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11月22日

「ねぇ、人生最後の食事は、何が食べたい?」

「……考えたことないな」

「よくある質問なのに。明日が、地球最後の日だとしたら、何が食べたい?」

「飲食店は空いてる設定か?」

「この質問で、そんなこと考える人、初めて見たよ......」

「前に食べた、飛騨牛寿司美味かったから」

「あぁ、美味しかったねぇ、あれは」


 思い出は増えていく。

 海を、山を、川を、空を、湖を、星を、滝を、樹を、島を、花を、火を、雪と見てきた。

 思い出は増えていく。

 それに反発するかのように、雪が消えていく。

 思い出は増えていく。

 それに比例するかのように、自分の心に傷がついていく。

 思い出は増えていく。

 後悔はしない、足踏みはしない、目を逸らしはしない、気持ちを隠したりはしない。


「私はね、まだ、食べたことのないものが、食べたいなぁ」

「最後なのに、好きな物じゃなくていいのか?」

「食べたことのないものを食べてさ、『あんまり美味しくないね』とか、『思った味と違うね』って、コウ君と、味の感想を言い合うの。そういう、最期がいいなぁ」

「......食レポ下手だから、俺の感想伝わるか分からないな」

「あぁ、そうだねぇ。コウ君、美味いか不味いか、しかないもんねぇ」

「他の言葉が必要か?」

「いらないって、ことはないと思うよ?」

「......眠いか?」

「うぅん、そうだね。ちょっと、眠いかも」


 途切れ途切れに喋る雪の顔を見る。

 力なくとろんとした表情は、そこだけ見れば眠そうな子供のように見えただろう。

 何もない、四肢から目を逸らして見れば。

 防寒のために自分のジャケットを羽織らせているが、そのジャケットに収まってしまうぐらいの大きさしか今の彼女にはない。

 左足が消え、右腕が消えた日から、雪の症状の進行が加速した。


『症状の進行速度や透明化の順序には個人差があるが、一定の加速度的進行が報告されている。』


 そのことは、かつて調べたときに見たから覚悟はしていた。

 手の感覚が無くなった時から、どうするか彼女とは話していた。


『全部、コウ君にお世話になっちゃうなぁ』

『世話ぐらいさせてくれよ』

『イヤにならない?』

『雪のすべてを独占できると思えば、悪くない』

『ふふ、考えることは同じだね』


 知らなかったのは、その先のことだった。

 彼女は排泄をしなくなった。

 へそよりしたはもう見えない。

 食べたものがどこに消えているのかは、外から見ても分からなかった。

 彼女はよく寝るようになった。

 食事をすると、すぐに眠くなってしまうようだ。

 寝て、起きる。

 そのたびに、体がみるみると透明になっていく。

 透明になるために、エネルギーを消費しているのだろうか。

 クソみたいな病気だ。


「ごめんね。少し、寝るね」

「あぁ、ゆっくり寝ろ」

「起きられなく、なりそうだから、寝たくないんだけどなぁ」

「起きるまで何回でも呼びかけるよ」


 雪は食事をすることをやめなかった。

 思い出を増やすのだと、食べさせてもらうのが嬉しいのだと、笑顔で語る彼女を止めることは自分にはできなかった。


『食べなくても消えるならさ、コウ君とご飯食べる回数が多い方がいいな』


 別れに向かっていくことは、辛くはない。

 そのために、たくさんの思い出を作ってきたのだ。

 さようなら、そう言い合う日に向けての準備をしてきたのだ。

 辛くはない。

 ただ、悲しいだけだ。

 寝るための時間が増えたから、その分会話が減った。

 一人で運転する時間が、こうも寂しいものだとは忘れていた。

 強く抱きしめて、キスをしてくれ、そうねだられることが増えた。

 もうそれでしか、温もりを感じられないらしい。

 寝ようとした彼女を後部座席の布団にまで運ぼうとした時に、口を開いた。


「あぁ、でも、最期なら、食事より、したいこと、あるなぁ」

「それは、なんだ?」

「海、行こうよ。日の出、見たいなぁ」

「そういえば、日の出はまだ見てなかったな」

「ふふ。前は、二人して、寝ちゃったもんね」

「じゃあ、今日は近くの海行くか」

「うん。案内、できなくて、ごめんね」

「気にするな。おやすみ、雪」

「おやすみ、コウ君」


 少しもしないうちに、腕の中からすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてきた。

 恋人のひいき目なしにしても、可愛らしい寝顔だ。

 起きないように額に軽く唇をあててから、そっと抱きしめる。

 トクンと聞こえる心臓の音を聞かないと、安心できない自分がいた。


(なんで、雪なんだろうなぁ......)


 その問いに意味は無い。

 病気になる人、交通事故に遭う人、天災に遭う人、宝くじに当たる人、すべて確率の問題だ。

 自分が明日、車に跳ねられて死ぬことだってあるだろう。

 だからこれは、ただの感傷だ。

 後悔はしない、足踏みはしない、出会ったことを嘆いたりはしない。

 それでも、温もりが消えていく日々に何も感じないわけではない。


(時間がない......)


