表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

鶯の聲

作者: 三峰三郎

*史実をベースにしたフィクションです。

      1


「是非、お言葉を頂戴したく」


 香坂高宗は信濃国桔梗ヶ原に陣取る南朝軍の大将である宗良親王に頭を下げて懇願した。

 高宗の横には、矢島正忠、栗田範覚といった信濃で南朝勢力を共に盛り上げてきた国人頭領が同じように宗良親王に熱い視線を送っている。


 東の空が徐々に明るくなり、桔梗ヶ原一帯に鳥の鳴き声が響き渡り始めた頃である。


 目の前には信濃守護、小笠原長基率いる幕府方の軍勢が北上しようとする味方のゆく手を阻むように陣取っていた。

 幕府方の軍には、小笠原家臣である坂西、赤沢、麻績といった信濃国人が名を連ねている。

 

 朝廷が南北に分裂してるこの時代、全国各地の豪族たちも幕府の庇護を受けるもの、南朝方として幕府勢力に対抗するもの、それぞれの思惑で領土拡大を模索し生き残りをかけて争いあっていた。

 信濃国内の情勢もこの例外ではなかったのである。

 

 しかし、いまでは足利尊氏が室町幕府を創設し全国統治の主導権を握っており、南朝方の勢力は衰退の一途を辿っている。おそらくは、この戦が東国における南朝勢力最後の復興の機会となるのではないかと高宗は感じていた。

 これまで南朝の興隆に力を注ぎ信濃国で耐え忍んできたのは、この日のためであったに違いない。

 この思いは横に居並ぶ者たちも同様に感じているはずであった。

 目の前の敵を倒すという目的を果たすためには、宗良親王のお言葉を賜り、味方の兵たちの士気を高める必要があった。


「あの時のように和歌でも構いませぬ。宮様のお言葉で味方の士気は大いに上がりまする」


 高宗は今年の春、二年ぶりの再会を果たした宗良親王を仰ぎ見た。

 

「しかしあれ以来、和歌を詠むはやめてしまったのです。それに、此度の事実上の大将は矢島殿ではありませぬか。私は旗印みたいなものです」


 柔和な微笑みを顔に浮かべながら、宗良親王は皆の願いを丁重に断った。


 これまでの戦においても、宗良親王は先頭切って戦をしてきたわけではないらしい。

 吉野に南朝を築いた、いまは亡き後醍醐天皇の息子である宗良親王は、南朝勢力拡大のため東日本各地を転々としてきたが、いざ戦となっても味方を率先して自ら先頭に立ち戦に挑むことはなかったと高宗は聞き及んでいた。

 味方を集め士気を高揚させるための御旗そのものであることに徹してきたのだ。その点、噂に聞く兄である護良親王の勇姿と、宗良親王の姿は重ならなかった。

 後醍醐天皇を支えてきたその護良親王は、二十年も前に足利尊氏の弟である足利直義の手によってすでに殺されていた。


「武蔵野の戦のおり、宮様の歌が味方を奮起させたのでございます。是非ともお言葉を」


 高宗はなおも食い下がった。


「結局あの戦は味方の敗北に喫してしまったではありませぬか。私の言葉で何人の武士が死地へ赴くこととなったか知れない。以来、歌を詠むのが怖くなってしまったのです」


 宗良親王は、微笑みを絶やさぬまま静かに言った。


「確かにあの折は撤退を余儀なくされました。しかし、三年がたったいまなおこうして我々が諦めずに南朝勢力を維持できたのも、あの時に謡われた宮様の和歌のおかげにございます」


 三年前の正平七年(1352)、観応の擾乱とのちに呼ばれる足利尊氏と足利直義の兄弟げんかの争いが全国規模で起きていた。

 その年の閏二月、当時、信濃国下伊那郡大河原にて起居していた宗良親王のもとへ南朝の天皇である後村上天皇から使いの者が訪ねて来た。

 宗良親王を征東将軍に任じ幕府方内訌のこの機に乗じて上野国の新田義興とともに鎌倉を奪取せよ、との令旨を携えてきたのである。

 大河原で平穏な日々を送っていた宗良親王は、思いがけぬ使者に驚き次の和歌を詠んだ。


「思ひわび手もふれざりし梓弓 おきふし我が身なれんものとは」


 高宗の本拠地である大河原で八年近くもの間、南朝勢力を糾合しながら時折和歌に興ずる日々を送っていた宗良親王にとって、この令旨は寝耳に水であったのである。

 この八年の間で、高宗と宗良親王は肝胆相照らす仲となっていた。

 その高宗を連れて宗良親王は、鎌倉奪取のため関東へ出陣することとなった。


 新田義興をはじめ、上野、信濃、越後、武蔵の南朝諸勢力を結集させた宗良親王は、弟を破ったばかりの足利尊氏の幕府軍と戦うこととなったのである。武蔵野合戦と呼ばれる戦である。閏二月二十八日のことだった。

