鼻毛
鼻毛を抜いたら異世界に転移してた件
「ふぅ……今日も疲れた……」
終業のチャイムが鳴り響く中、冴えないエンジニアの田中一郎、30歳は深い溜息をついた。薄給、ニキビだらけの肌、そして何よりも深刻なのは、生まれてこの方女性とまともな会話すらしたことがない童貞であることだ。社内ではその風貌から、陰で「バキ童」などと不名誉なあだ名で呼ばれていることも彼は知らない。
帰宅後、コンビニで買った発泡酒をプシュッと開け、一郎はテレビを見ながらソファーに寝転がった。つまみはポテトチップス。至福のひとときである。
ぼんやりと画面を見つめながら、何気なく鼻に指を入れる。カサカサとした感触。どうやら溜まっていた鼻くそを処理するタイミングらしい。ついでに、一本だけ妙に主張している鼻毛が気になった。
「ん?」
指先で摘まみ、軽く引っ張る。ツンとした軽い痛み。特に深く考えることもなく、その鼻毛を抜き取った瞬間だった。
視界が歪んだ。
まるで洗濯機の中に放り込まれたかのような強烈な遠心力。立っていられないほどの激しい揺れ。一郎は咄嗟に目を瞑り、身を縮こまらせた。
「うわああああああ!」
悲鳴を上げる間もなく、その感覚は唐突に終わった。恐る恐る目を開けると、そこは一郎の知っているはずの殺風景なワンルームマンションではなかった。
見渡す限りの緑。高くそびえ立つ見慣れない樹木。足元にはふかふかの草が生えている。頭上には青く澄んだ空が広がり、時折、見たこともないカラフルな鳥が鳴きながら飛び去っていく。
「……え? ここ、どこ?」
一郎は完全に混乱していた。夢でも見ているのだろうか。頬をつねってみる。痛い。現実だ。
状況が全く理解できない。最後に見たのは、自室の天井だったはず。それがどうしてこんな場所に……。
その時、ふと脳裏をよぎったのは、趣味で読み漁っていた異世界転生ものの小説の数々だった。主人公がトラックに轢かれたり、不慮の事故に巻き込まれたりして、見知らぬ世界に飛ばされるという、あの手の物語だ。
「まさか……俺も……異世界転生……?」
ありえない、と思いつつも、この状況を説明できるのはそれしかないような気がした。
幸い、一郎は異世界ものの小説を読み慣れていたおかげで、パニックになることなく、次に何をすべきかを冷静に考えることができた。まずは情報を集めること。そして、安全な場所を確保すること。
異世界で最初にやるべきことといえば、やはり冒険者ギルドだろう。様々な情報が集まる場所であり、仕事を得ることもできる。
意を決した一郎は、茂みを抜け、開けた場所へと歩き出した。しばらく進むと、遠くにレンガ造りの建物が見えてきた。それが目的の冒険者ギルドに違いない。
ギルドの扉は大きく、装飾も凝っていた。中に入ると、酒場のようにも見える賑やかな空間が広がっていた。屈強な戦士風の男や、ローブをまとった魔法使いらしき人物、そして様々な種族と思われる人々が、食事をしたり、談笑したりしている。
受付には、愛想の良い女性が座っていた。緊張しながらも、一郎は彼女に話しかけた。
「あの……冒険者登録をしたいのですが」
受付の女性はにこやかに微笑み、「かしこまりました。こちらに必要事項をご記入ください」と、一枚の羊皮紙と羽根ペンを差し出した。
一郎は震える手で名前や年齢などを記入していく。最後に「得意なスキル」という項目があった。
(俺のスキルってなんだ……? エンジニアとしての知識は役に立つのか? いや、そもそもこの世界にパソコンなんてあるわけないよな……)
途方に暮れながらも、何か書かなければならない。
ふと、あの鼻毛のことを思い出した。まさか、そんなわけないだろうと思いつつも、他に思いつくことがなかった一郎は、半ば自棄っぱちで「鼻毛」と記入した。
受付の女性は、一郎の書いた文字を見て、一瞬目を丸くしたが、すぐ冷静になり、「かしこまりました。少々お待ちください」と奥に声をかけた。
