31話 聞かせてよ
――時は二日前にまで遡り、4月28日の夜。
豚骨の濃厚な香りが、熱気と活気とともに充満した店内。エイトが常連客となっているいつものラーメン店に、部屋の後片付けを終えた三人が訪れていた。
「――蒼井さーん、あたし替え玉いいっすかぁ?」
リクの隣に座るはづきから、図々しく声が飛ぶ。彼女が傾けてみせたどんぶりの底には、白濁としたスープがまだたっぷりと残っていた。
「マジかよオマエ……二回目だろ」
正面に座るエイトが箸でチャーシューを掴んだまま、顔を引きつらせている。リクよりも背が低く、華奢な体型である少女からは想像もつかないほどの食欲に、麺とともに面も食らっているようだ。
「いやー、なんか久々の外食なんで、ハリキリすぎちゃって……つい」
「〝つい〟で済ませていい量じゃねえだろ……まぁ頼んでやるけどよ、絶対残すんじゃねぇぞ?」
「うっす! あざっす!」
子どものような満面の笑みではづきがしゅぴっと敬礼をすると、エイトは通りすがった店員に注文を済ませた。カウンターの奥では寸胴鍋がぐらぐらと煮立ち、店長の『替え玉一丁!』という威勢のいい声が、店内を横切っていく。
「蒼井さん、いつもこの店で食べてるんすか?」
「まあな。週五ペースで通ってる」
「週五!? やっばいすよ、それ! 食生活偏っちゃうと生活ナントカ病とかやっばいすよ!」
「オマエの語彙力の方がやっべぇすよ」
リクは二人の軽妙な掛け合いを、どこか虚ろにぼんやりと眺めている。手に構えていた箸は止まり、スープの表面には分厚い油膜が張っていた。腹は空かせているはずなのに、なぜか食欲が湧いてこない。
「あっ、電話……」
唐突にはづきがスマホを掲げ、画面に表示された名前を確認している。隣にいたリクは彼女のスマホの液晶をちらりと覗き見ると、着信画面には『ママ』の二文字が映っていた。
「すんません、ちょっと外しますね! すぐ戻りますんで!」
はづきはその声とともに席を立つと、そそくさと暖簾をくぐって外へ出ていく。入口の扉が開いた瞬間、夜の冷たい空気と雨音が、一瞬だけ店内に流れ込む。しかしすぐにまた、熱気と騒々しさに塗り潰されていった。
「…………」
残された、リクとエイト。店内にてあふれ返る活気が、急に遠のいた気がした。周囲の客の笑い声や食器の触れ合う音は変わらず聴こえてくるが、二人のテーブルだけが輪から切り離されたように、しんと静まり返っていた。
「……腹、減ってねえのか?」
リクは箸を持ったままじっと動かないでいると、エイトからふと尋ねられる。
「いや……減ってるよ」
平常心を装うかのようにリクはそう答えると、麺を数本掴んで口に運ぶ。二度三度噛んで喉に流し込むも、以前に食べた時よりも味が薄く感じてしまう。
「減ってるとは思えねえペースだけどな。いらねえならオレが食ってやろうか? 冷めちまうともったいねえし」
どこか曖昧ではっきりとしないリクの態度にやきもきとしたのか、エイトは少し苛立った様子で、リクのどんぶりをずいっと自らの卓に寄せようとする。
「あ?」
しかしリクは抵抗として、どんぶりの端に指を掛けて阻止していた。
「エイトさん、あの……一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
そして店に来る前からずっと言おうと、溜め込んでいたある一つの要求を、リクは喉に装填する。
「んだよ急に……おい、早く言えっての」
エイトが不機嫌そうに急かしてくる。彼の鋭い眼光に射抜かれ、逃げ道がなくなった感覚をおぼえた。それでもリクは、わずかな勇気を携えて声を発する。
「……エイトさんがいつもカウンセリングに使ってるあのアプリ、僕にも使わせてほしいんだけど」
「は? なんだそりゃ?」
藪から棒が過ぎたその要求に、さすがのエイトも予想だにしていなかったようだ。先程までの怒りはどこへやらといったように、呆気に取られた表情を覗かせている。
「なんだ、って言われても……そのままの意味だよ。使わせてよ、僕にも」
リクは追い打ちをかけるかのごとく要求を重ねる。どこか駄々をこねたかのような、その口振り。それでもエイトは、内に秘めた本気の度合いを感じ取ってくれたらしく、呆然としていた顔を元に正す。
「ふぅー」
そして、我慢していたタバコを久々に吸ったかのように、彼は大きく一息をついた。張っていた肩肘を脱力させ、背もたれにどかっと身体を預ける。
「……何に使うつもりだ」
