9月16日 ①
「暑いな......」
九月の半ばだというのに、平然と真夏日を記録してくる陽射しに思わず声がこぼれる。
自分が子供の頃は、秋の気配を感じるような時期だった気がするが、今はそうではないらしい。
使い古したリュックを背負い登校しているだけで、汗がじわりと流れている。
(雪さんに会えるだろうか)
結局、夏休みの間に彼女と会うことはなかった。
花火大会の日から、連絡も取れていない。
未読だった写真が既読になったことから、生きてはいるのだろう。
だから、今日は学校で会えるはずだ。
夏休み明けから後期日程になり、授業は基本的に一新されるがゼミはそうではない。
通年の単位であるため、後期になって急に来なくなるという話はあまりない。
ゼミが終わった後に、時間を作って二人で話したい。
叶うことならば、連絡をしてくれなかった理由も教えてほしい。
2週間ぽっち会えなかっただけで、心には燃え盛るような焦燥感があった。
それが恋心からくるものなのか、病気に対する不安からくるものかは分からない。
ただ、会って声を聞きたいという思いが募っていた。
だからわざわざ、授業もないのに朝から登校していた。
学食で待っていれば、あわよくば会えないだろうか。
そう淡い期待を胸に抱いて、一人で大学に続く坂道を歩いた。
——————
結論から言えば、その日は雪さんが大学に来ることはなかった。
ゼミの時間になって見慣れた顔が増えてきても、彼女は来なかった。
不思議だったことは、出欠の点呼で雪さんの名前が呼ばれなかったことだ。
大学は基本的に学生証を機械にかざすことで管理されているが、少人数の授業では点呼を取る教授も少なくない。
機械にかざして、授業そのものをサボる生徒への対策も兼ねているのだろう。
生徒の名前が次々と呼ばれていくなか、雪さんの名前が飛ばされたことに気がつく。
「今日杉本は欠席だ。あー、それじゃあ夏休みの課題の提出からしてくれ。そのあと後期の日程を確認して、今日は終わりにする」
教授の言葉に胸が騒ぐ。
何で、杉本は欠席だと教えてくれるのに、雪さんの情報は無いんだ?
彼女も欠席だと言ってくれればいいのに、どうしてなにも言及しないんだ?
自分以外の人も違和感を覚えたらしいが、教授に尋ねるようなことはせずに納得していた。
何事もなく淡々と進む時間に、気が狂いそうだった。
集中できない授業中、後ろでこそこそと話している人の会話が耳に入ってくる。
「雪ちゃんゼミ辞めたのかな? 最近付き合い悪かったしなぁ」
「学校ごと辞めたんじゃねぇの。長期休暇明けってそういうやつ出るし」
「ありえそう~。ああいう子ほど裏でトラブってそうだもんね。知ってる? 雪ちゃんSNS全部消してるんだよ」
「え? うわぁ本当じゃん。相互だったのにいないし。本当になんかやらかしたんじゃねコレ」
「消したのが9月になってからだから、そこで何かあったのかもね」
ドクンと心臓がひと際大きく跳ねた。
既読がついたのに返信が来なかったのは、9月の頭だった。
授業中にも関わらずスマートフォンを取り出して、返信が来るまで見るつもりではなかったアプリを開く。
そこには、真っ黒になったサムネイルだけが表示されていた。
いつからだ?
ぐにゃりと思考が歪み始める。
返信なんて来るはずがない。
アプリが消えているんだから。
「今日の授業はこれまで。来週からはちゃんとやるから準備してきてくれ」
教授の声は遠くから発せられたかのように、ぼんやりとしか聞き取れず耳から通り抜けていく。
どうすれば、何をすれば、どこに行けば。
彼女と出会ってから、何百回と繰り返した問いが、頭に響き続けていた。
「久瀬? おーい、聞こえてるか?」
「......すみません、考え事してました」
「真面目な君らしくないな。授業中にスマホ弄ってる姿初めて見たわ」
いつの間にか皆解散していたようで、教室には自分と教授しか残っていなかった。
丁度いい。
教えてくれるかどうかは分からなかったが、聞かずにはいられなかった。
「雪さんは、今日は体調不良ですか?」
「あー、なんだ。聞いてないのか? 久瀬と杉本は仲良かっただろ」
「……何をですか?」
「一身上の都合で退学だってよ。あ、言いふらすなよ。まぁお前なら大丈夫だろうけど」
「一身上の都合......」
「俺も学生課から聞いただけだから詳しくは知らないがな」
頭が真っ白になる。
大学に来れないほど、病気が進行しているのだろうか。
もう、会えないのだろうか。
そう思うと、思考より先に体が動いていた。
リュックも何も持たずに走り出す。
「久瀬!? おい! 荷物荷物!」
教授が後ろから叫ぶ声が聞こえるがお構いなしに走り続ける。
住所は分かる。
花火大会の日、家まで送り届けたから覚えている。
汗がいくら噴き出ようが、他の学生から奇異の目で見られようが関係なかった。
ただ早く、雪さんに会いたかった。
最初から、こうすれば良かったのだと、どこか心の奥底で囁く声が聞こえた。
——————
「はぁ、はぁ、はぁ」
アパートにたどり着いた時には息も絶え絶えになっていた。
スニーカーで全力で走ったから、ズキズキと踵が痛んでいた。
「部屋、知らねぇ」
アパートまでは知っているが、先に帰ってしまったからどの部屋に雪さんが住んでいるかは知らないことに気がつく。
管理者に電話するか?
