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8月31日

「あー、くそ」


 日が沈み始める時間だというのに、蒸し暑さは変わらずに不快であった。

 ぬるくなった麦茶をすすりながらノートパソコンと向かい合う。

 レポートに集中しようと思っても、何回も心の中に自責の念が湧いてくる。

 いまいちやる気にならず、ゴロンと体を床に投げ出した。

 緊急時、そうはいっても理由はあくまで個人的なものだ。

 悪かった運転マナーが脳内によぎって心を責める。

 割り切ればいい。

 好きな人のために無理をしたのだと言い切ればいい。

 ただ、そう簡単に割り切れないのが自分だ。

 悪事を見過ごせば、自分の中のルールを破れば、心が澱む。

 平気で悪事を行う人間にはなりたくなかった。

 速度超過や人身事故など法を犯したわけではないが、少なくとも褒められた運転ではなかっただろう。


「......軽かったなぁ」


 自責の念とともに湧いて出てきたのは、抱きかかえた彼女のことだった。

 成人女性を持ち上げた経験などあまりないので、どのくらいの体重が普通なのかは自分には分からなかったが、それでも明らかに軽かったと言い切れる。

 人を抱えて山道を走ったというのに、あまり体に痛みなどは現れてはいない。

 消えた腕の分なのか、それとも自分に隠している部位があるのか。

 彼女の病気がどれだけ進行しているかは気になったが、探るような真似は出来なかった。

 雪さんが話してくれないことを、自分から聞くのはためらわれた。

 心が澱む。

 聞かないと、知らないと後悔すると分かっていても、聞くことが出来ない自分の弱さにげんなりとする。

 知ったところで、何かを変えられるわけではない。

 それでも、何もできないまま、何も知らないままでこの関係が終わってしまうのはイヤだった。


「......返事、来ないな」


 かといって、自分は積極的に連絡が出来るタイプではなかった。

 一枚だけ撮った花火の写真を雪さんに昨日送ったが、返信は来ていない。

 こまめに返信をするタイプの彼女だったが、ここ最近は既読すらつかないことが増えてきた。

 心配と思う反面、こういったSNSの煩わしさは分からなくもない。

 友人が多くない自分でも、面倒くさくなる時があるのだ。

 自分よりはるかに人付き合いがある彼女にはなおさらだろう。

 メッセージを送っても邪魔になるだけだろう。

 そう結論付けて、書くだけ書いた文章を送らずにスマートフォンを投げ捨てる。

 エアコンなどついていないボロいアパートの部屋で、うだるような夏のじめじめとした暑さに頭がぼんやりとする。

 まとまらない思考が、押さえつけている感情をさらけ出させようとしてくる。

 いつも明るく、楽しそうに話してくれる彼女が好きだろう?

 自分の目を怖がらずに、真っすぐ見つめてくれるあの目が好きだろう?

 自分のことを理解しているかのように振舞う、あの態度が好きだろう?

 抱きしめた肌の柔らかさが、汗の臭いと混じった彼女の匂いが好きだろう?

