23話 倉田さん
ふと、鼻先に水滴が触れ、リクは反射的に空を見上げた。
(雨、か……)
鱗状に敷き詰められた薄雲からは、傘を差すまでもないほどの小雨がぽつぽつと降り始めている。
(朝は晴れてたのに……)
登校中にスマホで流し見した天気予報では、今日の降水確率は確か20パーセントだったはずだ。そんな取るに足らない程度の小さな失望をよぎらせながら、リクはアパートのロビーの扉を開く。そのままポストの列を素通りし、二階への階段をゆっくりと昇り始めた。
(……今日は本当に、散々な一日だったな)
一段昇るたびになにか一つを思い馳せるように、登校から帰宅を果たそうとする現在までを振り返る。
(君鳥さんとは……あれから一言も話せないままだった)
ナナとの朝の一件が、まざまざと脳裏に蘇る。結局彼女に対しリクは、謝罪はおろか目を合わすことすらもできないまま、呆気なく一日が終わってしまった。
(帰りのホームルームが終わって、最後のチャンスだと思って声を掛けようとしたけど……君鳥さん、すぐに部活行っちゃうんだもんな……)
その決心に至るまで気まずそうに避けていたのはリクの方だったかもしれないが、彼女もまた、どこか距離を取っていたようにリクからは映ってしまっていた。
(今日はずっと君鳥さんのことばかり考えちゃって、授業中もうわの空だったし、あっという間に一日が終わっちゃったな……)
授業の内容を一切思い出せない。その集中力の欠如が態度に表れていたようで、数学の授業中にリクは名指しで注意を受ける羽目となってしまった。
(あれは、恥ずかしかった……)
教室中の視線が一斉に集まるあの、逃げ出したくなるほどの居心地の悪さ。思い出す度に、情けなさと悔しさで胸が苦しくなってくる。
(やっと学校に行けるようになって、ちゃんとやり直したかっただけなのに……)
階段を昇りきったリクは、立ち止まって重たい息を吐いた。今日一日を改めて振り返ってみると、余計に心がすり減ってくる。明日以降の登校が億劫になってきて、朝を迎えるのが怖くなってきてすらいた。
(これ以上考えるのはよそう……とりあえず帰って、シャワーにでも入ろう……)
とぼとぼとした足取りのまま、リクはアパートの通路を進んだ。自然と視線が下がり、床に伸びた自分の影だけを追うように歩くと、ほどなくして玄関の前に辿り着く。そして鍵を取り出し、ドアノブに触れるか触れないか、その刹那だった――
――ガチャリ、と音を立てて、先にドアが開いたのだ。
「……あっ」
思わず声が漏れる。中から現れたのは、リクが想像していたエイトとはかけ離れた人物だった。
(えっ、誰……?)
背筋がすっと伸びた老齢の男性。一切の黒が排された真綿のような白髪を生やし、落ち着いた色合いのコートと仕立ての良さそうなスーツを身に纏った姿。その佇まいにはどこか気品が漂い、老人というよりは〝老紳士〟と認識した方がしっくりくる。
「おや?」
ドアの傍らにて立ち尽くしていたリクの存在に老紳士も気付いたようで、少し驚いたように目を瞬かせた後、髭をたくわえた口元を微笑ませてペコリと頭を下げる。リクもそれに倣うよう、軽く会釈を返した。
「——倉田さん、お気を付けて。雨が降ってるみたいですが、傘いります?」
玄関の奥から、畏まった調子のエイトの声が聴こえてくる。
「いえ、迎えの者を下に呼び付けておりますゆえ、お気遣いは無用ですよ」
エイトからの親切に対し、倉田と呼ばれた老紳士は、物腰の柔らかい穏やかな口調で断りを入れる。
「蒼井さん、本日は誠に有難う御座いました」
「こちらこそ、倉田さんには色々と世話になりっぱなしだったんで、お安いご用ですよ」
「……ご立派になられましたな」
「倉田さんのおかげっすよ」
お互いに讃え合うような口振りで、エイトと老紳士が言葉を交わす。そのやり取りを傍から眺めていたリクは、二人の関係について想像を膨らませていった。
(エイトさんが学生だった頃の担任の先生、なのかな……? それともバイト先の社長さん……とか? それにしてはお爺さんの方も随分と畏まった感じがするけど……)
「――では、迎えが到着したようですので私はこれにて」