しばらくすると、いかつい顔をしたギルドマスターらしき男が現れた。彼は一郎をじっと見つめると、訝しげな表情で言った。
「お前が、鼻毛スキルを持つという冒険者か?」
一郎は気まずそうに頷いた。「は、はい……」
ギルドマスターは顎鬚を撫でながら、何やらブツブツと呟いている。「鼻毛か……そんなスキル、聞いたこともないぞ……」
訝しげな視線を感じながらも、一郎は覚悟を決めていた。「試していただければ、わかると思います」
ギルドマスターは仕方なさそうに頷き、「では、そこの訓練場で試してみるか」と言って、一郎をギルドの奥にある広いスペースに案内した。
訓練場には、様々な武器を持った冒険者たちが訓練に励んでいた。彼らは、珍しいスキルを持つという一郎に興味津々の様子で視線を送ってくる。
ギルドマスターは、地面に生えている雑草を指差し、「あれを、お前のその『鼻毛』とやらで採取してみろ」と指示した。
一郎は言われた通り、意識を集中させてみる。すると、鼻の奥がムズムズするような感覚がした。次の瞬間、彼の鼻の穴から、細く、しかし確かに伸びる茶色の毛のようなものが現れた。それはまるで生きているかのように、意思を持って雑草へと伸びていく。
周囲の冒険者たちは、その奇妙な光景に目を丸くしている。
伸びた鼻毛は、器用に雑草の茎を掴み、根元から引き抜いた。そして、何事もなかったかのように、一郎の鼻へと戻っていく。採取された雑草は、一郎の手の中に落ちた。
「こ、これは……!」
ギルドマスターは驚愕の表情を浮かべている。他の冒険者たちも、信じられないといった様子でざわつき始めた。
一郎自身も、この予想外の展開に驚きを隠せない。まさか、本当に鼻毛がスキルだったとは……。しかも、自動で薬草を採取してくれるとは、想像以上だ。
ギルドマスターは興奮した様子で言った。「もう一度やってみろ! 今度はあそこの花を採取してみろ!」
一郎が再び意識を集中させると、鼻毛は素早く伸び、鮮やかな花を摘み取って戻ってきた。
「こいつはすごい! まさか、こんなスキルが存在するとは……」ギルドマスターは目を輝かせた。「お前のスキルは、間違いなく役に立つぞ!」
その後、一郎は冒険者ギルドに無事登録することができた。スキル名は、そのまま「鼻毛」。ギルド内では、最初は物笑いの種になったものの、その驚異的な採取能力が知れ渡るにつれて、徐々に一目置かれる存在となっていった。影でのあだ名は相変わらず「バキ童」だったが、その意味合いは少し変わってきたかもしれない。
一郎が最初に受けたクエストは、もちろん薬草採取だった。ギルドマスターは、彼の鼻毛スキルがどれほどのものか試したかったのだろう。
指定された場所へ向かうと、そこには様々な種類の薬草が生い茂っていた。一郎が意識を集中させるだけで、彼の鼻毛はまるでトリュフを探す豚や獲物を探す犬のように、次々と薬草を見つけ出し、丁寧に採取していく。そのスピードと正確さは、熟練の採取者も顔負けだった。
しかも、驚くべきことに、採取した薬草は、一郎の意識の中でまるで別の空間に収納されているような感覚があった。試しに「取り出す」と念じると、採取したばかりの薬草が、彼の目の前に現れたのだ。
「こ、これは……異次元収納!? まさか、鼻毛にそんな能力まで……」
一郎は自分の鼻に感謝したくなった。まさか、コンプレックスだった鼻毛が、異世界でこんなにも役に立つとは、夢にも思わなかった。
薬草採取のクエストは、あっという間に完了した。他の冒険者が数日かけて行うような量を、一郎は半日で終わらせてしまったのだ。ギルドに戻ると、その成果にギルドマスターは再び目を丸くし、破格の報酬を支払ってくれた。
それからというもの、一郎は主に薬草採取や、安全な場所での素材集めのクエストを中心に受けるようになった。危険な魔物と戦うのは、まだ自信がなかった。
鼻毛スキルのおかげで、クエストは常に順調に進んだ。採取系のクエストでは無類の強さを誇り、ギルド内での評価も徐々に上がっていった。