 

 合戦の直前、味方の士気を高めるため南朝方の兵たちの前で宗良親王は和歌を詠んだ。


「君が為世のためなにかをしからん すててかひある命ありせば」


 この歌を聞いた者で、鼓舞されなかった者はいなかった。

 しかし、結果は南朝軍の惨敗。信濃へ戻った宗良親王は、翌年の春、新田氏が勢力を維持していた越後へ動座することとなり、本国を盤石なものとしたい高宗とは別行動をとることとなった。

 

 それから二年が経っていた。


「私の本意とは異なる歌でした。しかし、仇敵を目の前にしてどうしても勝ちたかったのです。後悔しています。あの言葉で私は何人の味方を死に追いやったか」


 武蔵野合戦以前、和歌を詠むことだけを心の拠り所としてきた宗良親王だったが、あの歌を詠んでからこれまで、自身の発する言葉の影響力が恐ろしくなり越後においてはほとんど和歌に興じてこなかったという。

 実際、京の二条為明に宛てた手紙に詠んだ和歌のほか、越後に滞在していた二年間の宗良親王の和歌は現在残っていないという。


「私の言葉で、味方が死ぬのはもう見たくないのです」


 だから和歌はやめた、というのである。


 今年の春、信濃の地へ再び宗良親王が戻ってきたのは、越後の南朝軍が幕府軍によって窮地に追いやられたのを救うため、信濃の南朝勢力を再び糾合しようとしたのである。

 そして越後へ救援に向かう途中、幕府方の小笠原軍がこれを阻もうとして、いままさに戦になろうとしているというわけである。


「されど……」


 高宗が言いかけたその時、敵の陣営から鬨の声が上がった。

 

「この戦はどうしても負けられません。皆々、頼みましたよ」


 宗良親王は一同を見渡しながらそう言うと、あとは任せたとでも言うように静かに目を閉じた。

 


      2


「急ぎ撤退の御準備を!矢島殿が討たれ申した。お急ぎ下され!」


 陣幕が張られた本陣に高宗が慌てて駆け込みながらこう叫んだのは、合戦が始まって一刻ばかりが経った頃である。

 床几に座った宗良親王は、これを聞いても微動だにせず腕を組んだままじっと目を瞑っていた。

 

「宮様、急ぎ撤退の御準備を」


 高宗は聞こえなかったのかと思い、もう一度声をかけた。


「……できません。此度の戦にはどうしても勝たねばなりません」


 宗良親王は辛うじて聞こえるようなか細い声で言った。


「しかし、矢島殿が討たれた今、味方も浮足立ちすでに塩尻峠へ逃げ出している者もおりまする。宮様もどうか」


「できぬと言っています」


 宗良親王は先ほどよりもはっきりとした口調で言った。


「此度は撤退し、大河原で再起を図り……」


 言いかけた高宗は、言葉に詰まった。

 姿勢を崩さぬままでいる宗良親王の頬に一筋の涙が伝ったのが高宗の目に映ったからである。


「幾度か」


「は……」


「幾度再起を図ればよいのか」


「それは……」


「幾度味方を集い戦に臨めばよいのか。いつになったら私は父の悲願を果たすことができるのか。いつになれば私は心置きなく和歌に興じることができるのか」


 それまで無表情だった宗良親王の顔が徐々に崩れ出し、ついには悔し涙でくしゃくしゃになった。

 このような表情の宗良親王をはじめて見た高宗は困惑した。


 北信濃の牧ノ島を本拠としていた高宗の叔父、香坂小太郎心覚が南朝方として小笠原、村上、高梨らと戦をしその地を追い出されてから、二十年ばかりが経とうとしていた。それ以来、大河原の地へ本拠を移した香坂一族の頭領となった高宗は、牧ノ島奪還という悲願を果たすべく年々衰退していく信濃の南朝勢力をこれまで何とか維持してきた。

 高宗のこの日の戦に賭ける思いも決して小さなものではなかった。しかし、宗良親王の思いはそれ以上であろう。

 父である後醍醐天皇に命じられ、伊勢、遠江、越中、越後、信濃と各地へ赴きその地に南朝勢力の基盤を築かんとこれまで戦ってきて、そしてそのすべての地において敗れてきた。

 その悔しさは想像を絶するものがある。

 

 武蔵野合戦においても、足利尊氏との直接対決に宗良親王は敗れた。

 戦の直後、鳩山の峠まで撤退してきた宗良親王は、何を思われたか月明かりの下で突然笛を奏で始めた。

 このようなときに笛など、と詰る者もいたが、この笛の音を聞いた高宗は目から溢れ出る涙を止めることができなかった。

 高宗には宗良親王の笛の音が戦死した者たちへの鎮魂歌に聞こえたからである。

 宗良親王には、自身を父の後醍醐天皇や兄の護良親王よりも劣っている存在と思われている節が見受けられた。しかし、心根の優しさにおいて宮様の右に出る者はいないのではないか、と高宗はこの時感じた。

