9月17日
「今、何時だろう……」
コウ君が来てから、どれだけの時間が経っただろうか。
何もする気が起きず、ベッドにもたれかかったままの姿勢でいたずらに時だけが過ぎて行く。
外の情報が入ってこないこの部屋では、体感以外で時刻を知ることはできない。
スマートフォンは充電が切れたまま放置され、時計は捨ててしまった。
元気であった時ならば、腹時計もある程度は機能していただろうが、今は何も感じない。
数日前までは、ぐぅぐぅとずっと腹の虫が鳴っていたが、今はもう空腹すら感じない。
冷蔵庫の中には何も無い。
食べられるものは全て食べてしまった。
ここ数日、水を飲む以外何も口にしてはいない。
水を飲まなければ死ねるのにと思ったが、自分の意思は想像より弱いらしい。
耐えがたき渇きに襲われると、芋虫のように惨めに這ってでも水道の方に向かってしまう。
そうして喉を潤して、自分の醜さに涙をこぼすのだった。
「会いたくなかったなぁ......」
真っ暗な天井を見上げて呟いた。
真面目な彼のことだ。
私と連絡が取れなければ、家に来ることは分かっていた。
それなのに、彼にバレるよりも前に病院に行くことはできなかった。
「ダメだなぁ......諦められないやぁ......」
言葉では、彼を拒絶した。
その方が彼がこの先、生きていきやすいと思ったから。
それでも、部屋に光が差し込んだ時。
そこに立っているのが、彼だったらいいなと思ってしまった。
ドアの鍵もかけないで、彼が助けに来てくれるのを待っている自分がいた。。
醜く、弱く、脆い心だ。
彼の姿を見た時に激しい喜びが湧いてきた。
そうしてすぐに、深い後悔がそれを塗りつぶしていった。
私を見る彼の目が、ひどく傷ついたものだったから。
あんな目をさせるくらいなら、さっさと死んでおけばよかった。
「ごめんね、コウ君」
どうやら泣き癖がついてしまったようだ。
ボロボロとこぼれ出した涙が頬を伝って落ちていく。
会わなければ良かったね。
私が声を掛けなければ良かったね。
ずっとずっと目で追いかけていたから、知っていたんだ。
あの展望台がお気に入りだってこと。
普段見ている景色が知りたくて、消える前に行ってしまったんだ。
本当に、ひっそりと消えるつもりだったんだ。
ごめんね、ごめんね。
好きになって、ごめんね。
——ガチャリ
唐突に、玄関のドアが開く音がした。
強盗だろうか。
足音は迷うことなくこちらに向かってくる。
予想だにしない事態に体がこわばる。
隠れようにも、この不自由な体では動くことすらままならない。
部屋の扉が開いて、明かりが点く。
恐怖で閉じることすらできなかった目に写った人は、一番思っていた人だった。
「おい、行くぞ」
「……え?」
「日本一周、夢だろ?」
デカいボストンバッグを片手に、コウ君が立っていた。
これは夢か、それともついに自分の頭がおかしくなったか。
混乱する自分とは関係なしに彼は自分に近づいてくる。
「江の島からスタートするか。また行きたいって言ってたから、丁度いいな」
そう言って彼は、自分を抱きしめた。
触れた肌の温かさが、これは現実だと訴えている。
どうして、来たのだろうか。
あれほど強く、ひどく拒絶してしまったのに。
どうして、嬉しくなってしまうのだろうか。
あれほど強く、固く諦めたはずなのに。
「なんで......なんで、また......」
彼の腕の中で、小さく呟くことしかできなかった。
あぁ、なんと醜く、弱く、脆い心だろう。
傷つけたくないと、忘れてほしいと願ったのに。
コウ君が近くにいる。
それだけでこうも、胸が喜びで震えてしまうのだ。
——————
「はぁ、はぁ、開けろ! 杉本ォ! 杉本ォ!」
コンビニから全力疾走して向かった先は、杉本の家だった。
荒い息を整えることもせず、チャイムもならさずドアを激しくノックする。
深夜にも関わらず大声で友人の名前を叫ぶ。
余裕はない。
いないなら、別の手段を探さなければいけないのだ。
少しもしないで、ドタドタとドアに向かってくる足音が聞こえる。
「コウ? こんな時間にいきなり——」
「車の鍵貸せ! 帰ってきたらレポートでも金でも俺にできることならなんでもするから、貸せ!」
「......いいよ。いくらでも使えばいい」
「恩に着る!」
車の鍵を差し出す杉本の手から奪い取るように受け取る。
(自宅に寄って、大学行って、コンビニはあとでいいか)
頭の中でこれからの算段を立てながら車のエンジンをかける。
