表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/34

グランフォード卿の表情から先ほどの傲慢さは消え、代わりに深い憂いの色が浮かんでいた。朝の陽が差し込む応接室で、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「実は…明日の美術展に展示予定だった家伝のティアラのことで」


「新聞に載っていた予告状の…」俺は言葉を詰まらせる。


「ああ」卿は苦々しい表情を浮かべる。「だが実は…既に盗まれてしまったのだ」


「すでに?」俺は思わず声を上げる。「予告の日時より前に?」


卿は重々しく頷く。「一週間前、保管していた金庫を開けた時にはまだあった。だが二日前に確認したところ…」その声が僅かに震える。「姿を消していたのだ」


「エメラルドを散りばめた、美しいティアラでな」卿は目を細め、まるで目の前にその品があるかのように手で形を描く。「白金に深い緑色のエメラルドを二十個ほど配した逸品だ。中央には鳩の卵ほどの大きさの石が据えられ、その周りを小ぶりの石が取り巻いている」


卿は一瞬言葉を詰まらせ、感慨深げに続けた。「市場価値で言えば、優に一万クラウンは下らん。白金細工の技術は当時の名匠、ヴィクター・ラインハルトの手によるものだ。エメラルドの研磨も、今では失われた古い手法が用いられている」


「警察には届け出たのですか?」


「ああ」卿は不満げに眉を寄せる。「だが一向に進展がない。実はハドソン警部とは旧知の仲でな。非公式に相談したところ、君のことを推薦してくれたのだ。"あの令嬢なら、何か糸口を見つけられるかもしれない"とね」


卿は僅かに自嘲的な笑みを浮かべる。「正直、最初は半信半疑だった。まさか若い令嬢が…という思いもあってな」その言葉には、先ほどの無礼を詫びるような色が混ざっていた。「だが、ハドソン警部は君の洞察力を相当高く評価していたよ。ハートウェル家の事件の時の活躍ぶりを聞かされてね」


卿の言葉に、俺は微かな気恥ずかしさを感じていた。第三者から評価を聞かされるというのは、いつの時代も照れくさいものだ。アラサー男の頃、警察署で"野神の勘は確かだ"と耳打ちされたときのことを思い出す。今は少女の姿でも、その感覚は変わらないようだ。


「お手伝いできることがありましたら」俺は淑女らしく微笑みかける。


「実はな…」卿は言葉を選ぶように間を置く。その表情には、まだ何か言い淀むものがあるように見えた。


「何かございますか?」


「警察には、単なる美術品の盗難として届け出たのだ。確かに、歴史的価値も金銭的価値も計り知れないものではある。だが…」卿の声が僅かに震える。「実はあのティアラには、もっと大切な意味がある」


「それは…?」


「母の形見なのだ」卿の声は低く、しかし切実さを帯びていた。「他界した母が、最も大切にしていた品でな。子供の頃から、母があのティアラを身につける姿をよく覚えている。母は特別な日にだけ、大切に使っていた」


その言葉に、卿の瞳が遠い日の思い出を追うように曇る。「もちろん、美術品としての価値も大事だ。だが、私にとってはそれ以上の…母の思い出そのものなのだ」


窓から差し込む朝の光が、卿の疲れた横顔を柔らかく照らしていた。その表情には、威厳ある貴族の仮面の下に、一人の息子として母を想う素直な感情が浮かんでいた。


「…ティアラが失われたのは、いつ頃でしょうか?」俺は丁寧に尋ねた。


「一週間前、保管していた金庫を開けた時にはまだあった」卿は記憶を辿るように目を閉じ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。「二日前の夜、展示への準備のために金庫を開いたところ…」その声が僅かに震える。「姿を消していたのだ」


「金庫に鍵は?」「勿論かかっている。そして鍵は私しか持っていない」卿は肩を落とし、深いため息をつく。まるでその事実が自身を責めているかのような表情だ。「なのに、錠前にも傷一つついていなかったのだ」


俺は静かに考え込む。鍵を持っているのは卿だけ。錠前に傷もない。内部犯の可能性もあるが、そんな推測を口にするのは時期尚早だろう。特に依頼人本人がその線で最も疑わしい状況では、慎重に事を運ばねばならない。ならばまずやるべき事は一つ。


「お屋敷を拝見させていただけますでしょうか?」


卿は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。先ほどまでの若い令嬢への傲慢な態度は影を潜め、その仕草には明らかな謝意が込められていた。これまでの実績を耳にして、本気で助力を求めようという気になったのだろう。


「ああ…今すぐにでも構わんよ」


母は心配そうな表情を浮かべながらも、静かに頷いていた。令嬢である娘が事件に関わることへの懸念と、その意思を尊重する気持ちが交錯しているようだった。


エミリオが後ろで小さく咳払いをする。「お嬢様、準備を…」その声には、いつもの執事らしい冷静さと共に、僅かな緊張が混じっていた。


「ええ」俺は立ち上がりながら、卿に向かって微笑んだ。「では、早速参りましょう」


窓の外では小鳥がさえずり、新たな一日の始まりを告げていた。レースのカーテンを透かして差し込む陽光が、応接室の調度品を優しく照らしている。今日もまた、探偵としての仕事が始まろうとしていた。アラサー男の時とは違う体で、しかし同じ探偵魂で事件に挑む─そんな決意を胸に、俺は立ち上がった。


毎日12時更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