MS08 「すべてこの世はこともなし」
すべてこの世はこともなし。
恋人を作るなんて簡単だ。
出会いさえ見つければれば、あとは流れに乗るだけ。
サーファーが波を愛するように、運命の流れに身を任せていけばいい。
そのきっかけが見つからない? そんなことはない。
世界はきっかけに満ち溢れている。
例えば、そこの交差点に立っている女性。
そう、長いカールした髪の女性。あ、そっちの痩せた三つ編みの女性じゃない。二人ともメガネかけて白のブラウスとスカートを着ているけど、右じゃなくて左の方。
美人だろう?
名前は間宮・響子さんという。年齢は26歳。射手座で、独身。職業はここから2キロ先にある市立図書館の司書。二ヶ月前に彼氏と別れたばかり。タイトなスカートに包まれたヒップラインがたまらない。言っとくけど、あれは下着で矯正しているんじゃないからね。服装は上品だけど彼女、レース編みみたいな下着しか身につけないんだ。色は約八割が黒。最高だね。ちなみに趣味はお菓子づくりで、今日は買い物のついでに、ここの近所に開店したカフェを訪れようとして道に迷った状態。なんで知っているかって? そりゃあ、本人に聞くからね。今から15分後に。
ちなみにその喫茶店は、彼女の背後のビルの三階にある。ネットで紹介されていた写真が一階っぽく写っていたから、見逃したってオチ。もちろん、景色は三階からの方が綺麗だから、後ほど二人で景色を眺めながら、笑い話にするんだけどね。
それ以外にも彼女のことは色々知っている。
住所や電話番号はもちろん知っている。
三年後に引っ越す家の番号も知っている。
なんたって将来、僕が住む家でもあるんだしね。
その他にも色々知っている。
飼っている犬の名前とか(ジョナサンっていう。メスなんだけど間違えてつけたらしい)、その犬が2年後に死ぬこととか、それから半月くらい塞ぎ込むけど、捨てられた子犬を見つけて飼い始めることも知っている。ちなみにその犬の名前はジョージっていう。今度はきちんと性別も確認したよ。
僕ら二人の出会いはこうだ。
今から2分後に彼女は持っている紙袋からオレンジを落とす。
それを僕が拾って渡す。まるでフランス映画のような出会いだね。
ほら、仕立て屋さんの映画がそんな感じだったじゃない。
僕は彼女の持つ紙袋に入っている調理器具……ほら、あれ……湯煎したチョコレートの温度を調節する為にシャカシャカ混ぜるアレ……なんかド忘れした……まあ、いいや、後で聞こう……に注目して、『おかし作りをされるんですか』と尋ねる。
彼女は僕が菓子作りに詳しいことに驚き、そこから会話が始まることになる。まあ、菓子作りに関する知識は全て未来の彼女から聞いて知ったものだけどね。
そうじゃなければ、チョコレートを混ぜるアレの名称とか知っているわけがない。
……でも、なんていうのだっけ。
ああ、テンパリングの時に使うのは「パレットナイフ」か。
「ゴムべら」じゃないの?
あ、いや、忘れて。ちょっと忘れたんだよ。
僕が質問したことも忘れていいからね。
……よし、確認完了。話に戻ろう。
かくして出会った僕らは喫茶店に行き(探していた場所が頭上にあったことで、二人で大笑い)、連絡先を交換し、何度か会うようになり、本格的に交際が始まるわけだ。
この流れは非常にスムーズ。
バスターキートンのコントみたいなものだ。クルクル回って、ゴールに着地。
知り合って半年後には結婚式を挙げた(←ここ、わざと過去完了形ね)。
別に彼女は結婚に焦っていたわけじゃないよ。残りの人生を共に歩むパートナーとして僕を選んでくれたって訳さ。
お互いに仕事と家庭を両立させつつ、幸せな生活を送り、子供も二人生まれる。男の子と女の子が1人ずつだ。二人とも元気すぎるくらいに健康で利発。顔は二人とも彼女似だ。
勿論、家庭を築くのは様々なトラブルが生じる。だが、それも二人で……後半は四人で乗り越えていった。トラブルが起きても、最後は笑顔で終わる。キートンのコントみたいに。……キートンは笑わないけど。
彼女との生活で一つだけ誤算があったんだ。
彼女は一見、真面目で理知的な印象だけど、実は性欲が強くて、奔放なんだよね。さっきも言ったけど、下着はほぼ黒だし、布地の面積は砂漠におけるオアシスより狭い。それを白いブラウスの下に着ているのだからたまらないね。
デートの時には気がついたらホテルにいて、僕の方が押し倒されていた。一度スイッチが入ると止まらなくなるらしい。これまでの彼氏と別れたのも、そのあたりが原因らしいね。これまでの男達は彼女の性欲を受け止めきれなかったみたいだけど、勿体無い話だと思う。確かに第一印象とのギャップは大きいが、いい女が情熱的に求めてくるんだ。誠意を込めてお相手するのが筋というものじゃないだろうか。
