29話 約束
透明のビニール傘越しに、空を見上げる。
変わらずの鈍色。
強く降りしきる雨が、傘を重くさせた――
エイトと住むアパートがある街から、数駅分離れた位置の、閑静な住宅街。似たような色合いの一戸建てが肩を寄せ合うよう建ち並ぶ通りにて、その一軒だけが、ゆとりを持ってそこに構えている。
手入れの行き届いた立派な庭が面した、広い敷地。
北欧風を意識したであろう、モダンなデザインの外観。
ここが――君鳥ナナの住む家だ。
(……来ちゃった)
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。誰かに見られていないかと、周囲の視線が気になってくる。そんな背徳感じみた緊張から、傘の柄を握る手にぎゅっと力が入る。塀の外で立ち尽くしたままのリクは、敷地内に足を踏み入れるのをためらっていた。
(……帰るなら、今だ)
頭の中にいる臆病な自分が、そう囁いてくる。それでも、ここまで来て逃げるわけにはいかない。担任の奥戸とも、先ほどに約束を交わし合ったばかりだ――
◇◆◇◆
「君鳥さんは、今……クラスの中で少し、浮いてしまっているんです」
自信の無さげな口調ながらも、しっかりと奥戸の視線に焦点を合わせたまま、リクは声を発した。その告白を受けた奥戸は、少し意外そうな顔を覗かせている。
「〝浮いてしまっている〟……というのを、具体的に教えてもらってもいいかな?」
しかし、すぐに追及が返ってくる。じりじりと躙り寄ってくるような圧が、彼の表情と口調から感じられた。リクは目を逸らしてしまいそうになるが、屈さずに事実だけを声に乗せていく。
「……今週の、火曜日の放課後も、君鳥さんは一人で掃除当番させられてましたし……なんというか〝仲間外れ〟にされてる……みたいな空気が感じられて」
「他には?」
間髪を入れず、食い気味に問われる。彼の立場からすれば、必死になってしまうのも仕方ないだろう。自分の担当するクラスで『そういった問題』が起きてしまった場合、慎重に対処しなければならないからだ。
(これを……見せるつもりはまだ無かったけど……)
奥戸の圧に呑まれてしまったリクは、おもむろに制服のポケットへ手を忍ばせると、昨日から入れっぱなしにしておいた『例のプリント』を取り出してみせた。
「あの、これ……見てください」
どこか気まずそうな面持ちで、リクはくしゃくしゃに丸められたプリントを手渡す。
「これは?」
「昨日の放課後、僕が教室の掃除をしていた時に……君鳥さんの机の中からたまたま見つけてしまったモノです」
リクの説明の最中にも奥戸は丸められたプリントを広げ終え、表面を確認したのち、裏面にも目を通し始めていた。不恰好な片仮名で書かれた文字列を目にした途端、彼の表情が凍り付く。
「本当に……これが君鳥さんの机の中に?」
「……はい」
念を押されるように確認されるも、リクは一切濁すことなく頷く。プリントを見せる前までだと、もしかしたらリクの『思い過ごし』として、判断を保留される可能性もあっただろう。しかし現に今、証拠が形となって、奥戸の手元にあるのだ。
(プリントを見せてしまえば……先生はもう見過ごせないはず……)
リクは、固唾を呑んで奥戸の様子を見守った。長い沈黙が訪れ、外の雨音だけがはっきりと聴こえてくる。やがて彼は、呼吸をするのを忘れていたのだろうか、大きく息を吸い込んで深く吐いた。それまで強張っていた表情が、少しずつ緩んでいく。
「……そうか」
事実の咀嚼が完了し、奥戸はクラスで起こっている問題をようやくと認識してくれたようだ。その第一声は、どこか観念したかのような抑揚だった。
「まずは、村崎くん……勇気を持って伝えにきてくれて、本当に感謝しているよ。ありがとう」
「いえ……」
緊張感から解放され、いつもの穏やかな調子に戻った奥戸から、リクは肩をぽんと叩かれる。
「問題を認めたくなかったさっきまでの自分を、殴ってやりたい気分だよ。いざ、問題が発覚してしまうと、自分はこうも醜く保身に走ってしまうのか……とね」
奥戸は睫毛を下向かせ、自嘲でもするかのように省みる。
「先生も普段から目を光らせていたつもりだったんだけどね……目には映らないクラスの中のそういった空気までは、完全に把握しきれないこともあるみたいだ……いや、すまない。これは言い訳にしかならないね」
「……僕は別に、先生を責めたいわけじゃないんです」
彼の言い分を聞いたリクは、首を横に振って否定した。そしてまだ誰にも打ち明けていなかった胸の内側を、曝け出していく。
「君鳥さんが一人で掃除をさせられている時も……僕、いました。見てられなくて……手伝ったんです」
「それは、立派な行為だと思うよ」
「違うんです……!」
リクは声を荒げ、更に大きく首を振る。
「手伝ったのも、結局……自分が新しい友達を作りたいっていう理由が大きかったし、二人で掃除を終わらせた後、僕……君鳥さんが傷付くようなことを迂闊に言ってしまって……それをずっと後悔してるんです」
話していく内に、声が少しずつ震えていくのが自分でもわかる。いつの間にか握りしめていた拳は、痛いほどに爪が手の平に食い込んでいた。
「面と向かって……ちゃんと謝りたかった。でも、昨日も今日も、君鳥さんが来なくて……」
視線を床に落としたまま、リクは本懐を告げる。
「……このまま、何も言えないままになるのが嫌で、手遅れになる前に……謝りたいんです。僕が君鳥さんを……救いたいんです」
それは、ほとんど懇願に近かった。救おうとする側とは思えないほどに、とても頼りなく、弱々しい声。
