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死にたくなったら  作者: 狐目 ねつき
第二章 一線
33/38

31話 聞かせてよ

 ――時は二日前にまで遡り、4月28日の夜。


 豚骨の濃厚な香りが、熱気と活気とともに充満した店内。エイトが常連客となっているいつものラーメン店に、部屋の後片付けを終えた三人が訪れていた。


「――蒼井さーん、あたし替え玉いいっすかぁ?」


 リクの隣に座るはづきから、図々しく声が飛ぶ。彼女が傾けてみせたどんぶりの底には、白濁としたスープがまだたっぷりと残っていた。


「マジかよオマエ……二回目だろ」


 正面に座るエイトが箸でチャーシューを掴んだまま、顔を引きつらせている。リクよりも背が低く、華奢な体型である少女からは想像もつかないほどの食欲に、麺とともに面も食らっているようだ。


「いやー、なんか久々の外食なんで、ハリキリすぎちゃって……つい」

「〝つい〟で済ませていい量じゃねえだろ……まぁ頼んでやるけどよ、絶対残すんじゃねぇぞ?」


「うっす! あざっす!」


 子どものような満面の笑みではづきがしゅぴっと敬礼をすると、エイトは通りすがった店員に注文を済ませた。カウンターの奥では寸胴鍋がぐらぐらと煮立ち、店長の『替え玉一丁!』という威勢のいい声が、店内を横切っていく。


「蒼井さん、いつもこの店で食べてるんすか?」

「まあな。週五ペースで通ってる」


「週五!? やっばいすよ、それ! 食生活偏っちゃうと生活ナントカ病とかやっばいすよ!」

「オマエの語彙力の方がやっべぇすよ」


 リクは二人の軽妙な掛け合いを、どこか虚ろにぼんやりと眺めている。手に構えていた箸は止まり、スープの表面には分厚い油膜が張っていた。腹は空かせているはずなのに、なぜか食欲が湧いてこない。


「あっ、電話……」


 唐突にはづきがスマホを掲げ、画面に表示された名前を確認している。隣にいたリクは彼女のスマホの液晶をちらりと覗き見ると、着信画面には『ママ』の二文字が映っていた。


「すんません、ちょっと外しますね! すぐ戻りますんで!」


 はづきはその声とともに席を立つと、そそくさと暖簾をくぐって外へ出ていく。入口の扉が開いた瞬間、夜の冷たい空気と雨音が、一瞬だけ店内に流れ込む。しかしすぐにまた、熱気と騒々しさに塗り潰されていった。


「…………」


 残された、リクとエイト。店内にてあふれ返る活気が、急に遠のいた気がした。周囲の客の笑い声や食器の触れ合う音は変わらず聴こえてくるが、二人のテーブルだけが輪から切り離されたように、しんと静まり返っていた。


「……腹、減ってねえのか?」


 リクは箸を持ったままじっと動かないでいると、エイトからふと尋ねられる。


「いや……減ってるよ」


 平常心を装うかのようにリクはそう答えると、麺を数本掴んで口に運ぶ。二度三度噛んで喉に流し込むも、以前に食べた時よりも味が薄く感じてしまう。


「減ってるとは思えねえペースだけどな。いらねえならオレが食ってやろうか? 冷めちまうともったいねえし」


 どこか曖昧ではっきりとしないリクの態度にやきもきとしたのか、エイトは少し苛立った様子で、リクのどんぶりをずいっと自らの卓に寄せようとする。


「あ?」


 しかしリクは抵抗として、どんぶりの端に指を掛けて阻止していた。


「エイトさん、あの……一つお願いがあるんだけど、いいかな?」


 そして店に来る前からずっと言おうと、溜め込んでいたある一つの要求を、リクは喉に装填する。


「んだよ急に……おい、早く言えっての」


 エイトが不機嫌そうに急かしてくる。彼の鋭い眼光に射抜かれ、逃げ道がなくなった感覚をおぼえた。それでもリクは、わずかな勇気を携えて声を発する。


「……エイトさんがいつもカウンセリングに使ってるあのアプリ、僕にも使わせてほしいんだけど」


「は? なんだそりゃ?」


 藪から棒が過ぎたその要求に、さすがのエイトも予想だにしていなかったようだ。先程までの怒りはどこへやらといったように、呆気に取られた表情を覗かせている。


「なんだ、って言われても……そのままの意味だよ。使わせてよ、僕にも」


 リクは追い打ちをかけるかのごとく要求を重ねる。どこか駄々をこねたかのような、その口振り。それでもエイトは、内に秘めた本気の度合いを感じ取ってくれたらしく、呆然としていた顔を元に正す。


「ふぅー」


 そして、我慢していたタバコを久々に吸ったかのように、彼は大きく一息をついた。張っていた肩肘を脱力させ、背もたれにどかっと身体を預ける。


「……何に使うつもりだ」


 トーンも、温度も、低い声。顔つきには、いつもの軽薄さがすっと失せていた。普段、軽口や冗談を飛ばし合っていた男とは別人のように冷たい。つい数時間前に、淡々と自殺意について語っていた時よりも、更に――