そうして出発しようと思ってから、流石に説明不足すぎるかと思って窓を開ける。
「行きなって、急ぎだろ?」
口を開こうとした自分より先に彼が喋る。
ドアの横に立った杉本は、笑ってこちらに手を振っている。
あぁ、こいつは本当に、俺の表情を読むのが上手いな。
なら、深く説明はしない。
「お前の言う通り、自由にすることにした」
「それがいいよ。あぁ、全部終わったら流石に教えてよ」
「イヤってほど聞かせてやるよ。思い出をよ」
「楽しみにしてるよ。コウがどう自己満足するか」
アクセルを踏み込んで、夜の街に向かって走り出す。
「ありがとう!」
返事は聞かない。
時間は有限だ。
一度迷惑をかけると決めた以上、もうためらうことはしない。
それが、一人しかいない友人だとしても。
一番の人はもう、心に決めたのだ。
「……ありがとう、杉本」
それでも、届かないと分かっていても、口からこぼれたのは感謝だった。
——————
「なんで......なんで、また......」
近くで見た雪さんの顔には、新しい涙の痕が残っていた。
震えた声は、困惑の色を滲ませている。
当たり前だろう。
夕方に強く拒絶されたばっかりなのに、深夜にはもう同じ人物が家に不法侵入しているのだから。
自分が彼女の立場だったら、怖くて仕方ないだろう。
「約束、破りにきた」
「え?」
「消えるまで友達でいるって約束、破りに来た」
「......お別れしにきたってこと?」
怯えた顔の彼女に、心が痛む。
孤独が怖くないはずがない。
拒絶が辛くないはずがない。
どうして、そんな当たり前のことを分かってやれなかったのだろう。
強く、強く彼女を抱きしめる。
上手く言葉にできないから、行動で彼女に自分の思いを伝えよう。
「イヤだったら、終わった後に思いっきりビンタしてくれ」
「えっ、っ!」
何も言わずに彼女と唇を合わせる。
経験も技術もろくにない、ただ力任せに重ねだけのキス。
ただただ、火傷しそうな熱がそこにはあった。
腕の中、雪さんが驚いたように体を動かしていたが離しはしない。
心赴くまま、口づけをを堪能してから、本心を告げる。
「好きだ。どうしようもないほどに。ただの友達ではいられないほどに」
「......私、ファーストキスだったのに」
「俺もだよ。雪、返事が聞きたい」
今更になって、呼び捨てにしてほしいというかつての彼女の願いに応える。
こちらを見つめる彼女の瞳に、涙が溜まり始める。
大きなくりっとした目が潤んでいて、キレイだと思った。
「......遅いよ。だって、私もう、消えちゃうよ?」
「それが、どうした?」
「だって、イヤな記憶に、傷ついて、わ、私——」
「イヤな記憶になんてならない。傷にはなると思うけど、それでもいいんだ」
きっと、癒えない傷になるだろう。
消えてしまう彼女を、忘れてしまうことはできないだろう。
それでもいい。
今の気持ちに、もう嘘はつかない。
「私で、いいの?」
「雪がいい。それとも、俺のことは嫌いか?」
「嫌いなわけない!」
「ならいいだろ。返事、聞かせてくれ」
「......私も、私もずっと、好きだよ。コウ君」
良かった。
嫌われていたら、これからのことが全部できないからな。
強く抱きしめていた腕から力を抜く。
「ねぇ、これって、夢なのかな? だって、私に都合が良すぎるよ」
「頬でもつねればいいんじゃないか」
「......温かいね」
「なんで俺の頬なんだよ」
「だって、触りたかったし」
自分の頬に添えられた手の温もりを噛みしめる。
いつか無くなってしまうこの温かさを、忘れたくないから。
二人で見つめあって、自然とお互いに唇を重ねる。
先ほどとは違って、壊れそうなものに触れるような優しさだったが、伝わる熱は変わらなかった。
なるほど、杉本が遊び歩いてる理由もなんとなくわかる。
人肌から伝わる安心感と、通い合った心というものは、かくも気持ちのいいものなのか。
ただ、この時間に浸るつもりはなかった。
「さて、合意と見なすがいいな?」
「そうだけど、まさか、最後まで?」
肯定の言葉だけ聞いて彼女を抱きかかえる。
軽い、とても軽い体だ。
何の抵抗もなく持ち上げることができる。
「ねぇ、いきなりはちょっと心の準備が......コウ君、ベッドはそっちじゃないけど」
「風呂場ってこっちだろ?」
「あ、お風呂場でってこと? いきなりそれは特殊じゃないかなぁ」
「何言ってるんだ? シャワー浴びてもらうだけだが?」