何て言えばいいんだ。
同じゼミで、連絡が取れないから心配で来たんです、なんて言ったところで自分の見てくれでは信用してはもらえないだろう。
それに、拒否されたら会えないかもしれない。
俺は、今会いたいんだ。
膝に手を付き、息を整えながらアパートを睨みつける。
もういっそ、端から全部聞いて回ろうか。
判で押したような見た目に、何か手がかりがないか探しながらやけくそ気味に考える。
その景色の中、ふと郵便受けに乱雑に貼られたガムテープのドアの部屋が妙に気になった。
郵便受けにテープが貼られていることは珍しくない。
よけいなチラシが入らないように、入居者が居ないときに管理会社が貼っているからだ。
気になったのは、ドアののぞき穴すらテープで遮られていたから。
キッチンかトイレだろうか、ドア側についた窓も中を覗けないようにしっかりと隠されたその部屋に、彼女がいる気がした。
外側から絶対に見られないように対策されたその見た目が、病気を悟られないように厚着をしていた雪さんの姿と重なった。
震える指でインターホンを鳴らす。
ピンポーンと間の抜けた明るい音が響く。
……反応はない。
もう一度、鳴らす。
永遠に感じる静寂に、心が乱れる。
(もう、会えないのか?)
そう思った瞬間、手はドアノブに伸びていた。
普段なら、絶対にしない選択肢。
マナーもモラルもへったくれもなかった。
ガチャリと抵抗なく回ったドアノブに、また心が乱れる。
鍵がかかっていない。
腕を動かすと、ドアはキィと甲高い音立てて動き始める。
不法侵入だ。
それでも、目の前の可能性を諦めることはできなかった。
半開きになったドアに、覚悟を決めて声を掛ける。
「……久瀬だ。雪さん、入るぞ」
ドアを開けきると、エアコンの冷気とこもった臭いが流れ出てきて顔をしかめる。
長い間中に居続けたカラオケボックスのような臭いに近い。
換気はあまりされていないようだ。
部屋は暗く、まだ陽が出ているというのに中を十分に見通すことはできなかった。
居室と思われる部屋は扉で閉められていて、確認はできない。
ゆっくりと玄関に足を踏み入れる。
陽の明かりが入らないと、足元もおぼつかないような暗闇になってしまう。
手探りで玄関の明かりをつける。
(整理整頓......って感じじゃないな)
玄関から入ってすぐ横にあるキッチンに目をやると、何も置いていないガスコンロが目に入る。
フライパンも鍋も、調味料も何も置いていないその様子はまるで人が住んでいないかのようだった。
廊下の途中にある洗面台の鏡はヒビ割れており、まるで廃墟に来た気分だった。
「......久瀬だ、入るぞ」
扉越しに改めて声を掛けるが、返事はない。
一度深呼吸をして、居室につながる木製の扉をスライドさせる。
室内は廊下同様暗く、そしてあまりにも物がない。
家具は、ベッドと机ぐらいだろうか。
それ以外のものはなく、床の上に脱ぎ捨ててある服ぐらいしか目につくものは無かった。
それは、夏祭りの時に見た雪さんの服と同じものだった。
「......誰?」
聞き覚えのある声に安堵する。
良かった、また会えた。
廊下から漏れた光だけでは姿はしっかりと見えなかったが、ベッドの上に座っているようだ。
彼女に近づきながら、勝手に侵入してしまった言い訳をする。
「俺だ。久瀬だ。連絡が取れないから勝手に入った」
「……コウ君?」
「そうだ。倒れてたらいけないと思って——」
「イヤ!!」
「雪さん?」
「見ないで!! 見ないで!! 見ないで!!」
狂ったように叫ぶ彼女の声は、初めて聞くものだった。
喉がはち切れんばかりに荒げた、強い拒絶の声に思わず後ずさる。
壁にぶつかった際に、スイッチも押してしまったのだろう。
蛍光灯に光が灯る。
彼女の姿が、露わになる。
「......雪さん」
「見ないでぇ......お願いだから......」
ベッドの上でうずくまる下着姿の彼女に言葉が詰まる。
左腕は肩から完全に消失しており、右脚も太ももから下は見ることができない。
いつからだ。
いつからだ。
いつからだ。
どうしてこうなるまで、俺は何もしなかった?
部屋には、彼女の嗚咽だけが静かに満ちていた。
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