 少なからず彼女は好意を寄せてくれているんだ、好きなようにすればいいじゃないか。

 ゴッ、と鈍い音がするほど強く自分の頭を殴る。

 不誠実だ、不潔だ、独りよがりだ。

 結局自分は、自分の感情のことしか考えられない人間のようだった。

 恋心を自覚したあの瞬間から、彼女の隣に立つ人は自分でいたいと思うようになってしまった。

 たまたま自分が、知られたくない雪さんの秘密を知ってしまっただけなのに。

 そこにふさわしい人間は、きっと自分じゃないのに。

 自分しか知らない彼女の秘密は、優越感を満たしてくれた。

 自分だけが、彼女の特別になれるのだと。

 気持ち悪い、浅ましい人間だ。

 彼女にとってそれは、重く苦しい現実の話なのに、自分は悲劇の主人公ぶって接しているのだから。


「......外出るかぁ」


 部屋にこもっていても、レポートのやる気が出る気配はなさそうだ。

 こういったマイナスの渦に飲み込まれそうなときは、体を動かすに限る。

 いくら頭の中で自分を責めたって、やることは変わらないのだ。

 雪さんのお願いを、全力で叶えてあげるだけだ。

 散歩をしようと部屋着から着替えたタイミングで、インターホンが鳴る音がした。

 通販を特に頼んだ予定はないから、セールスかなにかだろう。

 出るかどうか悩んでいるうちに、ドアノブが回る音がして軽薄な声が飛び込んできた。


「おっすー。コウ、ドライブしようよ。もちろんコウの運転でさ」

「お前、勝手に入ってくるなよ」

「鍵かけてないほうが悪くない?」

「犯罪者の理論だぞ、それ」

「知らない人にやったら犯罪だよ。でも僕らの仲なら許されるでしょ」

「通報してもいいんだぞ俺は」

「いたずらとしか思われないよ、ほら」


 ヒュっと投げられた車のキーを受け取る。

 杉本とドライブすることは少なくはない。

 だいたいはこいつの気分転換だったり愚痴だったりろくでもない理由で始まるのだが、車を運転するのは嫌いじゃないため断ることはなかった。

 財布とスマホだけポケットに無造作に突っ込んで、杉本のミニバンに乗り込む。

 キレイに磨かれた車体と掃除が行き届いた車内から、まめに手入れをしていることが伝わる。


「前から気になってんだが、掃除だけはしっかりしてるよな」

「人として当たり前でしょ?」

「普段からもちゃんとした姿を見せてくれればその言い分も納得できるんだがな」


 思い返してみれば、杉本の部屋が汚かった記憶もない。

 キレイに整理整頓された部屋に座る、チャラチャラとしたこの男のギャップにどうしても慣れない時があったことを思い出す。


「掃除、好きなのか?」

「いや、嫌いだよ。面倒くさいじゃん」

「なら、何でだ?」

「汚いとモテないでしょ。清潔感は大事だよコウ」

「お前らしい理由で安心した」


 エンジンをかけて目的地も決めずに走り出す。

 全開にした窓から流れる風が涼しくて心地よい。

 音楽もラジオも流さない。

 風切り音だけが二人の間に流れていた。

 数分も車を走らせればだんだんと人工物が減っていき、交通量も減ってきた田園風景が目に入る。

 信号もろくにないこの道は、適当にドライブするのに最適だった。

 対向車もろくにこないような道に入ると、杉本が話しかけてくる。


「なぁ、コウ」

「なんだ、夏休みの課題なら手伝わんぞ」

「それはもう終わってるからいいよ」

「……お前にしては早いな」

「遊ぶ時間が減るからね」

「それを普段からやってくれ」

「まあまあ、それはそれ、ってね」


 茶化した言い方をする杉本にチョップでもしてやりたかったが、運転中のためそういうわけにもいかない。

 こういった気安さが人気の秘訣なのだろうか。

 自分も人間関係で困らないためには、多少は見習った方がいいのだろうか。

 脳内に浮かんだ、明るく冗談を言う自分の姿はあまりにも違和感があった。

 ドラマに出てくるような、本性を現して豹変するタイプの悪役にしか見えなかった。

 20年も生きてきたのだ、自分に染みついてしまったスタイルを変えるのは難しそうだ。


「コウ」


 先ほどと違って、真剣な声色で名前を呼ばれる。

 あまり見たことのない真面目な雰囲気に、思わず身構える。


「コウ、無理してないか?」

「俺が?」

「そうだよ。7月から、暗い顔をするようになったから」

「……よく人を見ているな」

「コウが分かりやすすぎるだけだ。どうせその赤くなった額も自分で叩いたんだろう?」


 サンバイザーのミラーで自分の顔を確認する。

 こめかみの端に、ちょうど拳ぐらいの大きさの赤い痕がついていた。

 時間が経って腫れてきたのだろう。


「霧島ちゃんか?」

「......違う」

「まあ、コウならそういうだろうな。霧島ちゃん側の問題なんだろ?」

「どうしてそう思う?」

「最近になって明らかに人といる姿が減ったからね。それに、霧島ちゃんも暗い顔するようになったし」


 相も変わらず、人の表情には敏感な男だ。

 自分は気がつかなかった。

 雪さんが、人との接触を避けていることなんて、暗い顔をしているなんて、知らなかった。

 学校で会う彼女は、いつも明るく話しかけてくれていたから。

 ハンドルを握る手に力が入る。

 不甲斐ない、不甲斐ない、不甲斐ない。


「僕には話せない?」

「......俺からは話せない」

「はあ、友達が苦しんでいるのに、見てるだけってのはしんどいんだけどね」


 俺だって苦しい。

 そう言ってしまえば気が楽になるだろうか。

 杉本と違って、事情を知っていてなお、何もできない自分にそれを言う資格はないけれど。


「で、コウはどうしたいのさ?」

「......どうって」

「もっとさ、自分の心のまま動いていいと思うよ」

「それは自己満足だろ」

「対人関係なんてそんなもんだよ。相手のことだけ考えていたら、自分が壊れちゃうよ。思いやりと、自己犠牲を一緒にしちゃいけない」

「......お前みたいに、そう簡単に割り切れない」


 言いたいことは分かる。

 ただ、どうしても自分の根本がそれを許容できない。

 心の赴くままに、本心を話せばすっきりするだろう。

 好きだと言ってしまえば、もっと記憶を残したいと言えば、消えてほしくないと言えば、心にかかるもやも少しは晴れるだろう。

 それが、雪さんのためになるのか?

 そう考えると、口は途端に縫われてしまったかのように動かなくなってしまう。

 辛いのは、自分ではないのだ。


「まぁ、いつでも話だけなら聞くからさ、もっと気楽にやんなよ」

「......気を遣うなんて、らしくないな」

「おや、僕が気遣いの達人ってことを知らないのかい?」

「言ってろ」


 それからは、何も話すことなくただただ車を走らせた。

 話してもらえない辛さも、話せない辛さも、どうすればいいか自分には分からなかった。

 自分の心は、何をしたいのだろうか。

 沈みゆく夕日に投けかけてみても、答えが返ってくることはなかった。

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