30話 壊れかけの彼女
「村崎くん……」
雨音にかき消されそうなほどの細い声が、リクの背中を弱く叩く。反射的に振り返った先の歩道に立っていたのは、君鳥ナナだった。手にはコンビニの白いビニール袋が提げられ、ペットボトルの飲料やおにぎりなど、中身の輪郭がうっすらと透けて見えている。
「君鳥さん……」
彼女はもう片方の手で透明なビニール傘を差し、紺色の学校のジャージを着た姿だった。ミルクティーベージュの髪は、雨気を含んで重たそうに揺れている。
「どうして、私の家に……」
用件を問い質すのではなく、率直に浮かんだ疑問がそのまま口から零れ出てしまったかのような、彼女の口振り。青灰色の瞳を丸くさせ、警戒と戸惑いが混在したような顔色で、ただ立ち尽くしている。
「あ……うん、えっと」
心の準備はしていたつもりだったが、不意を衝かれたことでリクは言い淀んでしまう。軒先に雨粒が弾ける音や、どこか遠くで車のタイヤが水溜まりを裂く音。世界が、やけに騒がしく聴こえてくる。
「そう、これ、渡すの、奥戸先生から頼まれて……」
動揺しながらもなんとか用件を明かすと、リクはスクールバッグにしまっていたクリアファイルを取り出して、ナナの元へと歩み寄る。途端、彼女はびくっとしたように一歩だけ後ずさった。その反応に、距離と壁を感じてしまった。
「昨日と今日の、あと合唱部の顧問の先生から、コンクールについてのお知らせとかも……入ってる、みたい」
雨に濡れないよう、傘を傾けてリクはクリアファイルを差し出す。
「奥戸先生が、忙しいみたいでさ。職員会議がどうとか、言ってて……だから、その、代わりに僕が届けに来ただけで」
言い訳じみた説明が、途切れ途切れにこぼれていく。 本当の目的を隠している自覚があるからこそ、後ろめたさを覚え、口調にも反映されてしまう。
「先生が……」
彼女は数秒、リクとファイルを交互に見やった後、ファイルの端をそっと掴む。わざわざ自宅にまで足を運んできたリクを不審にも捉えただろうが、ひとまずは善意として受け取ってくれたようだ。
「……ありがとう」
そして小さく、控えめに礼を言う。その声は、以前に教室で聞いたときよりも更に遠慮がちに聴こえた。
「あと、それと……」
リクは間を保たせるかのように話題を繋ごうとするも、先が紡げない。空気が妙に重く、雨足が強くなったわけでもないのに、傘に当たる音だけがやたらと大きく響いてくる。
(話しに来たんだろ、伝えろよ……!)
脳内で奮い立たせるよう自らに言い聞かせ、リクは一度地面に落としていた視線を持ち上げると、彼女の両眼をしっかりと捉え――
「君鳥さんと、ちゃんと話をしたくて」
――遠回りも濁らせもせずに、真正面から真意を伝えてみせた。
「私と……話?」
「うん、話そう」
問い返されるも、短い肯定を突き付ける。それ以上、余計な装飾は付け足さなかった。
「…………」
彼女はすぐに返事をしてくれず、視線を泳がせている。自分の家や手に提げたビニール袋、雲に覆われた空と、順々に見ている。どこか逃げる口実を探しているようにも窺えてしまった。
「別に、私は……」
『村崎くんと話したくない』と、そのまま声に出されるかと思いきや、ナナは長い睫毛を下向かせてぎゅっと目を瞑る。ここまで来てもらって冷たくあしらうのはどうなのか――といったように、彼女の中で葛藤でもしているのだろうか。そう察してしまうと、なんだか申し訳なくも思えてくる。
だが――
「……近くに、公園あるから、話すのはそこでもいいかな?」
ナナが、ぽつりと口を開く。悩んだ末なのだろうが、てっきり断られるとばかり予想していたリクからすれば、その提案が意外に思えた。
「僕は全然構わないけど……君鳥さんは、大丈夫? その、体調とか……」
「大丈夫だよ。今日学校休んだ理由も……嘘だし」
