35話 筵(ムシロ)
翌朝の土曜――4月30日。
どこか虚ろな表情を浮かべたリクは、リビングのソファにじっと腰掛けていた。部屋の中には、連日続いていた豪雨が嘘だったかのように、穏やかな春の日差しがレースカーテン越しにそそいでいる。思わず何処かへと出掛けたくなるような、そんな朝だった。
(身体……だるいなぁ)
しかし対照的に、リクの体調はあまり芳しくなかった。頭の奥はじんわりと熱を帯びていて、喉がひりつき、一度咳き込むと止まらない。寝起きの気怠さとは異なるような、明らかに不快な感覚が全身に纏わりついていた。
――ピピッ
脇から電子音が鳴る。
「……37度6分」
挟めていた体温計の小さな液晶を見て、リクはぼそりと一言を漏らした。
(うわ、やっぱりかぁ……)
昨日の放課後、公園での君鳥ナナとの一件。彼女につられて屋根付きベンチを離れてからは、10分間以上も強い雨に曝され続けていたのをリクは思い出す。制服はおろか下着に至るまで全身がずぶ濡れになり、帰宅を果たすまでは着替えることも叶わなかった。これでは体調を崩してしまうのも仕方ないだろう。
(君鳥さんは、大丈夫なのかな――)
――チンッ
ここには居ないナナの方へと心配を寄せたタイミングにて、キッチンの方から甲高い音が聴こえてくる。
「どうだ?」
そしてすぐにエイトの声が飛んできた。彼は温め終えた冷凍チャーハンが盛り付けられた皿を電子レンジから取り出すと、リクが掲げた体温計を一瞥して鼻で笑う。
「ほら見ろ、だから言ったじゃねえか」
やや得意げな口振りでエイトはリクの隣にドサっと腰掛けると、リモコンでテレビの電源を点けたのち、皿を持ったまま早速とチャーハンを食べ始めた。
「どうした? やっぱ学校でイジメられてんのか?」
「……いや、だから違うって」
詮索されるも、素っ気なく否定をする。全身ずぶ濡れのひどい有り様で帰宅を果たした昨晩も、同様の質問をされたが、リクは頑なに答えようとはしなかった。
「まあ答えたくねえなら別に問い詰めたりはしねえけどよ。オマエも食うか?」
半分残ったチャーハンとスプーンが乗った皿を、エイトから差し出される。しかしリクは、片手で壁を張るようなジェスチャーのみで断りを入れた。起床してからは水以外まだ何も口にしてないが、どうにも食欲が湧いてこない。
「なんか食っておかねえと治るモンも治らねえぞ?」
「わかってるよ……後でちゃんと食べるから」
「オレはもう少しでバイト行くから面倒見れねえかんな」
「大丈夫だよ、子どもじゃないし」
「高一なんてまだまだガキだろ。一人で生活できんのか?」
「どこかの誰かさんみたいに借金抱えたりしないから平気」
「そこまでほざけんなら元気そうだな」
「そういうこと。安心して」
二人は肩を並べ、テレビを眺めながら軽口をぶつけ合う。内容こそ辛辣に聞こえなくもないが、声音は互いに嫌味ったらしさを感じさせず、どこか淡々としていた。その一方でテレビの中では、自殺者が急増している社会問題について、朝から特番が放送されている。
「……自殺者、全然減らないね」
「そうだな」
ぽつりと漏らすリクに対し、エイトは短く同調を口にする。ここ最近は、どこかのチャンネルにて似たような内容の番組が連日連夜、垂れ流しとなっていた。自殺意が蔓延しきった昨今の日本の情勢を鑑みると致し方ないのかもしれないが、正直うんざりしている視聴者が大半だろう。
『教育現場の実態が――』
『不景気によるストレスが――』
『SNSがこうも発達しては――』
政治や教育に精神医療、果てはインフルエンサーなど、各界の分野に精通したコメンテーター数人が液晶越しに大激論を交わしている。それぞれが述べている要因は正しいのかもしれないが、どこか責任を押し付け合っているような風にも見えてしまった。
「おい、見ろよリク。このおっさん鼻毛出てるぞ」
「えっ、噓……あ、ほんとだ」
「このネーチャン、だいぶ前に炎上してなかったっけか」
「年収四百万以下の男は人権無いとか言って燃えてたね」
「コイツ、いっつもアニメとかゲームを目の敵にしてんな」
「そもそも自殺者増加にほとんど関係無い話題だよね」
シリアスな話題を語り尽くしているスタジオ内とはうってかわって、二人は面白可笑しく茶化しているばかり。世間を取り巻く重苦しい空気とは無縁の、長閑で平穏な、そんな朝の光景――
「うし、じゃあバイト行ってくるわ」
「うん、行ってらっしゃい」
支度を終え、リクと挨拶を交わしたエイトは『じゃあな』とだけ言い残し、部屋を後にしていく。防音扉が先に閉まったことで、玄関の扉が閉じる音は聴こえなかった。
「ふぅ……」
気が抜けたようにリクは一息をつくと、座っていたソファに仰向けで寝転び、黒い天井を見上げる。そのまま目を閉じることで、視界を更に黒く染め上げた。
(君鳥さん……)
――瞼裏にて、昨日の出来事がゆっくりと蘇ってくる。
体育館での、校長のスピーチに始まり。
意を決して奥戸に伝えた、彼女の事情。
抱えていた傷を明かし明かされた、雨の公園。
そして別れ際に見た、微笑む彼女。
(あれで、良かったのかな……)
焦燥を、勇気に変え。
献身から、干渉へ。
告白し、真意に辿り着く。
普段の自分からすれば有り得ないほどに、突発的かつ、常識外れな振る舞いをしてしまった気がしてならない。思い返すたび、後悔にも満たないほどの後ろめたさが、後を引くようにざわめいてきた。考え込めば考え込むほど、底の見えない沼に足をとられていくような感覚が、脳を浸して侵す。
(だめだ、落ち着かない……!)
加えて今の弱った身体だと、そのネガティブな思考に拍車が掛かってしまう。リクは悶々と、問題にもなっていないはずの問題を、自らの首を絞めるように捉えてしまっていた。
思考回路が、袋小路に追い込まれる。
嫌気と魔が、同時に差してしまいそうだ。
(くそ……!)
居ても立ってもいられず、リクは傍らに置いていたスマホを持ち上げ、メッセージアプリを起動した。そして、昨日の帰り際に〝友だち登録〟だけを交わし合っていた『君鳥ナナ』のアカウントを見つけ出し、アイコンを迷いなくタップする。
『おはよう、君鳥さん』
メッセージを打ち込み、送信した途端、心を覆っていた霧が瞬く間に晴れていく。しかしすぐに、罪悪感にも似た後悔が巣食いはじめてきた。
(僕は馬鹿だ……本当に)
一人で考え込み、一人で落ち込んで、一人で抱え込む。些細なささくれですら苛む、ある種の自傷行為に等しい思考。取るに足らない問題を、足るのに取ったような。いつも満たされないもどかしさが頭の中を圧迫し――
――スマホが震える。
リクはすぐに、届いたメッセージを確認した。
『村崎くん、おはよう』
『昨日は、ありがとう』
「あ……」
なにかが、救われた気がした。
愚かだ、本当に愚かだ。
なにが彼女を〝救いたい〟だ。
救われたかったのは、僕の方じゃないか――
『第二章・完』




