9月18日
本当は夜中の内に江の島に行きたかった。
ただ、雪が一晩ぐらいゆっくりしたいと言うので一泊することにした。
シングルベッドに二人で寝るとさすがに窮屈だったが、その狭さも悪くないと思えた。
人前では寝付けない自分が、彼女となら何の問題も無く寝られたことに少し感動した。
やはり、思いというのは人に大きく影響するようだ。
朝、ベッドで二人向き合って会話をする。
「今日から俺が全身チェックする」
「えっちだね」
「うるせぇ」
くだらないやり取りをしてから、雪の体をまじまじと見つめる。
左腕が無いのは前からだが、右足がここまで無いとは思っていなかった。
膝までは完全に消えている。
あまり肉付きのよくない太ももが、かろうじてうっすら見えるぐらいだ。
触っても何の反応もないから、きっと感覚も消えているのだろう。
右手はまだ完全に残っているのが救いか。
「その左足、立てるのか?」
「頑張れば、ほら」
右手を挙げて器用にバランスを保って立っている。
足首まで半透明になっているが、感覚はあるようだ。
一回転しようとして倒れそうになった彼女を受け止める。
自分の腕の中で笑っているから、どうやらわざと倒れてきたらしい。
可愛らしいと思う反面、心臓に悪いからあまりしないでほしい。
「右足、進行やたら速いな」
「花火の時にはもう脛から下は感覚なかったよ?」
「は?」
「言ったら遊んでくれないかなぁって」
「俺がそこまで薄情に見えたか?」
「コウ君なら義務感で付き合ってくれそうだったから。それはイヤだなぁって」
「そんなことは——」
「ないって、言い切れる?」
「......」
「ふふ、ね?」
義務感は無かったと、言い切れない自分に押し黙る。
少なくとも、秘密を見てしまった責任は勝手に感じていたからな。
それでも話してほしかったと思うのは、自分のエゴだろうか?
「これからは、そういうのなしだ。俺も本心で向き合うし、隠し事はしない」
「うん、私も話すよ」
「じゃあ、準備したら出るか」
「あ、シャツのボタンだけお願いしてもいい?」
最低限の準備は昨日の夜中のうちに済ませた。
適当に日用品をボストンバッグに詰められるだけ詰め込んで、足りないものは現地調達だ。
3年間貯めたバイト代があるから、豪遊しすぎなければ当分の旅費にはなるだろう。
「ほら」
「ありがとー。不便だね、この体」
彼女のボタンを最後までとめてあげる。
ぺったりとつぶれたシャツとズボンは、事情を知らない人が見ればひどく痛々しく見えるだろう。
着替え終わると、彼女はぐるりと部屋を見回した。
おそらく、動けるうちにほとんど片づけてしまったのだろう。
ガランとした部屋に、一抹の寂しさを覚えているようだ。
「本当に、スマホ持っていかなくていいのか?」
「うん、電話とか掛かってきても困るしね。お父さんとかに何も言ってないし」
「その説明をするのは、俺になるんだがなぁ」
「そこはまぁ、惚れた弱みってやつでお願いね?」
「気が重い......」
将来絶対に起こるであろうトラブルに頭が痛くなるが、自分で選んだ道と割り切るしかない。
頭を振って思考を切り替える。
バッグで片手が埋まるので、抱きかかえるのではなくしゃがんで背を差し出す。
首に彼女の腕が巻き付いて、確かな温かさを伝えてくる。
背中の彼女があまり揺れないように、ゆっくりと歩き出す。
「わぁ、コウ君の視線たっかいねぇ」
「......絵面が誘拐みたいになってないか?」
「通報されちゃうかもね」
「勘弁してくれ」
「ふふ、冗談だよ。重傷のカップルにしか見えないって」
「それはそれでどうなんだ?」
少し不謹慎な冗談を言い合いながらアパートを出る。
もうここに、二人で戻ってくることはない。
それが分かっているから、湿っぽくならないようにわざと明るく振舞う。
「高速運転するの久しぶりだなぁ」
「......大丈夫そう?」
「祈っててくれ」
「うぅ、その返事は普通に怖いよコウ君。高速乗るのいつぶりなの?」
「......」
「何か言ってよコウ君......」
後部座席にバッグを投げ込んで、助手席に雪を座らせる。
その彼女にロックを外した自分のスマートフォンを渡す。
「写真、一杯撮ってくれ」
「それは任せてよ。下道のナビもしちゃうよ~」
「下道の案内は、海沿いに走るだけだからいらないんじゃないか?」
「観光とかするのに必要だよ?」
「海沿い以外は無理じゃないか? 日本一周するんだぞ?」
「できなくてもいいよ、私は」
運転席に座り、シートベルトに苦戦している彼女を手伝う。
日本一周できなくてもいいと言う彼女の顔は、冗談で言っているわけではなく本心からの発言のようだ。
夢ではなかったのだろうか?