「それって、そういうことじゃないの?」
「いや、ちょっと臭うから」
日常生活もままならないと言っていた。
きっと、シャワーすらまともに浴びれていないのだろう。
エアコンが効いているとはいえ、夏場にろくに入浴していない体は少し臭いを感じた。
下着姿で寝たきりだったのだ。
トイレが垂れ流しじゃないだけマシだろう。
「そういうことって、なんだ?」
「......コウ君、失望したよ。乙女心がひどく傷ついたよ」
「絶対に目を開けないから、シャワーの手伝いをしたいんだけど、ダメか?」
「なんかさぁ、扱いが介護じゃない?」
「介護してもらいたいから、病院に行きたいって言ってなかったか?」
「コウ君、杉本君以外の友達いた?」
「何で俺の友達の話になるんだ?」
「猥談とか——いや、もういいよ。肌も見ていいからさ、シャワー手伝ってよ」
話をしていくうちに、雪のいつもの明るさが出てきた。
内心で、ほっと一息つく。
表情に出る自分にしては上手く誤魔化せたようだ。
まぁ、杉本以外友達と言い切れる人はいないから、嘘はついていない。
とぼけただけだ。
そういうことがしたくないわけじゃない。
したくないわけではないが、一度でもしてしまえば歯止めが効かなくなりそうな気がした。
それに時間をかけることは、自分の望むことではない。
できる限り、日本を周るのだ。
それが、彼女の夢だから。
それを叶えることが、今の俺の夢だから。
「じゃ、俺、目つぶってるから指示してくれ」
「ねぇ、もしかしてこれからずっと、このスタイル?」
「トイレと風呂はそうじゃないか?」
「恋人っぽくないなぁ......」
「入浴用じゃないけど車椅子も一応あるから、一人の方がいいか?」
「え、コウ君車椅子持ってたの?」
「大学からパクッてきた」
「真面目君が、いっきにワルになったねぇ......」
「返すからいいんだよ」
大学に福祉学部があるだけあって、来客用の車椅子は複数常備されている。
それを夜間の警備員に無理を言って、半ば強引に借りてきたのだ。
学生証を叩きつけてきたから、明日になったら電話が来るだろう。
許可が下りなかったら、どうなるんだろうか。
問題行為で退学までいくだろうか?
それでもいい。
やりたいようにやると決めたのだから。
「雪」
「なに、コウ君?」
「絶対に、俺は忘れないから。一生、覚えているから」
「ふふ、重いなぁ」
「それだけ好きなんだ。変に大人ぶって、感情を出さないことが良いと思ってたんだ。もっと早く言えばよかった」
一度本音を口にしてしまえば、不思議とスラスラと口が回った。
あれほど、思いを伝えることに抵抗があったのに、今は伝えたくてしょうがない。
「好きだ。何回でも言える」
「私も、ずっと好きだよ。迷子の私を助けてくれたあの日から好きだったんだよ?」
「迷子?」
「やっぱり、コウ君は分かってないかぁ。杉本君を見習った方がいいよ。最初から私が、コウ君目当てって分かってたから」
「は?」
「杉本君が私を口説かないことに、疑問に思わなかったの?」
「あぁ、それは最近杉本に直接聞いたな」
「......最近なんだぁ。引いてたでしょ?」
「よく分かるな」
「コウ君、一緒に人間関係のお勉強する?」
「いらない。雪以外と付き合うつもりはない」
「うーん、それは嬉しいけど、単純に遺していくのが心配だなぁ。とりあえず、杉本君とはずっと仲良くしてね?」
「母親みたいな心配の仕方するなよ」
「ふふ、コウ君のお母さんって大変だったんだろうなぁ」
くだらない話ができるのが、何よりも嬉しかった。
前と同じように、笑い合えるのが嬉しかった。
もう一度、強く抱きしめる。
「コウ君、痛いよ」
「イヤか?」
「うーん。未練ができるくらいには、良いよ」
「なら、何回でもしようか」
「不思議だなぁ。コウ君が来る前はさっさと死にたかったのに、もう死にたくないや。感情って、単純だね」
「俺もだよ。さっきまで忘れようとしてたのに、もう忘れたくないと思ってる」
「ふふ。じゃあ、単純同士だね」
彼女が右腕で抱き返してくる。
顔が近づいて、おでことおでこが触れ合う。
後悔も足踏みも、もうしない。
至近距離で笑い合う彼女に誓う。
最期まで、彼女から離れることはない。
「江の島の次は、どこに行こうか?」
「どこでもいいよ。コウ君となら」
「それなら、どこまでも行けるな」
「ふふ、そうだね」
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