無題
久しぶりに作品を投稿する。
何を書けばいいか分からないので、とりあえず文章をつづってみる。
昔読んだ小説の話でもしようかと思う。
幼いころに夢中になって読んだ小説がある。
小学生の頃は長い文章を読むのが苦手で、国語が苦手だった。
登場人物の気持ちを考えようなんて設問は全く無意味に感じるくらいに、キャラクターの心の内を考えることに興味がなかった。
本なんてろくに読んがことがなく、背表紙を見ただけでうんざりしてしまう。
そんな自分が何故かその本だけは最後まで読んでしまった。
先が読めぬ展開。独特な世界観。魅力的なキャラクター。
ページをめくる手が止まることはなかった。
夢中になって読み終えて、自分が最後まで本を読んだ事実に驚愕する。
私は本を読むことができるのだなぁと。
当たり前のことなのだが、本は読み続ければいつかは終わる。
最後まで本を読むという行為を忌避していた自分にとって、その体験は驚きに満ちていた。
高校生になって少しずつ本を読むようになった。
文章としての物語に触れたいという気持ちもあったが、それ以上に読みつづければいつかは読み終えるのだと頭の中で理解していたことが大きいと思う。
当たり前のことなのだが。
◇
文章を読むことは、文脈から意味を汲み取って理解し、脳内に情報をインプットする行為だと解釈している。
私は文脈を理解する力が劣っているので、難しい内容だと何度も読み返さないと理解できない。
読みやすく、分かりやすく、伝わりやすい。
そう言う内容の物語でないと理解できないにも関わらず、あえて純文学などに手を出した。
中二病というやつだ。
ハッキリ言って当時読んだ作品の内容なんてほとんど覚えていない。しかし、物語を読み切った時の満足感は今でも覚えている。
山を登った時の感覚に似ているかもしれない。
山登りをしたことがないので、実のところはよくわからないが。
物事を最後までやり遂げることは、とても大切なことだ。
しかし、途中でなげうって逃げ出したくなることも、またよくあることだ。
最後まで読めずにリタイアした作品はいくつもある。
そういう作品は頭の片隅になにも情報が残らない。きれいさっぱり無かったことになる。
最後まで読み切った作品だけが、読み終えた後の充足感と共にわずかな記憶が思い出として私の心の内に残留するのだ。
◇
もしかしたら人生は読書と似ているかもしれない。
この物語の読者は自分一人で、読めば読むほど新しい情報が手に入る。
日付が変わればページがめくれ、小説のように一日が紡がれていく。
空気を読む能力は、文脈を理解する力と似てる。
相手の気持ちを考えたり、協調性を保って行動したり。未来を先読みして計画をたてたり。
まったく苦手な事ばかりで嫌になる。
リアルの生活は空想の物語とは違い、退屈で、冗長で、苦痛に満ちている。
面白い展開なんて何一つない。
この世界は異世界ではないのだ。
だが……本当にそうなのだろうか?
この世界には、思わぬところにドラマが潜んでいる。
自分の体験を誰かに伝えることで、そのドラマは他者に物語として記憶されるのだ。
自分が見たもの、感じたこと、体験した内容を他者に伝え共有することは、とても素晴らしいことだと思う。
退屈で仕方のないこの世界が、他者の共感によって少しだけ面白くなる……はず。
少なくとも私の場合はそうだった。
◇
なろうでエッセイを書くようになって、色んな体験をした。
いろんなものを見た。
もちろん良いことばかりではない。
苦しかったこともたくさんあった。
だがそれ以上に大切な思い出が沢山できた。
自分が過去に体験した出来事をエッセイとして発表することで、投稿したエッセイが多くの人の目に留まり、共感を得ることができた。
今までに体験したことのないことだった。
ふと、エッセイの終わりはいつなのだろうと、疑問に思った。
明確に終わりとしての区切りは、エッセイにはないのだと思う。
あるとしたら書くのをやめた瞬間かもしれない。
書き続ける限り、私の物語は続く。
書くのをやめればそこで終わる。
私はまた書きたくなった。
だからこうして筆を執っている。
幼かった頃の私は、物語の終わりにたどり着くために本を読んでいた。
しかし、今の私は終わりのない物語を追い続けようとしている。
書けば書くだけ続く、私だけの物語。
この物語の結末を、私はまだ知らない。
お読みくださりありがとうございました。