 以来、この地は笛吹峠と呼ばれるようになったという。

 

「お命がある限り、幾度でも再起を図りましょう。私も幾度でも宮様に付き従います」


 高宗は宗良親王をなかば抱えるようにして、桔梗ヶ原の戦場をあとにした。

 撤退の途中、宗良親王が笛を奏でることはなかった。



      3


 桔梗ヶ原の戦いから半年が経とうとしている。

 戦以来、宗良親王は大河原の地で日々を送っていた。二年ぶりの大河原であったが、二年前とは違い、宗良親王は御所に籠ったきり襖も空けず一歩も外に出ようとはしなかった。

 

 宗良親王が初めてこの地に来たのは、十二年前の興国五年(1344)のことであった。大河原は、東海道と北陸道を結ぶ秋葉街道の中心に位置し、北と南の南朝勢力を結びつけるうえで重要な拠点であった。また、山間に囲まれた土地であり、親王自身の身を守る要害の役割を果たしてくれる場所でもあったのである。 

 しかし、宗良親王がこの地に八年も住み着いた理由はそれだけではない。

 和歌の題材にこと欠かない風景が大河原には広がっていたのである。

 大河原に来るまで、宗良親王は南朝勢力拡大のため地方を旅してきていたが、それと同時に各地の情景を歌に詠んできていた。

 大河原の地に来てからも、この地を拠点とし信濃で味方を糾合しつつ、和歌にも興じてきていた。しかし、ここ最近は外にも出ず引き籠ってばかりいた。

 高宗が御所に訪ねて行っても会おうともしなかった。

 

 これを心配した高宗は、宗良親王にかつての元気な姿に戻っていただきたいとある作戦を思いつき、実行に移した。


 宗良親王には、今年十二になる嫡男がいた。高宗はその皇子を誘い、宗良親王の籠る部屋の隣室で、和歌の創作をしては二人でその和歌を隣にいる宗良親王に聞こえるように詠みあったのである。

 

 十日に一度ほど御所を訪ねては、皇子と共に和歌の創作を続けたが、なかなか宗良親王は顔を出さなかった。

 そうこうするうちに年が明け、春の季節となっていた。

 

 飽きることなく宗良親王の屋敷を訪ねていた高宗は、本日の和歌のお題を何にするか決めかねていた。

 すると、縁側に面した庭の木にとまる一羽の鳥が透き通るような声で鳴いた。

 

「鶯か……」


(そういえば、初めてお聞きした宮様の歌は鶯の和歌であった)


 「かりの宿かこふばかりの呉竹を ありし園とやうぐいすぞ鳴く」

 という歌であった。

 

 お題を鶯と決めた二人は、それぞれ紙に筆を走らせた。

 先に出来た高宗は、咳ばらいを一つすると溌溂とした声で読み上げた。


「谷ふかき宿の梢の鶯も しらせよ我が春きたるしるしを」


 宗良親王が再び元気を取り戻してほしいと願って作ったつもりであった。


「よい歌です」


 皇子に褒められ、高宗は恥ずかしそうに頭を掻きながら隣の部屋に目をやった。

 

(やはり、駄目か……)


 視線を落とし、次の歌に取り掛かろうと筆を持ち直した直後である。

 突然からりと襖が開いた。


「春くれば花にうつろふ鶯の 心のいろを音にはしらるる」


 無精髭を生やした宗良親王がそこに立っていた。


「宮様。お見事にございます」


 頭を下げて出迎えた高宗は、安堵と嬉しさで胸がいっぱいになった。


「ここに初めて来たときも鶯が鳴いていました」


 部屋に入ってくるなり縁に出ると、庭を見渡しながら宗良親王が呟いた。


「私もそのことを思い出しておりました。宮様、もう父や兄の夢を背負わなくてもよろしいのではないでしょうか。もう宮様ご自身の道を歩まれてもよろしいのではないでしょうか」


 高宗は目に涙を浮かべながら言った。

 宗良親王は、ふっと微笑むと振り返りながら言った。


「そうですね。これからは、そうしましょう。高宗、山へ和歌を詠みに参りましょう。筆と紙を用意してください」


「ははあ」


 高宗は、長年の責務から解放されたような朗らかな表情をしている宗良親王を仰ぎ見ながら答えた。

 梢の鶯も、宗良親王の出立を喜ぶかのように澄んだ声音を温かな陽光に包まれた山間に響かせていた。


      完

 

 


 


  

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