「その、僕も……」


 リクは、視線を逸らさずに答えようとする。心臓がうるさく鳴っているが、決して臆さないよう、声に芯を通して伝えていく。


「……エイトさんみたいに、誰かを救ってみたい」


 目の前に座る彼への憧憬を、リクはありのままに伝えてみせた。だが言い終えてから、途端に自信が無くなっていく。本音なはずが、とても空虚に思えた。〝救う〟なんて、容易く使っていい言葉じゃない。わかってる。全部わかりきった上で、伝えたのだ。


「…………」

 

 エイトは表情を変えず、しばらく何も発さなかった。店内の騒々しさだけが、二人の間を埋め尽くす。


「……呑めんのか、オマエは」


 鋭い視線と声が、穿つように突き刺さってくる。


「自殺意()()じゃねえぞ。人の絶望も、後悔も、吐き出された言葉も……全部だ」


 リクは、押し黙ってしまった。


「ハンパな同情は、相手にとって毒にしかならねえ。取り繕った程度の覚悟で臨んだところで、相手も自分も壊しちまう結果しか待ってねえぞ」


 器の中のスープが、ゆらゆらと静かに揺れている。


「それでも、リク……オマエは〝救いたい〟って言うんだな?」


 測るように。

 阻むように。

 憚らせるように。

 彼は問う――



◇◆◇◆



「君鳥さん……少し、音楽でも聴かない?」


 雨は相変わらず、強く降り続けている。細かく弾けるような水音が、ベンチの屋根に反響していた。


「……え?」


 問われた直後、それまで貼り付けていた彼女の無表情がほんのわずか、ひび割れたように揺れて見えた。


「音楽……なんで……?」


 もっともな疑問だろう。

 彼女が困惑するのも無理はない。


「君鳥さん、歌うの好きでしょ?」


 それでもリクは、構わず続ける。


「だからさ……音があった方が、話しやすいかなって。ほら、無音だと……今みたいに、変に重くなっちゃうし」


 軽い口調で語るリクだが、冗談の類いを言っているようには見えない。話しながらもポケットからスマホを取り出し、制服の袖で画面を拭くと、指でロックを解除する。


「まぁ、雰囲気作り程度だと思ってよ」


 ホーム画面の端。

 赤い音符の下の丸部分が、ハート型になったアイコン。


 ――『HEART MUSIC.』


 そのアプリを、迷いなくタップするリク。

 淡く画面が光り、柔らかな起動音が鳴った。

 その一方でナナは、まだ戸惑っている。


「……まだ、何か話すことあるの?」


 少しだけささくれた声色からは『これ以上踏み込まれたくない』といった本音が、まざまざと滲み出ていた。リクは液晶をスクロールしながら、ゆっくりと首を上げる。


「あるよ、たくさん」


 口の端に薄く笑みを浮かべ、堂々と言い放つ。目が合ったナナは、慌てて視線を逸らした。


「少なくとも僕は……君鳥さんのことが、もっと知りたい」


 気取らず、誇張もせず、ただ率直に伝える。救うとか、正すといった、そんな大仰な言葉は使わない。


「聞かせてよ、君鳥さんのこと」


 ただ――知りたい。

 知った上で、救いたい。

 それだけだった。


「…………」


 ナナは視線をテーブルに落としたまま、口を噤ませている。座ってからも掴んでいたであろうビニール袋が、一度だけカサッと鳴った。


「私は、別に……話したいことなんて……」


 彼女の薄い唇から、小さくこぼれる。その拒絶に対し、リクは被せず、否定もしなかった。代わりに、画面を軽くタップする。


 スピーカー越しに流れてくるのは、波形の少ない伸びやかなバグパイプの音色。雨音と溶け込むように混ざり合う、儚げで、どこか優しさのある美しい旋律――


 ――賛美歌だ。

 

「……この曲って」


 ナナが、ハッとしたように呟く。唄無し(インストゥルメンタル)バージョンだったが、導入(イントロ)部分を聴いただけですぐに楽曲の特定が済んだようだ。


「〝合唱団にいた〟って聞いてから気になって色々と調べて聴いてみたら……思いのほか気に入っちゃってさ」


 リクは、苦笑するように小さくこぼす。


「曲ができた成り立ちとか、歌詞とか、ちゃんと理解して聴くとさ……結構、刺さるんだよね」


「…………」


 そう伝えるも、ナナからは何も返ってこない。だが、彼女の整ったアーモンド・アイには確かな色が窺えた。瞳の色ではない、感情のグラデーションだ。戸惑いと、警戒と、ほんのわずかな興味。


 それが、確かに混ざっている。

 雨は、まだ止まない――


「……じゃあ、早速訊いてもいいかな」


 ――けれど、屋根の下を漂う湿気がほんの少しだけ晴れていくような、そんな気がした。



「君鳥ナナさん、誕生日はいつ?」

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