そんな訳で結婚前も、結婚後も僕らの性生活は充実していた。困ったのは、彼女がいささか変態じみたシュチュエーションを好むことで、お互いの職場や公共の場所でこっそりと行為に及んだんだ。彼女はそんなスリリングな状況を楽しんでいたけど、警察の厄介になりそうな状況も何度かあったね。まあ、僕が一緒にいるのだから捕まる事なんかないけど。そして、いついかなる時も彼女のお尻は素晴らしかった。どんなに激しく攻めても征服することができないほど豊かに大きく、僕を受け入れてくれる。そして二度の出産を容易にこなした後も美しい形を保っている……。
「ねえ、3人目が欲しいと思わない?」
ベッドに横たわりながら響子さんは言った。雨の日曜日。今日は家で過ごしている。夕食は外に食べに行く予定だが、それまでは特にすることもない。子供達も子供部屋で遊んでおり、僕はベッドに横たわった妻をマッサージしていた。彼女は全裸で、すでに一戦を交えた後だ。雨音がするとはいえ、二階に子供達もいるのだ。子供達が寝てからでも……と言ったが、彼女は先ほどのセリフを言った。
ペースを上げていかないと年ばかり取っちゃうわよ? と。
「このペースなら、サッカーチームができちゃうよ」
僕は片腕で彼女を撫でながら、もう片方でベッド横の引き出しを開けた。
「それもいいわね」
響子さんは微笑んだ。
何らかの第六感か、人類にも未来を見通せる能力が潜在的に備わっているのか、時間軸の一つでは彼女は10人の子持ちになる。少なくとも3人目の子が生まれる時間軸は多い。
……このまま時間を進めていけば、だが。
「幸せね」
彼女は微笑んだ。
そうだね。
僕は引き出しから取り出した拳銃を見つめながら答えた。
そして彼女の後頭部に向かって拳銃の引き金を引いた。
弾丸は僕が持った枕を貫通し、彼女の頭蓋骨の中に突き進んだ。
二階に発砲音が聞こえなければいいな、と思い、それは意味がないと気づいた。
これ以降の時間には何も起こらないからだ。
僕の涙がこぼれる以外は。
時間を戻そう。
将来、僕の妻となる女性の横に一人の女性がいる。同じ交差点で信号待ちをしている女性だ。名前は音無さんという。下の名前は知らない。年齢は彼女と同じく26歳。商社の経理をしている。化粧っ気のない顔でブラウスとスカート姿が野暮ったく見える女性だ。これまでの人生、特にいいこともなかったが、特に悪いこともなく暮らしてきた。地方の高校を卒業後、奨学金を得て大学を卒業。真面目に一人で暮らしてきた。
ここまでは。
この横断歩道を渡った後、彼女の人生は急転する。この10分後、角を曲がった所で交通事故に遭う。高齢者の乗った車が運転を誤り、突っ込むのだ。右手と右足を骨折し、入院する。悪いことは続くもので入院中に医療ミスが起こり、入院が長引いてしまう。それに加えて会社が倒産し、途方にくれた所で同じ病室にいた男に勧誘されて、とある新興宗教に入信。そこからはお馴染みの展開。行き場のない彼女は宗教に身を捧げる、2年後、抜け殻のようになった彼女は教団からも捨てられ、麻薬に手を出すことになる。彼女はその後20年生きるけど、正直、生きている方が辛い人生だと思うね。
まあ、それは彼女の人生だし、僕には何も関係はない。
僕はこの後、オレンジを拾って響子さんと結婚し、音無さんは横断歩道を渡って事故にあう。ただ一瞬、隣り合っただけの二人で、お互いの人生に責任を持つ必要はない。僕が愛するのは響子さんで、その他大勢の人生と運命にまで気を使ってはいられない。
ただ、それが介入された結果でなければ、だ。
見えるかな…音無さんの頭上…5mくらい上…ああ、空間の位相がかなり違うから見えないかな、目を細めると見えやすいんだけど…黒い影みたいなのが見えないかな。頭を左右に降ってみると見えることが多いんだけど…無理か。
実際は大きな虫なのが浮かんでいるんだよ。虫って言っても、無数の黒い蜂の体が混ざり合ったような姿なんだ。表面には人間の唇と歯に似た器官がずらりと並んでいるしね。そこから伸びた薄い羽根を動かして空に舞っているんだ。物理的に飛べるとは思えない姿だけど、それで位相の狭間を漂っているんだ。
そして、黒い触手が音無さんの頭に絡みついて、触手の先端にある長い針が彼女の頭に刺さっているんだよ。
正式な名は僕も知らない。
