第23話 大海魔ヒュドラ
クリスタルが襲われて一週間ほど。巨大魔族は今はミノス神聖帝国沿岸を北上しているものと思われる。皇帝レオポルドには、ちびラーを渡すわけにはいかないが、警告して、沿岸部から人を避難させた。そのため、港や建物、不幸にして出会ってしまった船などが被害にあったが、人的被害はそれ程大きくは無い。
その魔族については、名が無いと呼称するのに不便なので、名がつけられた。「ヒュドラ」という名である。前世にあった伝説上の怪物と同じ名だが、何のことは無い、俺が前世の知識から引っ張って来て名付けたから、そうなっただけだ。クラーケンにしようかとも思ったが、そこは好みの問題である。
さて、怪物が徘徊していると言っても、日常は続く。政治も止めることは出来ない。講和会議は引き続き進められ、多くのことが決まった。
まず、旧ナルディア王国はレドニア大公を王に戴くことになり、名称もレドニア王国に変わることになった。フィリーナの嫁ぐ相手たるルナール公子は、レドニア王太子となり、フィリーナは将来のレドニア王妃となることになったのである。
これは、旧ナルディア王国の多くの有力貴族がレドニア大公に恭順の意を示しているという実態だけでなく、同盟国たるオルタリア王国の強い支持、それと議長を務めたリューベック候の議事によるところも大きいだろう。フィリーナを将来の王妃とすることによって得られる利益はアラバイン王国にとっても大きなものだ。そして会議に参加している国で、アラバイン王国の意向に逆らうことのできる国など在りはしない。こうして平和裏の会議の体を取りつつ、アラバイン王国が主導する国際体制を作り上げていく。それが俺とリューベック候の狙いだった。
続いて、ナルディアに侵攻したサフとレントは領土を安堵される代わりに、レドニア王国に多額の賠償金を支払うことになった。両国からは不満の声も漏れたが、ガレアからの圧力を受けている現在、領土の安堵の方を優先した形だ。ガレアも同意しており、合意が発効すればガレア軍は撤退することになるだろう。
そして、主島が消滅してしまったマリス島嶼国連邦はガレアの信託統治を受けることとなった。これは、マリスの外相シァオローンがガレア王シャーリーアと直接交渉した結果を、他の主要国も受け入れたと言うことになる。シュペール消滅に加え、ヒュドラ襲撃で甚大な被害を受けたガレアにとっては負担も大きいが、隣国の無秩序状態を放置することによるさらなる混乱や他国の介入などを防ぐことを優先したのだ。信託統治領となる旧マリスの初代総督は、シャープールが赴任することとなっている。あの男なら早期にマリスに秩序を取り戻してくれるだろう。
最後に定期的な首脳会議の開催を決め、講和会議は終了した。武力による秩序では無く、外交による秩序を。もちろん、その背景に軍事力は不可欠であるが、少しでも文明を前に進めよう。
その二日後、講和会議が終了する時を待っていたかのように、その報がもたらされた。レオニードへのヒュドラ襲撃である。今度こそ逃がさない。ラーケイオスを駆り、レオニードに急ぐ。
レオニードに着くと、まさにヒュドラが港を襲撃しているところだった。10以上の触手が港の倉庫街を薙ぎ払っている。が、幸いなことに、いち早く避難したのか、人の姿も、動いている船の姿も無い。ホッと胸をなでおろす。艦隊で迎え撃つような行動に出られたら、恐らく全滅していただろう。カテリナが俺の指示を徹底してくれたようで安心である。
しかし、このままではこれまでと同じ。海中にいる敵に手が届かない。何とか、海面まで引きずり出さねばならない。だが、その前にまずはレオニードから引き離すことが必要だろう。
『ラーケイオス、まず水面に出ている触手を一掃しろ。その後、できるだけ低空を飛んで、あいつを挑発。相手が挑発に乗ったら、レオニードから離れるように誘導するんだ』
『了解』
直後、ラーケイオスの口元に魔法陣が浮かび、ブレスが放たれる。僅か一重の魔法陣から放たれたブレスであるが、その金色の光は水面の触手を一瞬にして蒸発させた。だが、すぐに再生すると、その触手の先に次々と魔法陣が浮かび上がる。次の瞬間、十数本の漆黒のブレスが俺達を襲った。そのブレスを躱し、あるいは障壁で弾きながら、急降下すると再度、黄金のブレスを放つ。だが、続く光景に目を見張ることとなった。
「障壁の多重展開? マジかよ!」
10本程度の触手が、ブレスから障壁に魔法を転換し、十重に及ぶ障壁を張ったのだった。ラーケイオスのブレスは障壁を次々と貫通するが、最後まで届かない。
ラーケイオスは急降下から、水面の手前で水平飛行に移ると再度攻撃のため上昇しようとした。その時だった。海面が一気に盛り上がったかと思うと、何か巨大な物が、ジャンプするように飛び出してきた。
それは正面から見ると、灰色の薄い円盤。だが、その大きさはけた違いだ。その円盤の正面に横に亀裂が入ったかに見えた、次の瞬間、ガバァっと裂ける様に亀裂が開いた。視界が赤一色に染まる。目の前に迫るそれは巨大な口だった。差し渡し、横に200メートル、縦に80メートルほどもあるだろうか。ラーケイオスを丸呑みできるほどの巨大な赤い口腔が迫って来る。
『逃げろ、ラーケイオス!!』
バクンッと閉じた顎を辛うじてかわすと、上空に逃げる。そうやってヒュドラの全身を視界に収めた俺は驚愕を隠せなかった。その姿は翼あるイカ、いや、尾が触手となったエイか。その大きさは横に400メートル、縦に500メートルはあるだろう。驚きはそれだけでは無かった。
「あいつ、空も飛べるのかよ!」
エイが泳ぐように空中で体をくねらせたヒュドラは、ラーケイオスを追って、急上昇してくる。その巨大な口から特大のブレスを放ちながら。
その空に突き立った漆黒の柱を横滑りに避けると、脇をかすめて更に上空に上ってしまったヒュドラを追って、ラーケイオスも上昇する。巨大な竜とエイによるドッグファイト。それは黄金と漆黒の光の乱舞。だが、こちらのブレスは多重障壁に阻まれ届かない。ヒュドラからの攻撃も触手からのブレスはラーケイオスの障壁を破れない。だが、安心してはいられない。正面からの特大のブレスを防げる保証は無いのだ。幸いにして飛行能力自体はラーケイオスの方が上のようで、今のところ後ろを取られることは無いのだが。
お互いを追い、空中での決死の乱舞はしばらく続いた。しかし、お互いに決め手を欠いたまま長期戦になるかと思ったところで、ヒュドラは再び海中へとダイブした。こうなってしまうと追いようが無い。しばらく上空を旋回していたが、諦めていったん帰投することにする。第一、このままではこちらも有効な手が無い。
それにしても、ヒュドラは空を飛ぶ。大きな誤算だった。いかに巨大な力を持とうとも所詮は海棲。海岸部から離れれば被害は無いと踏んでいた。その全ての前提が覆る。もはや時間をかけてはいられない。事は人類存亡の危機にすら及びかねないのだ。
「……総力戦だ」
決意を胸に一路、クリスタルへと向かうのだった。
次回は第7章第24話「大聖女の記憶」。お楽しみに。




