第7話 あなたは一人じゃない
アレクシアに到着した日はかなり多忙な一日となった。パレードの後は謁見の間でドミティウスから賞賛の言葉をもらい、同時に王太子とする旨の宣告があった。正式には半年後の立太子の儀を経て王太子となるが、実質的には今後、俺は王太子として扱われることとなる。
その後は戦勝パーティーが行われ、主役の俺はいろいろな人に囲まれ、追従を言って来る連中に心にも無い挨拶を返して空虚な時間を過ごしたのだった。
そうして今、ようやく自室に戻ってきて、ベッドの端にへたり込んでいる。疲れた。肉体的な疲れはそれ程でも無いが、精神的な疲れはかなりのものだ。王城の門まで出迎えに来てくれたセリアのお陰で少しは回復したが、それでも、心は鉛のように重い。
そのセリアは隣に座って俺の肩に頭をもたれさせている。もう結婚して1年以上になるが、今でもそんな可愛らしい仕草に心を奪われる。何より、ほぼ半年会えていなかったのだ。遠征中、この時を夢見ない日は無かった。王都に戻ってセリアを抱くこの時を。
でも、手が伸ばせない。伸ばそうとする手にこびり付いた血が見える。もちろん本当に血が付いているわけでは無い。それでも見えるのだ。洗っても洗っても消えない。こんな血塗れの手で彼女に触れていいのか。穢れの無い無垢な女神を汚すような、そんな冒涜が許されるのか。
手を伸ばそうとして引っ込める、そんな不審な挙動をしていたら、セリアに首を傾げられた。
「どうしたの、ラキウス。そんな深刻そうな顔をして」
その顔はどこまでも俺を心配している顔。本当なら、彼女に内心の弱さなど見せたくない。バカバカしいかもしれないけど、そんなくだらないことが男の矜持だったりするのだ。でも、彼女の優しさに、思わず全てを吐露してしまっていた。
「セリア、俺……たくさんの人を殺したんだ。クリスティア兵を皆殺しにした。1万人も。投降した兵士まで殺したんだ。甘い顔を見せたらいつまでも抵抗が止まないからという理由で抵抗する領主一族を皆殺しにした。子供の前で親を処刑したことさえあった。こんな俺が王太子として持ち上げられる。君の夫として君を抱こうとしている。そんなことが、そんなことが許されるのか? 俺は君の前にいていい人間じゃ……!」
君の前にいていい人間じゃ無い、という言葉は、最後まで言うことが出来なかった。顔がふわりと柔らかいものに包まれたから。セリアの胸に抱かれたのだと気づくのに一瞬時間がかかってしまった。
「ラキウス、あなたは間違っていない……」
今、何よりも欲しかった言葉。その言葉はしかし、それで終わりでは無かった。一拍置いて彼女は続ける。
「……なんて言わないわ」
思わず彼女の顔を見つめる。彼女の胸に顔を埋めているので見上げる形になってしまったが。その顔がよほど情けない顔をしていたのだろう。彼女は少し困ったような顔を見せた。
「何が正しいかなんて、立場によって、見方によって変わるわ。アラバイン王国の人々にとってはあなたの行いは正しいことかもしれない。クリスティア王国の人々からしたら間違っているかもしれない。どっちが正しいかなんてわからない。神様ならわかるかもしれないけど、神様がどう判定するかなんてわからない。もしかしたら、神様はあなたを地獄に堕とすかもしれない。それは誰にもわからない。でも、……確かなことが一つだけある」
彼女の瞳が真っすぐに俺を見る。その眼差しはどこまでも優しい光を湛え、それでいて真剣だった。
「私はいつだってあなたと共にいる。何があろうとも」
その静かな宣言に息を呑んだ。彼女の言葉に、揺るぎない意志と、強い思いを見たから。
「昔ね、リアーナ様に約束したの。例え世界中の全てがあなたの敵になったとしても、私だけはあなたの味方でいるって」
俺の髪を撫でる彼女の手は暖かく、そしてどこまでも優しい。
「もしも神様があなたを地獄に堕とすと言うのなら、私も一緒に地獄に堕ちるわ。だから、安心して。あなたは一人じゃない、決して」
───気がつけば、幾筋もの涙が頬を伝っていた。彼女の言葉が胸に染み入って来る。一つだけ、ただ一つだけ彼女の言葉に間違いはあるけれど。
彼女が地獄に堕ちるはずが無い。何の罪もない彼女が地獄に堕ちるなど。美しすぎることが罪だとか、優しすぎることが罪だとでも言うことが無い限り。
だが、例え地獄には一人で行くことになろうとも、この世界で生きている限り、彼女が共にいてくれる。こんなにも嬉しいことがあるだろうか。
龍の神など信じない。ミノス教の神などなおさらだ。人の作り給うし神など信ずるに値しない。それでも、それでもこの世に本当に神がいるのなら、彼女をこの世界に生み出してくれた奇跡に、俺を彼女と引き合わせてくれた奇跡に、今はただ感謝しか無い。
その日俺は、セリアの腕に抱かれ、その胸に顔を埋めて、ただ幼子のように眠りについたのだった。
次回は第6章第8話「大聖女の涙」。お楽しみに。




