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死にたくなったら  作者: 狐目 ねつき
第二章 一線
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32話 ハート・ミュージック

 しきりに屋根を叩く雨音の真下――三メートル四方程度のわずかな空間が、賛美歌の美しい旋律に満ちている。スマホのスピーカーから流れる音は決して大きくはないが、雨音しか聞こえなかったつい先程までとは、明らかに空気が変わりつつあった。


(よし……)


 雨から隔絶されたこの小さな空間。

 二人きり。周囲に人の気配はない。


(ここまでは……なんとか順調にこれた)


 小さく息を吐き、リクは胸の内側を安堵に浸す。だがその安心感も束の間で、今はまだ()()を終えた段階に過ぎない。ここからが、本番となってくるのだ――


 ――『HEART MUSIC.』


 エイトがカウンセリングをする際、いつも使用しているアプリ。使い方は、彼からすでに聞き及んでいる。


 セッションを始める前に必要な前提条件は――まずカメラとマイクの設定をオンにして、画角の半分以上に対象者の顔を映し出している状態を維持することだ。そこまで手筈を整えなければ『特殊音楽療法』を開始することができないのだ。


(エイトさんの口から使い方を聞いた時はさすがに耳を疑ったけど……僕の時も叔母さんの時も、思い返してみれば、きちんと条件はクリアしていた)


 ただ曲を流すだけでは意味がない。声色に、表情の些細な変化。それらすべてが情報として処理されて初めて、対象者の感情と楽曲をリアルタイムで連動させることが可能となるのだ。


 しかし、だからこそ――


(これ、ちゃんと映ってるかな……)


 リクは、木製テーブルの中央に置かれたスマホにさりげなく視線を滑らせた。ナナから不審に思われない程度の位置に置けたはいいが、カメラレンズがきちんと彼女の顔を捉えているのか不安になってくる。


(いや、大丈夫だ……あの位置なら、絶対にちゃんと写ってるはず……!)


 だがリクは、その不安がこれ以上肥大化しないよう、無理矢理と押し殺す。これは、初めての〝実践〟だ。エイトからは使い方を教わっただけで、練習も満足にできていない。そもそも今この瞬間に、こうしてナナと向かい合ってセッションを始めようかという状況が訪れるなんて、朝には想像すらしていなかった。


 そう――きっかけは、今日の午後に執り行われた緊急全校集会だ。あそこで同じ学校の生徒の訃報を知らされたことで、焦燥感に駆られたリクは彼女の身を案じ、形振り構わず行動に移したのだった。


(落ち着け……落ち着け……)


 指先が、膝の上で小さく震えている。ナナからは見えない角度にあるのは幸いだった。今この場で、これから始めようとしている行為は、ただの会話の延長じゃない。


 ――他人の一線へ〝踏み込む〟ということだ。


 これまではその行為をあえて控え、避けるようにしていたが、今回は自発的によるものだ。もちろん以前犯した過ちのよう『無闇に』では無い上に、目論見は異なってくる。


 君鳥ナナという少女を『特殊音楽療法』で刺激し、本音と感情を発露――そこから〝自殺意の可視化体〟を抽出するための、引き金(トリガー)を発動させる。


 ――これが、リクが自らに課した目的だ。


「君鳥ナナさん、誕生日はいつ?」


 声が震えそうになるのを堪え、対面に座る少女へリクは問い掛けた。エイトが叔母とのカウンセリングの際に訊いた時と同様、なんの差し障りもない質問から始めていくことで、緊張や警戒心を徐々に薄れさせていく手法だ。


(もちろん見様見真似だけど、これなら君鳥さんも答えやすいはず……!)


 リクは些細な機微すらも見逃さないよう、自信と確信を宿らせた表情で彼女の姿を見入る。


「…………」


 しかしその一方で、ナナは押し黙ったままだった。視線は下向きで、テーブルの木目に沿っているかのよう泳がせている。


(いきなり質問に入ったのは……まずかったかな)


 早速と自信に亀裂が生じてくる。突拍子もなく誕生日を尋ねてしまったのが、どうやら逆効果だったようだ。耳馴染みがあるはずの楽曲を流したことでわずかに示してくれていた興味や好奇の感情も、彼女の顔色からはすでに失われつつあった。


(……どうしよう)


 スマホから流れる楽曲は、穏やかに続いている。4分程度の尺の曲は、今ようやく折り返しに入ったあたりだろうか。だが未だにナナの警戒や緊張がほぐれそうな気配は無い。口を噤ませ、物憂げな面持ちを崩す様子も窺えなかった。


(このままじゃ、始められない……!)


