10月??日
ごめんねコウ君、日付つけ忘れちゃった
「コウ君に報告があります」
「なんだ」
「右足の感覚が完全に消えました!」
「......そんな明るく言われても、反応に困るんだが」
「暗く言った方がいい?」
「いや、雪がいいならいいんだが。右足、見せてもらうぞ」
「はいよー」
二人旅は、地図上では遅々として前に進んでいない。
原因は分かっている。
二人が行きたいと思った場所は、全て寄るようにしているからだ。
『そういえば、私ほうとうって食べたことないかも』
『じゃあ、食べに行くか。ついでに山中湖でも寄って行くか』
『いいね、富士山見比べようよ。静岡と山梨どっちの方がキレイに見えるかな?』
『場所と個人の感性によるだろ......』
神奈川から静岡を抜けて、愛知に向かう時の車内での会話だ。
急遽Uターンして山梨まで行ったのは、あまりにも無計画だった。
そんなことばかりしているから、走った距離の割には前に進んではいない。
一人旅なら40日もあれば日本一周できるらしいが、そんなペースでは想像できない。
「どこまで感覚ない?」
「もう付け根付近までないよ」
「そうか......どういうペースで進んでるんだろうな。出会った時より速いよな?」
「速いねー。もう左足も無くなってきてるし、年越せそうにないなー」
自分一人でろくに動けない体ということもあるだろう。
一つの観光スポットを巡るのにも、一つのグルメを食べるのにも、何をするにも人の倍以上の時間がかかるのだ。
それを申し訳ないと思う気持ちと同時に、言葉にはできない喜びに満ちていた。
何をするにもコウ君の優しさを感じる。
きっと、今、世界で一番幸せな人間は私だろう。
責任も義務も過去も将来も全て投げ出して、好きな人と日々を過ごせるのだ。
(贅沢だなぁ......)
普段は眉が吊り上がってキッと機嫌が悪そうに見える目が、今は心配の色だけを浮かべている。
その瞳が、私だけに注がれている。
彼の感情を、私だけが独占できる。
にへらと笑って見せれば、彼の顔が困惑に変わる。
「今の会話に、笑う要素があったか?」
「いやぁ、幸せだなぁって」
「幸せ?」
「だってさぁ、普通に生きてたら、きっとこんな体験できなかったよ。好きな人と、行きたい場所に自由に行けるなんて、すごい幸福だよ?」
まだ自由に動く右手で彼に抱きつく。
金と時間を一方的に負担してもらっている負い目よりも、自分が不治の病になった不運よりも、彼から伝わる温もりの心地よさの方が、私の心を支配している。
「消えた後の後始末もコウ君がやってくれるしなぁ。お気楽お気楽ってね」
「......親御さんとか大学に何て説明すればいいんだ?」
「頑張ってね」
「俺の頑張りで何とかなる問題か?」
「ならないかもね。あ、お父さんすごい頑固だから気を付けてね」
「せめて、一言何かメモ書いてくれないか?」
「次はどこ行こっか? 名古屋城とか?」
「......ひつまぶしは食べたい」
「ひつまぶし、いいねぇ。絶対に寄ろう。もう今その口になってきたよ」
毎日一緒にいるだけあって、コウ君もだいぶ冗談に付き合ってくれるようになった。
それに、今の車中泊にも慣れたものだ。
「トイレは行くか?」
「うーん、大丈夫かな」
「そうか、じゃあ俺は行ってくるから待っててくれ」
「いってらっしゃーい」
……慣れすぎてもはや私を介護対象としか見ていないことは、唯一の不満か。
トイレはまぁ、するタイミングは外してもらっているからいいが、お風呂や一緒に寝る時はもっと意識してもらいたい。
出発した直後はドギマギしてくれていたのに、今はもうそういった素振りはない。
折角密着して寝ているというのに、カップルらしいイベントはあまり起きないまま終わりそうだ。
(杉本君から借りてる車だし、コウ君としては汚せないか)
キスやハグはねだれば惜しみなくしてくれるから、それで我慢するとしよう。
コウ君の姿が車から離れたことを確認してから、スマートフォンをいじりだす。
「ふふ、コウ君気がついたらどういう反応するかなぁ」
それは、彼にバレないようにコツコツと書き溜めた日記である。
どこに行っただとか、何を話しただとか、感じたことをありのままに綴っている。
ある程度書いてから、ふと気がつく。
(指が消えたら、スワイプできなくなるなぁ。別の方法考えないと)
本当は何も痕跡なんて残さずキレイさっぱり消えた方がいいのだけれど、忘れたくないと言った彼に何も遺せないのはイヤだった。
自分のワガママでもある。
もし透明になっても意識が残るなら、自分のことを忘れたコウ君を見たくないというエゴでもあった。
醜い本心だが、隠すなと言ったのは彼だ。
思う存分甘えさせてもらおう。
(物......全部アパートに置きっぱなしだ。思い出だけだと、足りないよなぁ)
「待たせた」
「コウ君って女物の服って興味ある?」
「あると思うか? てか、いきなり何の質問だ?」
「だよねぇ。うーん、難しいな」
自分の身に着けているものは服だけで、アクセサリーもしていないから渡すこともできない。
この安物の服を残したところで大して意味はない。
怪訝な表情をしている彼の顔を見つめる。
私を覚えていてもらえる、何か。
「ふふ、私って強欲だぁ」
「そうか? 無欲な方じゃないか?」
「乙女心が分かってないね、コウ君は」
「乙女じゃないから当たり前だろう」
「察する努力はするべきだと思うよ?」
「......それは、そうだな」
「じゃあ問題ね。今私がしてほしいことは何でしょう? はい、どーぞ」
そう言ってコウ君に手を伸ばす。
彼は少し考える素振りをしてから、私にハグをする。
自分よりはるかに大きい、彼の体に包まれると安心する。
鼓動が重なっていくのを感じるたびに、生きているのだと実感する。
「うーん、外れかな。キスの方だよ」
「......キスしてたら、ハグって言ってただろ?」
「おぉ! コウ君が、乙女心が分かってきてる!」
「乙女心というより、雪が言いそうなことを考えただけだよ」
「それ、私は乙女じゃないって言ってる?」
「曲解しすぎだろ」
「冗談だよ。ねぇ、もっと強く抱きしめてよ。痛いぐらいにさ」
「......文句言うなよ」
私がいた証って、なんだろう。
……消えるまでに、思い浮けばいいか。
今は、この熱に浮かされていよう。
思考を放棄して、少なくなった体の感覚を楽しむことにした。
「あはっ。壊れそうだよ、コウ君」
彼の背に回した右手が、透けて見えた。
終わりはもう、遠くない。