第7話 フィリーナの婚約
この世界では、結婚式というものは、神の前で夫婦になることを宣誓するという意味合いが強い。それは、ミノス教のような厳格な宗教を持たないアラバイン王国や、他の国であっても同じ。だから貧富の差などにより、規模が違うことはあれど、結婚する際に式を挙げるのは当然であって、役所に書類を提出して終わりなどということはあり得ない。
しかし、婚約式はそうでは無い。平民の場合は、婚約式など一般的では無い。家同士のつながりが重視される貴族間での慣習と言っていいだろう。その場合もよほどの大貴族でも無ければ、見届け人と家族同士でパーティを行う程度だ。俺の場合は、結婚式を任地であるレオニードで行う予定だったため、結婚式に招待できない王都の友人、知人を招いて、それなりに盛大にやったが、それでも辺境伯邸でのパーティーに留まるものだった。
だが、レドニアでのルナールとフィリーナの婚約式は、そんなものでは収まらなかった。大公の息子とは言え、実質的には王子。しかも相手は、今や、大陸随一の大国に躍り出たアラバイン王国の王太子である俺の妹。アラバイン王国とのつながりをアピールしたいレドニア側の思惑と相まって、まるで結婚式かと見紛うばかりの盛大な婚約式が執り行われることになったのだった。
会場となったレドニア公都の神殿に集まった参列者は200人以上。その最前列にセリアと共に座りながら、周りの参列者にチラリと視線を向ける。同じ最前列にレドニア大公夫妻がいるのは当然として、後ろには各国代表が並んでいる。流石にナルディア王国は欠席だが、それ以外の主要な国殆どが出席をしていた。だが、彼らが見ているのはルナールでもフィリーナでも無い。俺だ。
クリスティア王国を属国化し、ミノス神聖帝国をも下したアラバイン王国がいよいよ大陸西方に覇を唱えようとしているのではないか? この婚約はその足場づくりなのでは無いか? そうした疑心暗鬼に囚われた国々が探りを入れるために出席して来ているのだ。
全く、俺にはそんな意図は無いと言うのに。俺はセリアの暮らす祖国の平穏を守るために周辺国の脅威を取り除いただけだ。ルナールとフィリーナの婚約は本人の希望を尊重しただけ。だが、権謀術数の世界に住んでいる人々の目には、アラバイン王国による大陸制覇の野望という、ありもしない幻影が映っているのだろう。
そんな思いで参列者に視線を向けていたら、そのうちの一人と目が合った。レティシアである。公表からわずか一月ちょっと後の婚約式。各国から出席はしていても、本国から王族が出席している国は多くない。彼女はその数少ない一人だった。
そのレティシアは、いつもの軍服では無く、ドレスを着ていた。その姿に、同盟締結の祝賀式典での彼女の姿が重なる。「自分はもう大丈夫だから」と言っていた彼女の姿が。あの言葉の真意はわからないまま。だが、最早それを知ることに意味は無い。俺もレティシアもただ、会釈をして壇上に視線を戻す。
壇上では、ルナールからフィリーナに婚約指輪が贈られているところだった。はにかみながらルナールに指輪を嵌めてもらうフィリーナは美しい。俺が贈ったウェディングドレスにも似た純白のドレスは彼女の美しさをこれ以上無い程引き立てている。その胸元を飾るのは母さんから贈られたあのネックレス。死後に譲ってとフィリーナがおねだりしていたネックレスは、国外に出ることが叶わない母の想いと共に生前のうちに娘へと譲られたのだった。
家族の想いを背負い、フィリーナは今巣立つ。この婚約式が終われば、彼女はそのままレドニア宮廷に入るのだ。そうなれば、しばらくはもう会えるまい。次に会えるのは半年後の結婚式の時か。だが、その後はいつになるかわからない。これまでの彼女と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。俺にべったりだった子供の頃のこと、セリアと張り合って母さんに二人してお尻を叩かれた時のこと。酔っぱらった彼女にゲロ塗れにされたことさえ、今となっては懐かしい思い出だ。