薄給のエンジニアだった頃とは打って変わり、生活は豊かになり、食事も満足に取れるようになった。
ニキビは相変わらずだったが、精神的な余裕ができたせいか、以前ほど気にならなくなっていた。何よりも、誰かの役に立っているという実感と、自分のスキルが認められているという喜びが、一郎の心を温かく満たしていた。
たまに、採取した珍しい薬草や素材をギルドの他の冒険者と分けたり、困っている人に少し分けてあげたりすることもあった。そんな時、彼らは心からの感謝の言葉をくれた。それは、孤独な童貞エンジニアだった一郎にとって、生まれて初めての温かい交流だった。
異世界での生活は、スローではあったが、確実に充実していた。魔物との激しい戦いはないものの、毎日が新しい発見と小さな喜びで満ちていた。
そんなある日、一郎はギルドで少し高ランクの護衛クエストの依頼を見つけた。街道を移動する馬車を、魔物の襲撃から守るというものだ。報酬はかなり高額だったが、危険も伴う。
迷った末に、一郎はクエストを受けることにした。自分の力がどこまで通用するのか試してみたかったし、何よりも、困っている人を助けたいという気持ちが湧き上がってきたからだ。
護衛の依頼主は、豪華な装飾が施された馬車だった。御者を含め、数人の護衛騎士が周囲を固めている。一郎は、ギルドで紹介されたリーダー格の騎士に挨拶をした。
「今回、護衛を務めさせていただきます、冒険者の田中一郎と申します」
騎士は少し訝しげな表情を浮かべた。「あなたが……ギルドで噂の鼻毛使いですか?」
やはり、そのスキルは有名になっているらしい。一郎は苦笑しながら頷いた。「ええ、まあ……」
道中、特に大きな魔物の襲撃はなく、平和な時間が過ぎていった。一郎は、鼻毛スキルで周囲の警戒を怠らずに行っていた。微かな魔物の気配も、彼の鼻毛は敏感に察知することができたのだ。
しかし、目的地まであと少しというところで、突如として森の中から複数の影が飛び出してきた。それは、鋭い爪と牙を持つ、狼のような魔物だった。
「魔物だ! 警戒しろ!」
騎士の号令が響き渡る。護衛騎士たちは剣を抜き、馬車の周囲を囲んで応戦する。しかし、魔物の数は多く、徐々に押され始めていた。
一郎も、咄嗟に鼻毛を伸ばし、魔物たちを牽制しようとした。しかし、相手は動きが速く、なかなか捉えられない。
その時、馬車の中から、震えるような女性の声が聞こえた。「きゃああ!」
一郎は、いてもたってもいられなくなった。彼は意を決して、馬車に近づき、中の様子を覗き込んだ。
そこにいたのは、息を呑むほど美しい少女だった。絹のような黒髪、吸い込まれそうな瞳。豪華なドレスを身につけており、その身のこなしから、ただの貴族の娘ではないことが窺えた。恐怖に顔を青ざめさせながらも、気品のある佇まいは崩れていない。
(この人が、護衛対象のお姫様……!)
一郎は、自分が助けなければならない存在を悟った。
魔物たちの攻撃は激しさを増し、ついに一匹の魔物が、護衛騎士の隙を突いて馬車に迫った。
「危ない!」
一郎は咄嗟に、自分の持つありったけの鼻毛を伸ばし、その魔物に絡ませた。予期せぬ攻撃に、魔物は動きを封じられ、体勢を崩す。その隙に、近くの騎士が剣で魔物を仕留めた。
一郎の奇妙な攻撃に、騎士たちは一瞬戸惑ったものの、すぐにそれが有効な手段だと理解した。彼らは一郎と連携し、鼻毛による牽制と、騎士たちの攻撃で、徐々に魔物の数を減らしていった。
しかし、高ランクの魔物はやはり手強い。一体の大きな魔物が、強烈な咆哮とともに、周囲の騎士たちを吹き飛ばした。その巨体は、一郎の鼻毛などものともしないだろう。
絶体絶命のピンチ。その時、一郎の脳裏に、異世界小説で読んだある描写が蘇った。主人公が、ピンチの時に隠された能力に目覚めるという、あの展開だ。
(俺の鼻毛には、まだ何か隠された力があるはずだ……!)
