7月3日
久瀬 幸大という男を語るとき、誰もが思い浮かべることは『怖い』ということだ。
目尻が鋭く跳ね上がり、突き刺すような視線。
眉は常にしわを作り、不機嫌そうな表情がより一層怖さを助長させている。
ギュッと引き結んだ唇からは、今にも怒声が飛び出しそうな危うさが感じられる。
筋トレが趣味ということもあり、ガッチリとした体は近づきにくさを醸し出している。
「コウ、また顔怖いって~。ただでさえヤーさんみたいな顔と体格なのにさぁ」
「誰がヤクザみたいな表情にさせてると思ってるんだ?」
「おぉ怖い怖い。そんなんだから女の子が寄ってこないんだよ」
「うるせぇ、次のレポートからは手伝わねぇぞ」
ヘラヘラと笑う同じゼミの友人、杉本に向かって久瀬は声色を作って睨むが効果はないようだ。
久瀬という男と語るとき、彼をよく知る人は『お人好し』と呼ぶ。
横断歩道を渡る子供がいれば、何か事故がないようにジッと見守る。
階段を上る老人がいれば、転ばぬようにスッと近くに寄る。
自分の身長が邪魔にならないように、講義ではいつも後ろの席に座る。
ただ、それがいつも理解されているとは言えないが。
子供からは顔が怖い人が見つめてくると泣かれ、老人からは現金は持っていないと警戒され、学校の教師からはいつも一番後ろに座るやる気のない生徒と判断される。
ある程度慣れたとはいえ、ここまで人に好かれないというのは心にくるものがあった。
それでも人助けをやめないのは、生まれ持った彼の性格からである。
困っている人を見ると、つい体が勝手に動いてしまうのだった。
「コウはなんだかんだ言って付き合ってくれるよねぇ」
「甘えんな、次はない」
「次のレポートの締め切りは来週かな~」
「締め切り覚えてんなら手を付けろ!」
思わず大きな声を出してから、今が早朝ということを思い出して恐る恐る両隣の部屋の雰囲気を探る。
特に物音はしないから、きっとまだ起きてはいないだろう。
ピィーと甲高く鳴く鳥の声だけが、徹夜明けの頭に鳴り響いていた。
レポートが完成した以上、杉本の部屋に長居する意味もない。
頭の中で今日の時間割を思い出しながら玄関に向かう。
「俺は帰る」
「おや、寝てかなくていいのかい?」
「布団で寝て起きられる自信がない。いつもの場所で仮眠する」
「あぁ、好きだねぇあの場所。大学まで送ろうか?」
「オールした人間の車には乗りたくない」
「あはは、慣れてるから問題ないのに。まぁいいや、また明日ね」
「......今日のゼミ、サボるなよ」
「行けたら行くよ」
「来ない奴のセリフなんだが?」
「あはは」
これ以上聞く耳はないと言わんばかりに玄関から追い出される。
カチャリと音を立てて閉まるドアを思いっきり叩いてやろうかと思ったが、それをするにはまだ頭が正常すぎた。
ご近所に迷惑をかけるのは本意ではないし、杉本は音なんて気にせず寝られるタイプだ。
自分の手が無駄に痛むだけだ、それならさっさと移動した方が有意義な時間の使い方というものだ。
よりにもよって一限の授業が入っているのだ。
行動するのが遅くなればなるだけ仮眠時間が消える。
杉本と大学の中間ぐらいにある自分のアパートに移動し、サッとシャワーだけ浴びる。
まだ本格的な夏とは行かないまでも、梅雨の蒸し暑い季節は肌のべたつきが気になる。
シャワーを浴びているうちに眠気が飛んでいくが、これは一時的なものだ。
睡眠不足は、睡眠をとることでしか解消できない。
午後も授業があることを考えるとやはり、仮眠を取るのがベストだろう。
バッグに教科書を詰め込み、鏡で最低限の身嗜みを整える。
鏡に映る無愛想な自分は、眠気によっていつもより一層不機嫌に見える。
ため息を一つついて、学校に向かって歩き出す。
どうしてこうも、自分は怖い顔になってしまったのだろうか。
原因は分かっている、吊り上がった三白眼だ。
生まれもったものだから仕方がないとは分かっているが、やはり人相が悪いというのはコンプレックスであった。
人相が悪いと人から怖がられ、善行を積んでも裏があると思われる。
弁解したところで信じてもらえないので、必然的に口数が減る。
そうなるとより無愛想に見えるらしく、また怖がられる。
それを繰り返していくうちに、段々と仏頂面が基本的な表情になってしまった。
よく一緒にいる杉本も、決して甘い顔と言えるような顔ではない。
それでも、彼はモテる。非常にモテる。
茶髪に染めた髪を後ろで束ね、糸目でいつも薄ら笑いを浮かべている細身の男。
自分と二人して反社コンビなどとひどいあだ名をつけられたこともある。
曰く、暴力担当と頭脳担当らしい。
そんな怪しげな見た目でも杉本が常に誰かしらといるところを見るに、表情豊かであることは大事であるようだ。
試しに作り笑いの一つでも浮かべてみようと思ったが、錆びついた表情筋は思った通りには動かない。
口角を少し上げることさえ、まるでギギギと音が鳴っていそうなほどぎこちのない物であった。
反対車線にいる、早朝の散歩をしているであろう老夫婦が身を寄せ合ってこちらを見ていることからも、ろくな顔にはならなったようだ。
(そんなに俺の笑顔は怖いか......)