願わくは彼女の未来に幸あらんことを。結婚してレドニア公子妃となれば他国の人間。アラバイン王国王太子として、いずれ王になる身として、いつか袂を分かつ時が来るかもしれない。でも今は、今だけは、兄として、ただ妹の幸せを祈ろう。
夜になり、宮廷に場所を移して、宴が始まった。主役はもちろん、ルナールとフィリーナの二人。だが、各国代表団は皆一様に型通りの祝辞を二人に述べると、俺の元にやって来る。そして異口同音に聞いてくるのだ。レドニアを今後どうするつもりなのか、ナルディアとのいざこざをどう収めるつもりなのかと。
その度に本心を悟られないように笑顔で表情を塗り固めながら、同じ言葉を繰り返す。「何も決まっておりません」と。レドニアとは友好関係を続けるし、ナルディアには襲撃の背後関係を明らかにするように依頼している。そのことは正確に伝えつつ、それによって我が国がどう判断し、動くのか。それを今明らかにすることは出来ない。
そうやって、しばらく各国代表と腹の探り合いをしていたが、取りあえず主要国の相手が終わり、人が途切れたところで、セリアを伴い、会場を離れ、テラスに出た。痛くもない腹を探られるのにも辟易していたし、主役より目立つ人間が会場にいるのも良くないだろう。
テラスに出ると、天には煌々たる月。二人だけのテラスでセリアと並び、空を見上げていたが、自然と俺の視線はセリアの方を向いていた。月の女神にも比肩しうるであろう彼女の美しい横顔に見惚れながら思う。ああ、この風景はまるであの時と同じだと。セリアに想いを伝えたあの時と。その視線に気づいたのか、彼女も俺の方を見ると微笑んだ。
「こうしていると、あの時のことを思い出すわね」
「ああ、俺も思い出していたところだ。君に想いを伝えた時のことを」
彼女もまた、俺と同じことを思っていてくれたことに心が温かくなって、その思いに重ねるように言葉を紡ぐ。
「ホント、あの時はドキドキだったよ。君に断られたらどうしようと思ってた」
「断るなんてあるわけ無いじゃない。あの時、本当に嬉しかったんだから。世界一幸せだって思ったわよ」
「嬉しいよ。でも、あの時俺は平民から子爵になったばかりで、君に釣り合うか心配だったんだ」
「そんなこと……。あなたが私を助けてくれた時から、ううん、友達になりたいって言ってくれた時からずっと、あなたは私にとって特別だった。身分とか関係ない。あなただから私はあなたを好きになったの」
そうして真摯な眼差しを向けていたセリアは再び月へと視線を向けた。
「ねえ、覚えてる? 私があの時、あなたが手の届かないところに行ってしまいそうで怖いって言ったこと。あの時、子爵だったあなたが、今や王太子。私の方が王太子妃なんて分不相応な身分まで引き上げてもらったんだわ」
「分不相応なんかじゃ無いよ。そりゃ俺が王族の血を引いてたなんて偶然はあったけど、俺が王を目指そうと思えたのは、努力したのは、君がいてくれたから。君が俺を支えてくれたからだ。だから今の地位も君自身の力だ。それに、あの時とは周りの状況全てが変わってしまったけど、変わらないものが一つだけある」
黙って俺の言葉を待ってくれている彼女に告げる。こんな臭いセリフは俺には似合わないけれど。
「君への想いだ。あの時も今も変わらない。何度だって言うよ。君を愛している。世界中の誰よりも君を」
「私もよ。あなたが大好き。ずっとずっと変わらないわ」
潤んだ彼女の瞳が美しい。その宝石のような瞳に惹きつけられるままに彼女を抱き寄せ、唇を重ねる。あの日、同じ月の光に照らされながら、初めて口づけを交わした時のことを思い出しながら。
次回は第7章第8話「レティシアの覚悟」。お楽しみに。