疑問に思った自分に答えるように彼女は続ける。
「今の夢はコウ君といることだからね。昨日も言ったけど、場所はどこでもいいよ」
「......そうか。じゃあ、目についたところは全部行くか?」
「ふふ、それも楽しそうだね」
「半周もできないかもな」
「その分濃い日程になるんだよ。ねぇ、コウ君」
「なんだ?」
「楽しもうね、コウ君」
その言葉は、以前も聞いたことがある言葉だった。
あの時はしっかりと返事できずに濁してしまったが、今は違う。
「当たり前だ、誰よりも楽しむぞ」
アクセルを踏み込んだ。
アパートに別れを告げて、朝の街に走り出した。
——————
「うひゃ~、海だぁ~!」
「すまん、耳元で叫ぶのはやめてくれ」
2か月前と何も変わらないテンションで叫ぶ彼女は、楽しそうに背中でカメラを起動させている。
最初は車椅子で移動しようと思ったが、砂浜に車輪が沈むので背負って移動している。
海水浴シーズンは終わったらしく、ライフセーバーや監視員の姿は見えない。
江の島観光のついでに海に来たような人か、慣れ親しんでいるサーファーぐらいしか人はいないようだ。
「水着、持ってくれば良かったなぁ」
「泳ぐつもりなのか?」
「コウ君は海入りたくないの?」
「監視員が居ないときは入りたくないな。何があるか分からないし」
「まじめだねぇ」
「それだけが取り柄だからな」
「もっと良いところあると思うけどなぁ。あ、私のズボンの裾まくってよ。足だけでも二人で入ろうよ」
「分かった」
背中から彼女を下ろし、倒れないように手で体を支えられるように目の前に屈む。
左足のつま先は透けているが、海に足をつけてしまえばバレないだろう。
それに、彼女がもう人目を気にしている様子はない。
それならば、自分も楽しむことだけに意識を注いだ方がいいだろう。
裾をまくってあげてから、自分もはだしになる。
前はできなかった、海水浴と二人でしゃれ込むことにした。
波に引きずり込まれないように、後ろから彼女の体を支えながら波打ち際に向かう。
「......猫みたいな持ち方するね」
「これが一番安定するだろ」
「そうだけどさぁ。なんかこう、もっと恋人らしい形があると思うんだよね」
「そう言われてもな。彼女いたことないし、正しい形とか分からん」
「正しい正しくないじゃなくて、もっとコウ君が考えるイチャイチャをしようよ」
「イチャイチャか......」
自分の腕に全体重を預け、抗議するかのように左足をバタバタさせて海を蹴り上げている。
陽を浴びた飛沫が、一瞬だけ宝石みたいに光る。
十分に、恋人らしいことをしていると思ったが、雪は不満なようだ。
経験も知識もろくにない自分にとって、それは難しい問いだった。
「二人で写真でも撮ろうか」
「恋人じゃない時もしたじゃん」
「いいだろ、別にどんな関係で撮ったって。ほら、撮ってくれよ」
「うーん、誤魔化そうとしてるなぁ。まぁ、これからの宿題にしよっか」
結局出てきたものは、ありきたりな答えでしかなかった。
これでも、しっかりと考えた結果なのだから許してほしい。
インカメラの画角に入るように、雪と密着し顔を近づける。
海の匂いに混じって、彼女の髪の匂いがした。
きっと、海を見るたびに、潮騒を聞くたびに、潮の香りを嗅ぐたびに、雪のことを思い出すのだろう。
「1足す1は〜?にぃ~……コウ君も言ってよ」
「いや、タイミングが分からなかった」
「次から撮るときはこれが基本だからね。ほら、もう1枚撮るよ。1足す1は~?」
「にー」
「......コウ君、もっと楽しそうにできない?」
「これでも楽しんでるつもりなんだが」
「これからカメラ向けるたびにさ、笑顔の練習しよっか。普段は柔らかい表情もできるのに、どうして作り笑いは下手なのかなぁ」
「作り笑いって、できなきゃダメか?」
「社会に出た時苦労するでしょ。コウ君がこの有り様だと私、心配で成仏できないよ」
写真の中には、笑顔の雪とひどく硬い笑顔の自分がいた。
あんまりな出来栄えに、思わずスマートフォンを奪い取って何も言わずにシャッターボタンを押した。
「わ、顔作ってないよ」
「自然体でいいだろ?」
ビックリしたような顔で自分を見つめる雪と、いつもの仏頂面をした自分がそこにはいた。
こっちのほうが、いつもらしくていいな。
満足したのでまたスマートフォンを預けて、彼女を抱きかかえる。
急に抱きかかえられたので、雪はビックリしたような表情をして、一瞬嬉しそうな顔をして、その後暗い顔になった。
前より表情がよく分かるようになったのは、しっかり彼女を見るようになったおかげだろうか。
「江の島行こうと思ったけど、まだ海がいいのか?」
「......思ったんだけどさ、車椅子だと、無理じゃないかな。急こう配と階段ばっかりだったし」
「あー、確かに」
言われてみれば、前回行った時も階段の昇り降りが多いと思った気がする。
道も広いとは言えないものだったし、車椅子だと行けない場所も多いかもしれない。
「じゃあ、車椅子置いてったほうがいいか」
「え?」
「背負っていけばいいんだろ? それとも、恥ずかしいか?」
「......コウ君が疲れちゃうよ」
「いいよそれぐらい。俺が行きたいんだよ。今回は、二人で鐘鳴らして、南京錠をつけよう。前、俺やらなかったから」
折角来たのだ、前は気恥ずかしさでやらなかったことをする機会だ。
前回と同じ場所で、写真を撮って見比べたっていい。
やりたいことは、たくさんある。
「......コウ君って何でモテないんだろうなぁ」
「目つきだろ」
「私、コウ君の目好きだけど?」
「雪が変わり者なだけだよ」
「ふふ、そうかもね。でも、変わり者で良かったよ。コウ君を好きになれたから」
「急になんだ?」
「ふふふ、顔真っ赤だね」
「うるさい、舌噛むから喋るなよ」
「わぁ! もっとゆっくり歩いてよ。酔っちゃう、酔っちゃうってコウ君!」
「はは!」
雪の声と自分の笑い声が潮風に乗って遠くへ行く。
砂浜につけた足跡が波にさらわれて消えていく。
夏の終わり、二人だけの旅が始まった。
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