26話 雨
リクが再び学校へ通い始めるようになってから、三日目の朝――
空は、昨日の夕方から降り出した分だけでは物足りないといった具合で、登校中の朝から打ちつけるような雨を降り注がせていた。
――傘を少し傾けて、リクは濁った空を見上げる。
「……すごい雨だね」
「ああ、朝から本気出してるよな。すげえわ」
隣を歩くヒロが、皮肉を言うようにそう口にした。
「勘弁してくれっての……雨の日は湿気で弓の調子も悪くなるし、メンテナンスもマジで面倒なんだよ……」
リクの前ではいつもポジティブな様相を絶やさなかったヒロだが、今日は朝からぶつぶつと愚痴を垂れ流している。
「部活の時間までに止むといいね」
「そうだと助かるんだけどなあ。でも予報がなぁ……」
「嘆かない嘆かない。ヒロらしくないよ?」
「……わかってるって。そういや今日の数学、小テストらしいな」
「えぇ……なにそれ。聞いてないんだけど。嫌だなぁ」
「はいはい、嘆くな嘆くなっ」
そんな他愛もない掛け合いを続けながら、二人は校門をくぐった――
「――じゃ、昼休みな。今日は学食で新商品のエビカツサンド食おうぜ」
「うん、わかった。また後で」
リクのクラスの教室前。お互いに軽く手を挙げ、軽い約束を交わす。リクは、湿気を感じさせないどこか乾いた笑みを浮かべながら、ヒロの背中が他の生徒の流れに溶け込んでいくまでを見届けた。
(……よし)
直後――すん、とリクの表情から柔らかさが失せた。小さく深呼吸をして気分を整え、胸の奥で密かに気合を込める。そして決意を、口には出さず高らかに掲げていく。
(今日こそ、君鳥さんに声を掛ける……!)
挨拶だけじゃない。曖昧な言葉でもない。
彼女が口にした『気にしないで』にも甘える気はない。
(ちゃんと……謝る。目を見て、しっかりと声に乗せて)
昨日の朝の出来事は、頭にはまだ鮮明に残っている。言えなかった一言。逸してしまったタイミング。何より、自分の臆病さに強く打ちひしがれた苦い記憶。
(逃げたままじゃ……絶対にダメなんだ)
今日はいつもより敢えて少し、学校に着く時間を遅らせている。始業五分前。この時間であれば、さすがにナナはもう教室にいるはずだ――リクはそう、高を括っていた。
(大丈夫……流れは、頭の中で何度も練習した。あとはどれだけ……平常心をもって臨めるか)
肩の力を抜いて、必要以上に身構えないように――そう心に決めたリクは、教室のドアをそっと開く。教室の中は、すでにほとんどのクラスメートが着席していて、そこかしこから騒がしい声が聴こえてきた。
(君鳥さんの席は――)
窓際の自分の席には向かわず、リクは視線だけを動かす。ナナの席は、入り口の手前側の列、最後方にある。トイレに立つ時以外は、いつも一人で物憂げにしていた彼女の定位置だ。しかし――
(……あれ?)
そこに、君鳥ナナの姿はなかった。
スクールバッグも置かれていない。
机も椅子も、朝の静けさを保ったままだ。
一瞬だけ、心臓が嫌な音を立てる。
(まだ……来てないの? そんな――)
リクは視線を右に左にと泳がせ、教室全体を隅々まで見回す。だが、どこにも彼女はいない。時計はすでに、長い針が〝6〟の位置に差し掛かろうとしている。この時間になってまで未登校というのは、遅刻か欠席以外はありえないだろう。
(たまたま、遅れてるだけ……だよね)
悪足掻きでも強いるように、リクは自分に言い聞かせようとした。しかし、甲高い電子音がスピーカーを通して、学校中に鳴り響く。始業のチャイムが、妙にはっきりと鼓膜を揺らした。単音が鳴るたびに、頭の奥を直接叩かれるような感覚。
(なんで……)
自分の席に座るのも忘れ、リクはナナの席の傍らで立ち尽くす。周囲の生徒たちは、何事もなかったかのように授業の準備を始めている。君鳥ナナが不在だからといって、さして問題などないといった風に。いや、彼女が登校してないという事実すら、誰も気に留めてないように見えた。
(今日こそは、って……決めてたのに)
綿密に組み立てたはずの計画が、砂上の楼閣が如く崩れ去る。用意してきた言葉たちが行き場を失い、脳細胞の海から座礁していく。
(もしかして……)
胸の奥に、嫌な予感が芽生え始めていた。
それはまだ、形すら成さない不安だったが。
リクの中で静かに、根を張り巡らせていた――
◇◆◇◆
――朝のホームルーム。担任の奥戸が教壇に立ち、名簿を手にしていつものように出欠を取り始めている。
一方でリクは机に両手を揃え、じっと座っていた。どこか、落ち着かない。背すじが石灰化したかのよう、不自然なほどに固く感じる。視線は前を向いているのに、意識はずっと、ただ一点――君鳥ナナの席に引き寄せられ続けていた。
(……どうして、だろう)
昨日の朝は、学校に来ていた。声も聞いた。視線こそ合わなかったが、それでも確かに、あそこにいた。
(君鳥さんに一体なにが――)
(――遅刻かもしれないだろ)
(僕の、せいなのかな――)
(――たった一日だろ)
(それとも、掃除当番の時から――)
(――体調が優れないだけなんだろ)
考えれば考えるほど、底のない穴に落ちていくようだ。要因を枚挙すればする分、無意識に結論を取り繕う。それでも、スクールバッグが置かれていない光景が妙に生々しく、嫌な方向へ想像を引っ張っていった。
「伊藤――」
「江端――」
「神崎――」
淡々とした奥戸の声が、教室に響く。名字を呼び、返事を確認し、名簿にペンを落としていく。作業的で機械的なそのテンポが、リクの焦燥だけを際立たせた。そして――
「――君鳥」
その四文字が発音された途端、鼓動が耳の奥を叩く。
「君鳥ナナ」
数秒の間を置いて、今度はフルネームで呼ばれる。
当然、声は教壇に返ってこない。
奥戸は一度だけ名簿に視線を落とし、短く言う。
「欠席、か」
教室のどこかから、潜めた声が聴こえてくる。内容は聞き取れない。聞き取りたくもない。誰かの椅子が軋む音すらも、耳にしたくない。
『――欠席、か』
奥戸のその一言だけが、深く鋭く刺さる。
頭の中で、また同じ疑問が暴れ出す。
(なんで)
(やっぱり)
(……僕のせい?)
口内が、なぜか渇く。
呼吸が、少し浅くなってきた。
視界が、やけに狭い。
情緒が、鈍く歪んでいく。
「村崎――」
自分の名が呼ばれる。
瞬間、五感が一斉に反応したような気がした。
リクはびくりと肩を震わせ、反射的に口を開く。
「……はい」
その返事は、自分でも驚くほどに力がなかった。
窓を叩く雨音よりも弱く、かき消されそうなほど――
4月28日