 本人にしか分からない予感があるのだろう。

 最後に日の出が見たいという願いに、今日と提案しても雪は否定しなかった。

 起きれなくなりそうだからと、寝ることを恐れていた。

 きっと、次はないのだろう。

 勘違いなら、それでいい。

 それが、いい。

 抱きしめた腕に、力がこもる。


「......海、行かなきゃな」


 雪が起きる前に、夜が更けるまでに、この辺りで一番日の出がキレイな場所を。

 これが二人の思い出の最後になるかもしれないのだから。

 自分にできる、最後のことになるかもしれないのだから。


「離れたくねぇなぁ......」


 思考と感情と体、全てがぐちゃぐちゃになった気分がした。

 思い出は増えていく。

 キレイな光景も、汚い感情も、等しく忘れたくないものだった。


 ——————


「……ん、うぅん」

「おはよう、雪」

「おはよぅ、コウくぅん」


 雪が目を覚ましたのは、日の出まで数時間も残っていない、そんな深い夜の時間だった。

 寝起きが弱く、間の抜けた声になるのは、初めて江の島に行ったあの日から変わらない彼女の癖だった。

 その声がまた聞けたことに安心する。

 深夜になっても目を覚まさない彼女に、もう話すことはできないのかと不安が募り始めていたからだ。


「ふぁ。もう、車の外なんだね」

「すまん。落ち着かなかったから、車から出て海を見てた。戻るか?」

「いいよ、外のままで。ふふ、当たり前だけど、夜の海って何にも見えないね」


 砂浜で、自分の体ごと雪を毛布で包みながら座っていた。

 11月の海辺は寒いが、彼女は特に気にした様子はない。


「あれ? コウ君、いる?」

「......いるよ、ずっと」

「……あぁ、分かっちゃった」


 体の感覚が消えたようだ。

 抱きしめているはずなのに、自分の両腕には少しも体温が伝わってこない。

 落ち着くはずがない。

 車の中で彼女に触れて、温もりを感じなかったときは思わず叫びかけた。

 覚悟はしていたはずだ。

 旅の終わり方は一つしかないのだ。

 その終わりがいつかくることは、ずっと覚悟していたはずだ。

 その覚悟が、こうも脆いものだとは終わりがくるまでは気付けなかっただけだ。


「あーあ。コウ君の温もりを感じながら、消えたかったのになぁ。やっぱり、ダメかぁ」

「......気分はどうだ?」

「普通かなぁ。ちょっと眠いぐらい。寝たらもう起きられない気がするから寝ないけど」

「そうか」

「コウ君は寒くない? 私、もう湯たんぽ代わりにもならないけど」

「大丈夫だよ、顔は温かいし」


 そう言って自分の頬と、雪の頬をくっつける。

 夜風で冷えてはいるが、まだ温もりがそこには残っていた。


「ふふ。コウ君、だいぶ距離感近くなったね。前はスキンシップ、ねだらないとやってくれなかったのに」

「この3か月、何回やったと思ってるんだ? そりゃ慣れる」

「ドキドキしながらしてくれたコウ君、可愛かったなぁ」

「うるせぇ」

「絶対に今、顔真っ赤でしょ? 暑くなってるよ」


 慣れたからと言って、何も感じないわけではない。

 何をするにも感情は揺れ動く。

 バレているかどうかは分からないが、彼女に触れる時はいつも緊張していた。

 あぁ、だからこれは仕方のないことなのだ。

 顔に出てしまうのは、どうやら自分の癖のようだから。

 少しの時間、二人して無言で海を見つめる。