昔から存在に気付いている人間達は時空を超えて異世界からやってくる奴らを「Q」とか、「来」とか呼んでいるけど、あれはその中でも質が悪い存在だ。あれは人間の時間軸に干渉し、運命を狂わせる。どういう理屈かはわからないが、そこからエネルギーを得ているようだ。僕は奴らのことは「ドリフタ」と名付けている。時間の流れに巣食う害虫どもだ。
音無さんの場合、「本来」の時間軸では事故に会わないし、それ以降に起きる不幸な出来事にも遭遇しない。順風満帆というわけじゃないが、不幸のどん底を味わう可能性は極めて低い。ドリフタが時間軸を歪めなければだ。
寄生虫の中には植物の組織に入り込み、正常な生育をゆがめ、そこでできた瘤の中で栄養を吸うものがいる。こいつらはそれを時間の流れでやっていると思えばいいだろう。極めて単純化した説明だけど、こいつらに関する研究はほぼないので許してもらおう。
さて、こいつの対処法だ。
基本的にこいつらに物理的な攻撃は無意味だ。
たとえ銃で撃っても、時間の流れを予測し、対応もできるので回避されてしまう。僕ほどではないけどね。仮に弾丸が当たっても絶えず発生している位相の揺らぎのために物理的なダメージは全くない。こいつらと同じく位相をずらして活動できる装置でもあれば話は別だろうがね。
だから、こいつらに攻撃を当てるには、奴らの完全に予想外の場所から当てるしかない。こいつらは寄生している宿主が予想外の行動を取るとパニックを起こす。もちろん、こいつらは宿主の時間軸を操っているので、予想外の行動などとることはない。
……普通ならば。
今、響子さんが買い物袋からオレンジを落とした。そのうちの一つが僕の足元に転がってくる。この後、僕がオレンジを拾い、響子さんと知り合いになる。
それが正しい時間軸だ。
愛しい人を傷つけることは、わかっていても躊躇してしまう。
僕はオレンジを握り、渾身の力で響子さんの顔面に投げつけた。
運動神経だけは良いほうじゃないが、この時のオレンジは嫌になるほど正確に響子さんの頭を直撃し、彼女は後ろにのけぞった。そこにいたのが音無さんで玉突き事故のように響子さんの後頭部が音無さんの鼻にぶつかった。
結果として二人は地面に倒れた。二人とも顔を抑えて悲鳴をあげ、横断歩道を渡るどころではない。結果として、二人には新しい時間軸が生まれることになったわけだ。
動揺していたのは二人だけじゃない。音無さんに寄生していたドリフタも体をこわばらせていた。宿主の時間軸に干渉を受けた時、その変異の衝撃は、寄生虫にも伝わるんだ。
ドリフタは悲鳴を上げ、無数の羽をきしませ、バタつかせた。どんな悲鳴かって? 口に見える器官が大きく開閉しているが、音を発する機能はついていないようだ。ただ、腹が立つくらいに傲慢な悪意が空間を歪ませて響いてくる。たまにいるだろ。自業自得なことでも全力で怒るやつ。そんな奴を樽に詰めたら聞こえてくるだろう音だ。
ドリフタは宿主の異変が僕のせいだと気づいたようだ。
どこに感覚器官があるのかもわからない外見だが、敵意をこちらに向けているのはわかる。音無さんから触手が外れ、それが僕に向かって伸びてきた。針がついた先端が細かく振動しているのは、僕が逃げた方向がどの方向でも対応できるようにだろう。
まあ、逃げるつもりはないけどね。
僕は人差し指と中指を奴に向けた。親指は天に向け、薬指と小指は曲げる。要するに指で作る「拳銃」だ。ドリフタにその意味が伝わったかはわからない。ただ、防御するつもりはなさそうだった。物理的な攻撃は効果がないのだから、防御という概念もないのだろう。そうでなければ、あんな風船でできた内臓を合わせたみたいな外見じゃないだろう。
「バン!」
僕がそう叫んだ時、ドリフタは一瞬、体を硬らせた•••気がした。
流石に攻撃を受けるかもしれないという危険性は感じ取れたようだ。そして、僕の行動がただのジェスチャーに過ぎないということも気づいたようだ。
ドリフタは触手を振り上げ、僕に突き刺そうとした。それは的確で正確な捕獲のための動きだった。実に素早い動きだ。
だが、僕はもう撃っている。
ドリフタの体が弾丸に挿し貫かれた。
それはドリフタの真下にいた響子さんの頭部から現れたものだ。
過去から未来への時間の流れに乗って活動しているため、10年後から時間を遡って現れた弾丸はドリフタにも感知することができない。
そしてそれは正確にドリフタの中心部を貫いた。
風船のような器官が音を立てて破裂していく。汚い色の体液が飛び散り、実に見苦しい。体液が地面には落ちず、細かな黒い粒子となって消え去っていくのが救いかな。