もう一度、深くため息をつく。
もう慣れた反応ではあるが、やはり悲しみの感情が心にあふれる。
目的地に向かう足を速めて気分を切り替える。
徹夜明けのボケた頭では、何事も深く感じ取ってしまう。
さっさと寝るに限る。
大学へと続く坂道を黙々と歩く。
なぜこんな山の麓に大学なぞ建てたんだろうか、歩くだけでじんわりと汗をかく。
早朝のため閉じている校門のシャッターを横目に不満をこぼす。
大学3年生になった今でも、もっと市街地に作ればいいのにと思うことが絶えない。
車を持っているような人間には大した苦労ではないだろうが、自分のような免許しか持っていないような人間にとっては登下校すら一苦労だ。
駐車場にほったらかしにされた車を羨むような目で見ながら、大学を通り過ぎてまだ坂を登る。
大学から300mほどだろうか、ろくに整備もされずに雑草が生い茂った歩道を歩く。
途中、歩道から逸れて山道に入ると、目的地が見えてきた。
ほとんど獣道といっても差し支えない、土と草に埋もれたひび割れたレンガの道を進む。
ポツンと開けた場所には、ろくに整備もされていないであろう屋根とペンキのはがれた木の椅子がある。
元々は展望台があったらしいが、管理する採算が合わないという理由で撤去されたらしい。
少し山から突き出るように作られたコンクリートはひび割れており、誰も入らないように黄色の立ち入り禁止のテープが張られている。
この寂れた雰囲気が好きで、夜勤明けの仮眠が必要な時や一人になりたい時などは度々この展望台に来ていた。
大学から近いのに、誰も来ないところも自分の好みであった。
ベッドで寝てしまうと起きられないが、人の目があると寝付けないという困った体質のせいで仮眠場所を見つけるのは苦労した。
転々と仮眠できそうな場所を探し歩き、大学2年になってようやく見つけた自分だけのオアシスだ。
展望台には立ち入れないが、ベンチからでも見られる街の景色や荘厳な山々を眺めるだけでも楽しいと感じる。
少しだけ朝の景色を楽しんでから仮眠しようと、ベンチに目をやった時初めて先客がいることに気がつく。
(霧島さんか......?)