「お疲れ様でした。奥さんの方にもよろしく言っておいて下さい」
「もちろん、伝えておきますよ」
「今後もオレの方から連絡はしますんで、倉田さんもまたなにかありましたらいつでも連絡してください」
「ええ。それではまた」
勝手に推測を立てるリクをよそに、二人は別れの挨拶を済ます。老紳士は手に持っていたハットを被ると、コツコツと靴を踏み鳴らして廊下の奥に消えて行った。彼の背中が見えなくなっても、リクは呆気にとられたように視線を階段の方へと置き続けている。
「リク、さっさと入れ」
しばらく立ち呆けているリクに、玄関のドアが閉まらないよう開けてくれていたエイトが、少し苛立った様子で言い放つ。
「あ、ごめんっ」
エイトの声でどこか浮遊しかけていた意識を叩かれたリクは、慌てて玄関の敷居を跨ぐ。
「ただいま。えっと、今の人って……どちら様?」
そして靴を脱ぎながら、今の老紳士について早速と尋ねた。エイトは腕を組んで壁にもたれかかり、冷たい口調で嫌々と答える。
「朝、言ったろ。今日のカウンセリングの利用者だ」
「そうじゃなくて、なんか……元から知り合いっぽそうだったから」
「オマエには関係ねえよ」
「そんな言い方……エイトさん、もしかして機嫌悪い?」
「知り合いが自殺意に罹ったらそりゃ機嫌も悪くなるだろ」
「やっぱり知り合いだったんだ」
ピシャリと一度遮断されていたが、一瞬の隙を見逃さなかったリクが、文字通りの穿鑿でこじ開けてみせた。エイトは後頭部を雑に搔きながら、観念したように口を開く。
「ったく面倒くせえなぁ……オレの〝元〟保護司だよ」
「ホゴシ?」
「保護観察官のボランティアバージョンって言えばワカるか?」
「ホゴカン……ボランティア……」
だいぶ噛み砕いて要約と省略がされたその説明に、うっすらとした理解がリクの脳に刻み込まれていく。
「倉田さんはな……この辺の地域じゃかなり有名な〝名士〟ってやつでな、自分の事業の他にも色んな慈善活動を立ち上げて、率先して取り組んでるスゲー人なんだよ」
そこまでを聞いたリクの頭の中で、点と点が繋がる。
「もしかして、エイトさんが心療士として活動してるのも……その、倉田さんの影響だったりするの?」
「変なトコで察しが良いなオメーはよ……」
リクの憶測に対し、エイトはバツが悪そうに吐き棄てる。その表情はどこか恥ずかしそうにも映って見えた。
「……この話はもう終わりだ。オマエも制服着たままいつまでも突っ立ってねえで、さっさと着替えろよ」
エイトはそう言って話題を強制的に終了させると、リビングの防音扉に手を掛ける。これ以上自らの過去を明かしたくないというのが、顔と声の色からひしひしと伝わってきた。
エイトが倉田と出会い、どういった経緯で心療士になる道を選んだのか。そもそもなぜ彼は、保護観察の対象になったのか。まだまだ聞き出したい話題は山積みだ。しかしリクはここでようやく、君鳥ナナとの昨日の一件を経てから、自らに課した教訓を思い返す。
(あっ、そうか……しまった)
また『ラインを越えて』しまうところだった――とリクは改めて反省に胸を浸らせる。
(……本当に、気を付けなきゃな)
そう心に自戒を沈み込ませながら、リクはエイトの後を追うように、リビングへと足を踏み入れる――
「――え?」
リクの表情が凍り付く。リビングにて広がる光景を目にした途端、それまで抱えていた後悔や反省といった感情は全て、一瞬にして漂白されてしまった。
「なに……これ」
それはまるで、巨大なゴミ箱をひっくり返したかのような部屋だった。床には衣類や雑誌、開けられた引き出しの中身が散乱し、テーブルの上にも小物や書類が雑に山積みとなっている。ソファーのクッションは剥がされて転がり、棚の扉は全て開け放たれたまま。一見すると、空き巣被害にでも遭ったかのような惨状だ。
「ちょ、ちょっと……エイトさん。なにがあったの?」
リクは驚きのあまり、上擦った声で問い質す。一方でエイトは、キッチンで冷静に缶コーヒーのフタを開けながら、振り返りもせずに答えた。
「――ああ、今日の〝自殺意〟な」