「…………」
沈ませた表情のまま、リクはしばらく黙り込んだ。
「村崎くん……君だけが気に病むことでは無いよ。人と人との付き合いだからね。上手くいかないことだってあるし、これからもそういった経験は沢山していくはずだ」
どこか宥めるように慰めの言葉を掛けられるが、リクは首を縦に振ることはしなかった。
「先生……お願いがあるんです」
そして、代わりに――
「君鳥さんの家の住所を、教えてください」
一線を超える決意を、明かしてみせた。
「村崎くん、それは――」
「わかっています。それでも、教えてください」
否定を紡がれる前に、リクは更に被せて頼み込んだ。生徒が学校経由で他の生徒の住所を知ろうとするのは、個人情報保護の観点からして、当然不可能である。
「奥戸先生にしか頼めないんです。お願いします」
だがリクは引かず、愚直なまでに意志を示し続けた。仮に奥戸が教えてくれたとしても、万が一その情報漏洩が発覚した場合は、ただちに問題行動として処されるだろう。更に言えばリクよりも、奥戸の方にリスクの比重が大きく傾くのは間違いない。それでもリクは、全てを理解した上で、顧みずに頼み込むことしかできなかった。
「…………」
貫き通すような真っ直ぐな視線を、リクは奥戸の双眸へと浴びせ続ける。最早これは、単なるワガママだ。玩具をねだる子どもと、親のような構図に近い。
「参ったな……」
頑なとしたリクの姿勢に、思わず奥戸もたじろぐ。やがて、諦めたように一度だけ大きく溜め息をつくと――
「……悪いが、それはできない。諦めてくれ」
しっかりと、職責を全うしてみせた。
「先生っ」
「だが――」
リクは再び態度を強硬させようとするが、声で一拍を挟まれる。
「――それはあくまで、教師〝奥戸一弥〟としての主張だ。一個人としての奥戸一弥の主張は……また別になる」
「えっ……?」
一瞬にして、風向きが変わった。
「少し、歩こうか」
奥戸はそう言うと、二階への階段がある方へ廊下を進んでいった。リクは彼の意図を理解できぬまま、後を付いていく。
「先生は……いや、違う。普段の僕はね、とてもズボラで面倒くさがりやな男なんだ。いやー、ほんと参った参った」
「はぁ……」
すたすたと歩きながら、独り言ちているかのような、演技じみた彼の口振り。思わずリクも怪訝としてしまう。
「本当なら、君鳥さんに渡しておかないといけない大事なお知らせを含んだ二日分のプリントを、今日中に君鳥さんの家に届けなきゃいけないんだが……困ったなあ、今日はこれから職員会議があるんだった」
まだるっこしさすら感じさせるわざとらしい説明口調で、彼は次々と口を滑らしていく。階段を昇る彼の背中を追い続けつつ、リクは彼の発言の意図を探った。
(奥戸先生……急にどうしちゃったの?)
「職員会議の後となると、一度家に帰って車で向かったとしても、届けに行けるのは夜の7時以降になってしまうな……うーん、困ったなあ……面倒くさいぞ」
職員室のドアをガラッと開いた奥戸は、リクの耳元で『ちょっと待ってて』とだけ伝え、職員室の中へと消えて行った。
(大丈夫……なのかな)
閉ざされたドアの前で置いてけぼりにされたリクは、不安を募らせる。そのまま数分ほど待ったところで、再び職員室のドアが開き、奥戸が姿を現す。その手には、何枚もの書類を挟んだクリアファイルが掴まれていた。
「おっ、ちょうど良いところに村崎くんがいるじゃないか。心優しいこの生徒なら、僕の頼みも聞いてくれそうだ」
心の声がそのまま口から零れてしまったかのような物言いで、彼からクリアファイルを胸元に押し付けられる。
そして――
「――何も言うな。中身の確認は後にして、それを持って君鳥さんの家に行け。住所が書いてあるメモも挟んである」
頬と頬が触れ合うかのような顔の近さで、耳打ちをされる。
「クラスの問題については、僕が責任をもって対処にあたる。だから君鳥さんのことは……君に任せたぞ。これは教師と生徒じゃなく、一人の〝男と男の約束〟だ」
小声ながらも力強く、彼の言葉はリクの鼓膜と心を震わせた。
「はいっ……わかりました」
「よし、行けっ」
最後に奥戸から背中をぽんと叩かれたリクは、ファイルを抱えて勢い良く走り出した。
「あっ、村崎くん――」
だがすぐに、奥戸に呼び止められる。振り返ると、彼はどこかはにかんだ笑みを浮かべながら、口をファスナーで閉じるようなジェスチャーをしていた。おそらく『今回の件は他言無用で』と、表したメッセージだろう。リクも小さく口元を緩ませて、親指を立てて返した。
そして、再び走り出す。重圧から解放された気がして、足がとても軽く思えた――
◇◆◇◆
(――やっぱり、良い人だったな。奥戸先生は)
改めて奥戸との約束を思い返すと、自然と笑みがこぼれてくる。勇気を与えられた気がして、いつの間にか足取りは塀を越え、君鳥家の敷地内へと踏み入っていた。
(君鳥さんの……家)
頑丈そうなドアの横に掛けられた表札を見て、リクは意思を固める。
なぜか、心が晴れやかだ。
こんなにも、雨が振り注いでいるのに。
この雨すらも、背中を押してくれているかのような。
(よし……)
何もかもが、前向きに思えてくる。
全能感にも似た感覚。
今の自分であれば彼女を救えそうな、そんな気がする。
リクはためらいもなく、インターホンのスイッチへと手を伸ばす――
「……村崎、くん?」
背後から、声。
透き通るような、可憐で、か細い声。
ずっと聞きたかった、その声。
「君鳥、さん……」
急に、雨がうるさく思えてきた――