朝日でハッキリとは見えないが、目つきをギリギリまで細めれば同じゼミの女子だと分かった。
ダークブラウンのショートボブで、非常に可愛らしいくりっとした目が印象的な、お嬢さんと呼ぶのがピッタリくるゼミ仲間、霧島 雪だ。
杉本と同じく、自分を怖がらずに話しかけてくれる数少ない人物である。
性格良し器量よしと欠点を上げることが難しい人間ではあるが、一つだけ変わった特徴がある。
肌の露出を極端に嫌うことだ。
夏場であろうとも長袖長ズボンは当たり前、インナーを手首が隠れるまで伸ばし白い手袋をいつも欠かさずに着けている。
なんでも日光に極端に弱い体質らしく、なるべく日の光を浴びないようにしているらしい。
大変な体質だ、初めて聞いた時はそう思ったが周りの人間は違ったらしい。
やれ醜い傷が服の下にはあるだの、上品ぶっているだの、下世話な人間は根も葉もない噂をたてていた。
どうして本人の言葉をそのまま聞き受け入れられないんだろうかと憤慨したものだ。
『うーん、良くないなぁ。良くないよコウ』
『杉本もやっぱり陰口はイヤなのか?』
『いや、ああも肌を隠されるととてもエッチに見えるよ。どう脱がしてやろうかな』
『もうお前には真面目な話は振らん』
『あはは、コウは気にしいだなぁ。自分の感想を大事にした方がいいよ』
『楽しそうですね。私も混ぜてもらってもいいですか?』
『おや、選ぶ友人は僕らでいいのかい? どっちもろくでもない噂で持ちきりだけど』
『俺をお前と一緒にするなよ』
『コウ、君の方が良くない噂は多いんだぜ?』
『うふふ、知ってますよ。暴力担当なんでしょう?』
『勘弁してくれ、人を殴ったことはない』
『人以外なら殴ったことあるみたいな言い方だね』
『お前を最初の人間にしてやったっていいんだぞ』
『おお怖い、霧島さんもなんか言ってあげてよ』
『ふふ、仲がいいんですね』
……ろくでもない思い出がぶり返してきた。
初めて霧島さんと会った大学2年の時の記憶だ。
それからゼミの課題や学食などで顔を合わせるたびに、会話をするような仲になった。
他の女子と違って最初から自分に対する恐怖は持ち合わせてはいなかったようだが、何故だろうか。
まぁ、今はそれを考える時ではない。
霧島さんがいるなら仮眠は取れそうにない。
声を掛けるべきか、他の場所に移動するべきか。
一瞬だけ考えて立ち止まった時、座っていた霧島さんの腕が動く。
「……あ?」
いつもしている手袋を外し手のひらを太陽にかざしているその姿は、なんてことはない普通の光景のはずだった。
自分もたまにやるからだ。
日光が手のひらを透かし、少しだけ赤くなるのがなんとなく好きだったから。
ただ、目に飛び込んできた光景は想像していたものとは違った。
太陽は手のひらの血潮を透かすことはなく、何も遮られずに霧島さんを照らしている。
目をこすり、何度も瞬きを繰り返しても目に映るものは何も変わらない。
左手の指先が完全にない。
それどころか、手のひらが少し半透明になっている。
皮膚が見えない、血管が見えない、骨が見えない。
そこに存在しなければいけないものが、何一つ存在していない。
俺は、何を見ている? いや、何故見えていない?
動揺のあまり体が後ずさる。
靴についた砂利と、レンガの道が擦れてジャリとイヤな音をたてる。
ベンチに座っていた霧島さんがその音に振り返る。
左手は隠すように、胸元に寄せられている。
その隠す仕草に、今見たものが見間違いではないということを実感させられる。
「......久瀬君?」
「あぁ、その、見るつもりはなかったんだ。いつもここで仮眠してて、それで......」
霧島さんと目が合って、思わず言い訳を並べてしまう。
彼女の顔には驚きはなかった。
ただ困ったように少し笑うその姿が、何故か胸を苦しめた。
「ごめんね、見せるつもりはなかったんだけど。誰もいないし、いい景色だったからつい油断しちゃった」
あぁ、やはり見間違いではないようだ。
ひらりひらりと振られる左手には、指先が見えてはいなかった。
いや、振られているかどうかすら分からなかった。
半透明になった手のひらがかすかに揺れていることしか分からないから、判断はつかない。
「その指先......」
「うん。病気なんだ。“透明化症候群”って知ってる? ちょっと珍しいやつ」
まるで珍しい風邪にでもかかったような明るさで、彼女は言った。
頭の整理が追い付かない。
名前は知っている。その最後も。
白い手袋をはめなおした左手は、まるで何もなかったかのように指先までしっかりと動いている。
「二人だけの秘密にしておいてほしいな」
透明化症候群。
体の一部が透明になって消えていく謎の奇病。
体の末端から始まるそれは、やがて体全体に広まっていく。
「ごめんね、ひっそりと消えるつもりだったのに。イヤな記憶になっちゃうね」
透明になった体がどこへ行くかは誰も知らない。
分かっていることはただ一つ。
いずれこの世から、何も残らずに消え去るだけだ。
「ねぇ、消えるまで、変わらずに友達でいてくれる?」
「......当たり前だ」
「久瀬君は、ずっと変わらずに優しいね」
明るく振舞う、彼女の声がやけに遠くに聞こえた。
絞り出した声が、形になったかどうか自信はなかった。
評価、感想、誤字指摘等していただけると嬉しいです。