 波が寄せては引いてく音だけが二人の間に静かに満ちている。

 不意に、雪が呟いた。


「ねぇ、コウ君。無理してるでしょ」

「......してない」

「ふふ、隠し事はしないんじゃなかったの?」

「してない」

「コウ君は変わらずずっと、分かりやすいなぁ。声、震えてるよ」

「寒いから、しっかり喋れないんだよ」

「コウ君。本心で向き合ってほしいな」

「……好きだよ。変わらず、ずっと」


 言葉に詰まり、顔を彼女から離す。

 自分の懐に、すっぽりと収まった雪の顔を、今は見ることができない。


「自分のこと、一番に考えてほしいよ、コウ君。私のことを、大切にしてくれるのはすっごい嬉しいけどさ、それでコウ君が苦しむのは、イヤなんだ」

「……」


『相手のことだけ考えていたら、自分が壊れちゃうよ。思いやりと、自己犠牲を一緒にしちゃいけない』


 友人の言葉が脳内に蘇る。

 壊れなどしない。

 自己犠牲だと思ったことはない。

 いつだって、自分のことしか考えてはいない。

 言いたくないから、言わないだけだ。


「最期だよ。本音、聞きたいな。お願い」


 言ってしまったら、自分の心が頼りのないものだとバレてしまうから。

 少しでも口にしてしまえば、醜い願いが止まらなくなってしまうから。

 そう思って言わないでいたつもりだったのに、決心は彼女の一言で簡単に崩れてしまった。

 カッコ悪い感情が、あふれ出してとまらない。


「イヤだ......イヤだ......まだ、まだ足りないんだ......」

「そうだね、私もだよ」

「これからなんだ。知らなかったんだ、美味しいものも、キレイな景色も、まだ、まだたくさんあるって......」

「ふふ、結局半分も日本一周終わらなかったね」

「なんで、なんで、なんで雪なんだ? なんで、他の誰かじゃダメだったんだ」

「それは私も、思ったことあるよ。まぁ、考えても仕方ないよ」

「............イヤだ、寂しいんだ。今まで、一人で平気だったことが、雪がいないと寂しいんだ。運転だって、食事だって、睡眠だって、雪がいてほしいんだ」

「……毎日、一緒にいたもんね」

「あぁ、クソ。言うつもりなかったのに。笑って送るつもりだったのに。俺が泣いたって意味ないのに」

「コウ君が泣くところ、初めて見たかもなぁ」


 吐き出した思いとともに、涙がこぼれ落ちてくる。

 一番辛いのは俺じゃない、一番怖いのは俺じゃない、一番苦しんだのは俺じゃない。

 自分が、雪より先に泣く資格など、あるはずがないのに。


「ねぇ、顔見せてよ。向き合ってさ、消えるまでお喋りしよう?」

「日の出はいいのかよ」

「日の出より、コウ君の顔が見たいな」


 水平線は段々と白んでおり、もうすぐ日が昇るだろう。

 それでも、彼女は自分の願い通りに向きを変えて、お互いに見つめあう。


「ふふ、涙でぐしょしょだ」

「......なんで、雪は笑えるんだ? 俺は、怖くて仕方ない」

「そりゃ、私だって怖いよ。どうなるか分かんないんだもん。でも、一人の時に涙が枯れるまで泣いたから。止めてくれたのは、コウ君なんだよ?」

「俺が?」

「だってさぁ、もう何にもできないなぁって絶望してる時にさ、好きな人が颯爽と助けにきてくれたんだよ? 涙なんて吹っ飛んじゃうよ」

「……そんな、大層な事はしてない」

「私にとっては、誰よりも、何よりもヒーローだったよ、コウ君。私も、コウ君の涙を止められたらよかったのになぁ」


