幕間02 死にたくなっても
「ただいま」
帰宅を告げ、玄関の扉を閉めた途端、私の中で渋滞していた感情が押しやられていくように切り替わる。雨で重くなったスニーカーを脱いでフローリングに踏み入ると、靴下がじゅくりと嫌な音をたてた。感触が気持ち悪い。
「おかえりナナ、ずいぶん遅かったわね――ってどうしたの? すごい濡れてるじゃない」
晩ごはんの支度中だったママがリビングから現れ、私の姿を見て驚く。まあ、当たり前だよね。雨と泥でぐしゃぐしゃになってるもん。
「転んだだけだよ」
「転んだ? 怪我はないの?」
「大丈夫だよ」
「すぐにシャワー浴びてきなさい」
「わかったよ、ママ」
余計な詮索をされないようママに笑顔と心配無用を突きつけて、私はバスルームへと向かう。脱いだジャージと靴下を洗濯カゴに放り込むと、洗面所の大きな鏡の前で、私は一度だけ立ち止まった。
――ひどく汚れた姿だ。ぜんぜん可愛くない。
中に着てたシャツも汚れてるし、髪は乱れてて、顔はひどく疲れ果てていた。こんな姿で村崎くんにあんな醜態を晒していたと思うと、恥ずかしくなってくる。
私は鏡に近付き、もっと顔を凝視する。学校を休んだ昨日、一晩中泣き明かした後の目の腫れは、だいぶ引いた模様。村崎くんも気に留めていなかったようだし、良かった。
「はぁ……」
溜め息を一つ。鏡がわずかに曇った。今まで隠し通していた本心を、村崎くんに打ち明けてしまったことを思い出す。気が重くなってきた。だめだ、早くシャワー入ろう。
――汚れも憂鬱も、全部洗い流さなきゃ。
シャツも下着もすべて脱いだ私は、カラリと音をたて、バスルームの扉を開いた。早速コックをひねると、シャワーヘッドからお湯が出てくる。瞬く間に湯気が立ち昇り、冷えたバスルームが暖かくなってきた。私は顔をうつむかせ、頭のてっぺんからシャワーをかぶる。
そのまましばらく浴び続けていると、ふと、あの一言が頭をよぎった。
『だって私、カワイイし』
「……なんで、あんなこと言っちゃったんだろう」
シャワーにうたれたまま、誰に問い掛けるでもなく、自分に尋ねてしまった。公園のベンチで村崎くんと話した時のことを、私は改めて振り返っていく。
村崎くんが急に音楽を流し始めた時は、びっくりした。
何度か唄ったこともある曲だったし。
それでも、それだけだ。
自分のことを必要以上に話すつもりなんてなかった。
村崎くんが諦めるまで、無視を続けるつもりだった。
なのに、村崎くんは諦めてくれなかった。
私のことが『好き』とまで、言われた。
その後、曲が変わって――
まるで私が、私じゃないような気がして。
いや、違う。
あの時の私は、どの私よりも私だったんだ。
誰にも見せないよう、気取られないようにしていた。
――本当の私。
なんで、知り合ったばかりの村崎くんに。
別に興味すらも無かったはずの、彼。
今でも、あの感触が身体に残ってる。
雨の中、抱きしめられて。
村崎くんも『死にたかった』って。
押し付けられるように伝えられて。
押し付けられるように尋ねられて。
私の胸の内を、さらけ出してしまった。
勝手だよ。
村崎くんはすごい勝手だ。
なのに、それなのに。
今になって、なんで。
こんなにも、村崎くんのことが――
「ナナー? いつまで入ってるのー? もう晩ごはんできてるわよ」
シャワーの音すらも聴こえなかった私の意識が、ママの声で現実に引き戻された。急いで頭と体を洗い終え、バスルームから上がり、タオルで全身を拭く。これ以上、考えるのはやめとこう。そう踏ん切りをつけた私は、再び鏡の前に立った。
うん、いつもの私だ。
やっぱりカワイイ。
――なんてね。
クラスでひどい目に遭っても。
仲間外れにされても。
誰も助けてくれなくても。
私は私なんだ。
これだけは、譲らないよ。
――たとえ死にたくなっても。