一郎は、全身の神経を鼻に集中させた。すると、今まで感じたことのない、強烈なエネルギーが鼻の奥から湧き上がってくるのを感じた。
次の瞬間、彼の鼻から伸びた鼻毛は、まるで黒曜石のように硬質化し、その先端は鋭い刃物のように尖っていた。それは、ただの体毛ではなく、異質な力を持った武器へと変貌していたのだ。
硬化した鼻毛は、意思を持つかのように巨大な魔物に向かって伸びていく。鋭い先端は、魔物の硬い皮膚を容易に貫き、深々と突き刺さった。
魔物は苦悶の叫びを上げ、その巨体を激しく痙攣させた後、バタリと地面に倒れた。
周囲は静まり返った。騎士たちは、信じられないといった表情で、鼻から漆黒の刃を生やしている一郎を見つめている。
馬車の中から、お姫様がゆっくりと顔を出した。彼女の瞳には、先ほどの恐怖の色は消え、代わりに深い興味と、ほんの少しの畏敬の念が宿っていた。
「あ、あなたは……」
一郎は、硬化した鼻毛をゆっくりと鼻に戻しながら、照れくさそうに言った。「ただの、鼻毛使いです」
魔物の襲撃を退けた後、お姫様は一郎に深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。彼女の名前は、アリアといい、この国の王女だった。
アリアは、今回の移動の目的や、魔物に襲われた経緯などを丁寧に説明してくれた。一郎の勇敢な行動と、 鼻毛という面妖なスキルに、彼女は強い興味を持ったようだ。
その後、一行は無事に目的地へと到着した。アリアは、一郎に破格の謝礼を渡し、王都への招待を申し出た。
戸惑いながらも、一郎はその誘いを受けることにした。王都という場所への興味もあったし、何よりも、美しいアリアと会える時間を一時も逃したくなかったからだ。
王都での生活は、一郎にとって全く新しいものだった。豪華な宮殿、洗練された人々、そして何よりも、常にそばにいるアリアの存在。
アリアは、身分の違いなど気にすることなく、一郎に積極的に話しかけてくれた。彼の変なスキルについても興味津々で、色々な質問をしてきた。一郎は、自分の生い立ちや、異世界に転移してきた経緯などを、一切合切全て話した。
二人は、王都の庭園を散歩したり、一緒に食事をしたりする中で、順調に心を通わせていった。一郎は、アリアの純粋な心と、他人を思う優しさに惹かれていった。一方のアリアも、一郎の飾り気のない人柄と、強さに惹かれていた。
かつてモテなかった童貞エンジニアは、異世界で一国の姫と恋に落ちるという、信じられないような展開を迎えていた。
しかし、二人の間には、身分という大きな壁が立ちはだかっていた。王族と平民の恋は、決して許されるものではない。周囲の目も厳しかった。
それでも、二人の気持ちは日に日に強くなっていった。一郎は、アリアを守りたいと強く願うようになり、アリアもまた、一郎のそばにいたいと願うようになっていた。
ある夜、アリアは密かに一郎を招き、真剣な眼差しで言った。「一郎さん、私は……あなたのことが好きです」
一郎は、その唐突な告白に言葉を失った。まさか、自分のような男が、こんなにも美しいお姫様に愛されるなんて。
「アリア様……俺も、あなたのことが好きです」
二人はお互いの手を取り合った。愛ゆえに彼らの思う未来は決して容易ではないことを、二人は覚悟した上での判断だった。
身分の壁、周囲の反対、そしてこの異世界に潜む様々な危険。それでも、二人はお互いの力を信じ、共に未来を切り開いていくことを誓った。
一郎の鼻毛は、今日もまた、二人の未来のために、静かに、しかし確実に、その鼻毛力を発揮し続けるだろう。
(完)