『特殊音楽療法』を始めるにあたって、もう一つの条件にして最大の懸念を、リクは不安とともに心へとよぎらせる。


 もう一つの条件、それは――選択した一曲目の再生が終わる前に、対象者の心を開かせる必要があることだ。


 音をただの背景、いわゆる〝BGM〟にするだけでは、セッションは成立しない。対象者が楽曲に触れ、心を開いた上で『内面』を吐露し、それを声や表情に現さなければならないのだ。


(僕じゃ、ダメなのか……)


 諦めが、ざわざわと思考に侵食し始めてくる。そもそも、リクはただの男子高校生に過ぎない。エイトのように肩書きがあるわけでもなく、事務所を構え、相談者を迎え入れる立場でもない。黒で埋め尽くされたあの部屋も、四方から音で包み込むスピーカーも、ここにはない。


 ――かつて、エイトからはこう聞いていた。


 『あの黒い部屋は、カウンセリング相手をネガティブな意識へと没入させるための、いわば装置だ』――と。


 つまり視界を制限し、意識の逃げ場を限りなく減らす。そうすることで、対象者はカウンセラーと己自身に向き合わざるを得なくなるのだ。だが、公園(ここ)は違う。人気が少ないとはいえ視界に映る情報が多く、いやでも雨音が耳に届いてくる。


(やっぱり、エイトさんみたいには……できないのか)


 リクとエイトとではスタートラインが違う上に、状況も条件も不利な面が多すぎる。そして君鳥ナナにとって、リクはただのクラスメートに過ぎない。それ以上でも、それ以下でもないのだ――


「……誕生日くらいは、答えてほしいかな」


 焦りから、弱音じみた声がつい零れ出てしまった。もちろんナナは依然として表情を変えず、唇も動かしてはくれない。そしてついに、楽曲が最後の転調を迎える――


(考えろ……考えるんだ)


 まだ、間に合う。まだ、終わっていない。リクは限りなく脳を思考で回転させ、活路を見出そうとする。ソファーの上でブランケットに包まったエイトに『行ってきます』を告げた朝に始まり、これまで彼と関わってきた思い出という名の記憶を、次々と遡らせていく。


 どちらかが眠くなるまでひたすら続けたゲーム対戦。

 出会ってからは既に5回は通い詰めたラーメン店。

 ほぼ丸一日かけて二人で終わらせた引っ越し作業。

 初めて彼の部屋を訪れた日の一部始終。

 自宅に上がり込まれ『死にたい』と打ち明けたあの日。


(ダメだ……なにも、思い付かない)


 そして彼と、初めて出会った公園の時まで記憶を遡らせたところで、リクは遂に音を上げようとした――


(……あれ?)


 ――が、彼と交わしたある一つのやり取りを、ふと思い出してしまう。


『――オマエ、名前は?』

『名前なんて聞いてどうするんですか』

『聞いただけだよ。俺は詠人(エイト)っていうんだ、オマエは?』

『……(リク)


 なにかが、腹の底にすとんと落ちた感覚。

 それと同時に、覚悟が決まる――


「君鳥さん……わかったよ」


 どこか諦めたような、観念したかのような口調で、リクは声を掛ける。ナナは、睫毛すらぴくりとも動かさず、取り合ってくれそうにもない。文字通りの無視を決め込んでいるようだ。


「僕が、間違ってた」


 それでもリクは、構わず話を重ねていく。

 冗談とも本気ともつかないような声色で。


「まだ僕のことを何も話していなかったのに、君鳥さんにばかり聞いちゃってた」


 賛美歌は最後の主旋律を終え、後奏(アウトロ)に差し掛かる。


「だからさ、僕の方から先に……伝えるね」


 視線は真っ直ぐだが、押し付けないように。

 この一方的な感情は、叶わないだろう。

 それでも、彼女を救うためなら砕け散るのも厭わない。

 あの日、あの瞬間に、視線だけでなく心が奪われた。

 その純粋な想いを、リクは声に乗せて伝える――


「……僕は、キミのことが好きなんだよ。君鳥さん」


 世界中でこの場だけ、時間が止まった気がした。

 彼女の視線だけが、ゆっくりと動く。

 長い睫毛と鈍く青ずんだ瞳の焦点が、こちらへと向いた。


「知ってたよ、最初から」


 彼女のその、細く澄んだ声。

 控えめな、いつもの抑揚ではない。

 どこか、自信に満ちあふれていた。


「ごめんね村崎くん、気付いてたよ」


 過ぎ去っていくように、一曲目が終わりを迎える――



「――だって私、()()()()()


 雨は、当然止まない。

 けれど、まだ、終わってはいない。

 どこかで、落雷の音がした。

 それはとても近く、重く深く、鼓膜を強く叩く――

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