 自分はそんな人間ではない。

 本当にヒーローだったなら、消えていく雪を助けることだってできるだろう。

 自分が、思いを伝えられないのがイヤだったから、好きだったから、それだけのことだ。

 ただの、ワガママな子供でしかないんだ。


「一緒にいてくれれば、それでいいよ。来年も、再来年も、ずっと、ずっと、一生隣にいてくれれば」

「......そうだね、そうしたいね」

「イヤなんだ。あぁ、違う! こんな、こんな泣き言を伝えるつもりなんてなかった!」

「いいんだよ、コウ君。私がお願いしたんだもん」

「好きなんだ! 愛してるんだ! したかったこと、我慢してたことが一杯あるんだ!」

「私も愛してるよ、コウ君」


 見つめ合った雪が、段々と透け始めていく。

 しっかりと見つめなければいけないと思うたびに、涙があふれて視界を滲ませている。


「最後にさ、一つお願いしていい?」

「ダメって言うわけないだろ。なんでも言ってくれ」

「天国でちゃんと待ってるからさ、ゆっくり迎えに来てくれる?」

「......すぐに行ったら、ダメか?」

「すぐ来たら、私が会ってあげないよ」

「それは、イヤだな」

「でしょ? 私も会いたいからさ、ゆっくり来てね。それで、たくさん思い出話、聞かせてよ」

「思い出、作れるかな」

「ふふ、大丈夫だよ。コウ君優しいから」


 段々と、腕の中から重みが消えていく。

 抗うように、強く、強く雪を抱きしめる。

 イヤだ、イヤだ、イヤだ。

 別れになんか、納得できるはずがなかった。


「ねぇ、コウ君」

「なんだ、雪」

「いっぱい、色んな所に行って、いっぱい写真撮ったね」

「あぁ、楽しかったよ」

「......イヤな記憶になったら、忘れていいからね?」

「それだけは絶対にイヤだ。雪のお願いでも、絶対に忘れないから」

「ふふ、そっか。それは嬉しいなぁ......ねぇ、コウ君、愛してるよ、ずっと、ずっと」

「俺もだよ、雪。この先も、変わらずに愛してる」

「そっかぁ。ふふ、愛情、独り占めだ」


 消える、消える、消えてしまう。

 伝えたいことも、したいことも、たくさん残っているのに。

 何か言おうとしても、言葉が胸につかえてでてこない。

 消えていく雪の顔はいつもと変わらない笑顔で、それを見ると何も言えなくなってしまった。


「コウ君」

「なんだ! 雪!」

「またね」

「ああ! ああ! また、絶対に迎えに行くから! だから——」


 言葉は続かなかった。

 今まで見た笑顔の中でも、一番キレイな微笑みに意識を奪われたから。

 まぶたに焼き付いた、この一瞬を忘れることはできないだろう。


「あ、あ、あぁ......ああああああああぁ!」


 誰もいない海岸に、絶叫が響き渡る。

 手元に残った冷たい服だけをかき抱いて、何度も何度も声を上げる。

 返事はこないと分かっていたけれど、それでも叫ばずにはいられなかった。

 潮騒と海風に、声が溶けて消えていく。

 一人になってしまった。

 旅は終着を告げた。

 もう、この先に進むことはない。

 今更になって、登ってきた太陽が、やけに眩しく見えた。

評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。

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