それでもドリフタは僕に向かって触手を伸ばした。
往生際が悪い。
その触手を別の弾丸が吹き飛ばした。
「それは息子の運動会で撃った弾丸だよ。100メートル走で1番になってね。とても嬉しかった」
僕の横に別の弾丸が現れた。
「これは娘の誕生日のもの。クマのぬいぐるみをプレゼントしたら、すごく喜んでくれた」
その弾丸はドリフタの体をえぐり、汚い風船が汚く割れた。
そして次々と弾丸が空中に浮かび上がった。
「これは息子が生まれた日のもの、こっちは娘が生まれた時のもの」
「これは家族で行ったキャンプで夜空を眺めた時のもの」
「これはクリスマスにパーティーをした時のもの」
「そして、これが響子さんとの結婚式のものだ!」
本当はまだ無数に弾丸はあったがやめておいた。そこまでの射撃でドリフタは完全に消え去ったからね。文字通り、未来永劫、一切合切、どの時間軸でも奴の存在は消えた。
僕はしばらく空間が修復され、新たな時間軸が構成されていくのを見つめた。ドリフタが介入したせいか、ひどく時空が揺れている。
そして、僕と響子さんとの時間軸が消えていく。僕の記憶もすでに曖昧になってきている。
急激な時空の変動は僕にも影響を及ぼすんだ。
その時、肩をぐいっと掴まれた。強引に方向を変えさせられた先には響子さんの顔があった。相変わらず美しいが、その表情は怒りの炎で包まれている。
「なんなのよ、アナタ。いきなりオレンジを投げつけるなんて!」
「え、ええと、それは•••」
空間の歪みのせいか喋りにくい。決して、僕が普段から喋りなれていないせいではない。
「頭を打って転んじゃったじゃない。おまけにあの人も怪我するところだったわ」
響子さんは音無さんを指差した。
「あ、私は大丈夫です」
「そんこと言っちゃダメよ」
「す、すいません」
響子さんは音無さんに手を伸ばした。これがきっかけで2人は友人となり、その友情は2人がそれそれ結婚しても続いていくことになる。その結婚相手はどちらとも僕ではない。
強制的に縁を断ち切ったせいで、僕と響子さんの時間軸はこれ以降、交わることはない。同じ世界にいても出会うことはない。ただ遠くから存在を確認できるだけだ。
だから、別れる前に何か言っておきたかった。
「あ、あの、。アナタに言っておきたいんです」
「何?」
腕組みしながら響子さんは僕を睨んだ。こういう目も悪くないけど、君にはやはり笑っていてほしい。そう思うと涙が溢れた。記憶も不完全になっているが、それでも僕を優しく受け入れてくれた存在は心に残っている。
「アナタのお尻は最高でした」
次の瞬間、響子さんの平手が僕の頬に炸裂し、僕は吹っ飛ばされた。
気がつくと2人の姿はなかった。
行き先はわかっている。音無さんがカフェの場所を知っていたので、響子さんとそこに行ったのだ。追いかければ、会えるんじゃないかと思うけど、それはできない。
だから、立ち去ることにした。
••••••••••••••••••••••••••••••<時間の経過を表す線>•••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••
「新しい出会いを見つければいいんだよ。だって、恋愛なんて簡単なんだから」
バーで出会った男はそう言った。
バーと言っても駅前にある居酒屋に黒いペンキを塗って誤魔化したような場所だ。その男はハイボール一杯を持ってグダグダと話しかけてきた。
なんでも自由に時間と平行世界を行き来して、未来を見通せるらしい。だったら、もっとましな身なりができるだろうと思ったが、可愛そうなので黙っておいた。服は古ぼけているし、靴もすり減っている。顔立ちは悪くないが、視線が常にフラフラと彷徨っているのは大きなマイナスポイントだろう。そして左頬には叩かれた跡があった。
えらく落ち込んだ様子だったので一杯奢ることにした。
それで奴の話を聞き流していたのだが、話が進むにつれ、別の場所にいる気分がしてきた。奴と共に時間を移動して、ある交差点にいた…気がした。
そこでの奴は姿勢も視線もフラフラとはせずにしっかりと立っていた。
ただ、周りの時空が大きく歪んでいた。
まるで巨大な万華鏡の中心にいるように、奴を中心に世界と時間が渦を巻いていた。
「だから、立ち去ることにした」
奴の言葉で我に返った。
気がつくとバーにいて男はハイボールをチビチビと飲んでいた。
ハイボールはほとんど減っていないが、酔いはかなり回っているようだった。
「すべてこの世はこともなし。世界の平和に乾杯だ」
そう言って男は寂しげに微笑んだ。