかった。
吐いた息が、白く宙に浮かんで消えていった。
これにて二人の旅は終了になります。
最期まで読んでいただき、ありがとうございました。