トーンも、温度も、低い声。顔つきには、いつもの軽薄さがすっと失せていた。普段、軽口や冗談を飛ばし合っていた男とは別人のように冷たい。つい数時間前に、淡々と自殺意について語っていた時よりも、更に――
「その、僕も……」
リクは、視線を逸らさずに答えようとする。心臓がうるさく鳴っているが、決して臆さないよう、声に芯を通して伝えていく。
「……エイトさんみたいに、誰かを救ってみたい」
目の前に座る彼への憧憬を、リクはありのままに伝えてみせた。だが言い終えてから、途端に自信が無くなっていく。本音なはずが、とても空虚に思えた。〝救う〟なんて、容易く使っていい言葉じゃない。わかってる。全部わかりきった上で、伝えたのだ。
「…………」
エイトは表情を変えず、しばらく何も発さなかった。店内の騒々しさだけが、二人の間を埋め尽くす。
「……呑めんのか、オマエは」
鋭い視線と声が、穿つように突き刺さってくる。
「自殺意だけじゃねえぞ。人の絶望も、後悔も、吐き出された言葉も……全部だ」
リクは、押し黙ってしまった。
「ハンパな同情は、相手にとって毒にしかならねえ。取り繕った程度の覚悟で臨んだところで、相手も自分も壊しちまう結果しか待ってねえぞ」
器の中のスープが、ゆらゆらと静かに揺れている。
「それでも、リク……オマエは〝救いたい〟って言うんだな?」
測るように。
阻むように。
憚らせるように。
彼は問う――
◇◆◇◆
「君鳥さん……少し、音楽でも聴かない?」
雨は相変わらず、強く降り続けている。細かく弾けるような水音が、ベンチの屋根に反響していた。
「……え?」
問われた直後、それまで貼り付けていた彼女の無表情がほんのわずか、ひび割れたように揺れて見えた。
「音楽……なんで……?」
もっともな疑問だろう。
彼女が困惑するのも無理はない。
「君鳥さん、歌うの好きでしょ?」
それでもリクは、構わず続ける。
「だからさ……音があった方が、話しやすいかなって。ほら、無音だと……今みたいに、変に重くなっちゃうし」
軽い口調で語るリクだが、冗談の類いを言っているようには見えない。話しながらもポケットからスマホを取り出し、制服の袖で画面を拭くと、指でロックを解除する。
「まぁ、雰囲気作り程度だと思ってよ」
ホーム画面の端。
赤い音符の下の丸部分が、ハート型になったアイコン。
――『HEART MUSIC.』
そのアプリを、迷いなくタップするリク。
淡く画面が光り、柔らかな起動音が鳴った。
その一方でナナは、まだ戸惑っている。
「……まだ、何か話すことあるの?」
少しだけささくれた声色からは『これ以上踏み込まれたくない』といった本音が、まざまざと滲み出ていた。リクは液晶をスクロールしながら、ゆっくりと首を上げる。
「あるよ、たくさん」
口の端に薄く笑みを浮かべ、堂々と言い放つ。目が合ったナナは、慌てて視線を逸らした。
「少なくとも僕は……君鳥さんのことが、もっと知りたい」
気取らず、誇張もせず、ただ率直に伝える。救うとか、正すといった、そんな大仰な言葉は使わない。
「聞かせてよ、君鳥さんのこと」
ただ――知りたい。
知った上で、救いたい。
それだけだった。
「…………」
ナナは視線をテーブルに落としたまま、口を噤ませている。座ってからも掴んでいたであろうビニール袋が、一度だけカサッと鳴った。
「私は、別に……話したいことなんて……」
彼女の薄い唇から、小さくこぼれる。その拒絶に対し、リクは被せず、否定もしなかった。代わりに、画面を軽くタップする。
スピーカー越しに流れてくるのは、波形の少ない伸びやかなバグパイプの音色。雨音と溶け込むように混ざり合う、儚げで、どこか優しさのある美しい旋律――
――賛美歌だ。
「……この曲って」
ナナが、ハッとしたように呟く。唄無しバージョンだったが、導入部分を聴いただけですぐに楽曲の特定が済んだようだ。
「〝合唱団にいた〟って聞いてから気になって色々と調べて聴いてみたら……思いのほか気に入っちゃってさ」
リクは、苦笑するように小さくこぼす。
「曲ができた成り立ちとか、歌詞とか、ちゃんと理解して聴くとさ……結構、刺さるんだよね」
「…………」
そう伝えるも、ナナからは何も返ってこない。だが、彼女の整ったアーモンド・アイには確かな色が窺えた。瞳の色ではない、感情のグラデーションだ。戸惑いと、警戒と、ほんのわずかな興味。
それが、確かに混ざっている。
雨は、まだ止まない――
「……じゃあ、早速訊いてもいいかな」
――けれど、屋根の下を漂う湿気がほんの少しだけ晴れていくような、そんな気がした。
「君鳥ナナさん、誕生日はいつ?」