リクは心配を口にしたが、ナナは特に悪びれもせずに明かしてくれた。そのまま彼女はくるっと振り返り、公園があるという方面へと歩き出す。リクはナナの斜め後方を位置取り、同じペースの速度で歩いた。
「…………」
移動している最中、二人の間に会話は一切なかった。時折、傘と傘が、何度か軽く触れ合う。そのたびに、間合いを測り直すように互いが半歩ずつずれるだけ――そんな、距離感。
◇◆◇◆
彼女の家が建っていた通りを進んだ先、交差点を曲がってすぐの位置に、その公園はあった。色褪せた滑り台に真っ黒な砂場。錆びかけの鉄棒に塗装が剥げたブランコ――と、経年劣化した遊具たちが、そう広くはない公園内に所狭しと設置されている。
「……ここで、いいよね?」
「うん」
公園の端の方にぽつんと設置されていた、三角の屋根がついたテーブルとベンチ。人々から存在を忘れ去られたかのように、寂れ果てている。当然周囲に人の気配は無く、ここなら落ち着いて話せるといった風にナナからも提案され、リクもそれに頷いて従った。
(さすがに誰も……いないか)
リクはキョロキョロと辺りを見回しながら、ナナに続いて屋根の下に入る。そして彼女が座るベンチからテーブルを挟み、逆の位置にあるベンチの方へと静かに腰を下ろした。
「…………」
互いに向かい合い、いざ――とはならず、湿った沈黙が流れる。二人はどこか気恥ずかしそうに視線を逸らし、相手の出方を窺うようなじりじりとした緊張感が漂う。
「……雨、すごいよね……最近」
「うん、すごいね……」
何の気なしに出してしまった話題だが、彼女は物憂げな表情を一切崩さずに同調をするだけ。
「明日も、降るのかな」
「予報だと、降るみたいだね」
「そう、なんだ」
「……うん」
何も、進展せず。このままでは、彼女が敷く一線の周りをうろうろとするだけだ。
(いや、これじゃ駄目だ。また前と一緒だ……!)
今日に至るまで、どれだけこの瞬間が訪れるのを待ち焦がれただろうか。自らで手繰り寄せ、掴み取ったせっかくのチャンスを、決して無駄にしてはならない。
(絶対に、伝えるんだ。今日こそ、君鳥さんに謝るん――)
「……私に、謝りたかったんだよね?」
無理矢理と、なにかが塞がれた気がした。
「……うん」
「わかるよ、でも……本当に村崎くんは何も悪くないし、謝る必要は無いよ」
「いや、そうじゃなくて――」
「私が悪いの。全部、なにもかも……この髪の色も、目の色も、目立つしね。クラスのみんなも、私のこと嫌ってるし。しょうがないよ」
どこか諦めたようにも、開き直ったようにも窺える、彼女の口調。視線も表情も虚ろいだまま変化が無く、マネキンが口だけを動かしているかのように映ってしまった。
「学校は、来週からちゃんと行くよ。だから村崎くん、安心して。大丈夫だから」
全て、彼女に言い包められてしまった。
リクはなぜか、無性に腹が立ってきた。
その怒りの矛先は、自分だ。
気付いてしまったからだ。
(そうだよ……僕が謝れば結局、君鳥さんが自分を責めてしまうだけじゃないか)
彼女はあくまで、自らを守っているだけだ。そしてこの先も彼女はきっと、それを続けていくのだろう。どんなひどい目に遭っても『大丈夫』と、言い続けていくのだろう――
――自分がこれ以上、壊れてしまわないように。
――感情を、自らで壊しているのだ。
「…………」
再び、重たい沈黙が流れてしまった。謝罪はおろか、気安い慰めすらも、今の彼女に掛けたところで無意味だろう。そう思うと、何も言葉が思い浮かばなかった。
(やっぱり、やるしか……)
今、頭の中によぎった案は、果たして彼女を救う希望になり得るのか。確証はもちろん、自信すらない。それでも、何かが変わるかもしれない。
(僕が、あの時、エイトさんに……)
何も変わらないと思い続けていた『あの日常』が変わった唯一のきっかけが、それだったからだ――
「あの、さ……君鳥さん。少し、音楽でも聴かない?」




