彼岸帰航
気が付くと死んでいた。
落日の空を眺めながら、寺子屋から帰ってくる曾孫たちを待ち、縁側で息子嫁の淹れてくれた茶をすすっていたはずだったのだが、
―― 秋の風が心地良くて、うっかり逝ってしまいましたねぇ。
死んでいると気付かれていないかもしれないのが少し気掛かりだが、あの家族のことだ、きっと「穏やかに逝った」と泣いて笑ってくれるだろう。
今朝、みんなにあいさつをしておいて、そして一足先に旅立った妻の仏壇に手を合わせておいて本当に良かった。そう思いながら、彼は眼前の川を見渡す。
乳白色の霧に包まれた三途の川は、彼に彼岸を見せてはくれない。生前行った徳の量によって三途の川はその幅を変える、そのように聞いていたが、
―― 長生きしすぎると悪徳も比例して増えますしね。
一抹の不安を抱きながら、幽霊装束の懐を探る。そこには白い紐で括られた、5つの穴あき銭の束があった。
それらを合計すれば結構な金額になりそうで、彼はホッと息をつく。渡し銭の不足で渡河の途中に船から落とされる心配はなさそうだ。
―― 別の理由で落とされるかもしれないですけど。
思い、彼は小さく笑った。
少し気持ちに余裕が出来た彼は、幽霊にも足はあるんだな、などと思いながら、賽の河原を散歩して船頭死神を待つことにした。そういう約束をしていた。
河原には、積み上げ、そして失敗したような石の塔が点在している。
彼は、この塔を積み上げていたであろう子どものことを思う。
―― 一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、ですか。
その子は何のために石を積み続け、そして餓鬼共にその否定を繰り返されていたのだろうか。
その子は彼岸に渡ることができたのだろうか。はたまた、自らも餓鬼となりを変えてしまったのだろうか。
『餓鬼ってのは鬱陶しくて、面倒臭いけど、あいつらなりに正しい道を示そうとしてるんだよ。その方法を知らないだけで』
酒を煽りながら赤毛の少女が語った言葉を思い出す。
『自分が彼岸へ着けなかった苦しみ、悲しみ、憤り。それをみんなひっくるめた激情で餓鬼共は石塔を壊す。そんなことをしても彼岸には行けない、それを伝えるためにね』
ならば、
―― どうしたら餓鬼たちは報われるんでしょうか。
彼は少女にそう問うた。
その問いに、少女は面食らったような顔をしたあと、陽気に笑って酒を飲むだけだった。
ただ、彼女は本当に楽しそうに杯を煽っていたのだった。
少女の笑顔を思い出し、血の通わないはずの頬に熱を感じた彼は、
―― 年甲斐もなく。
独り、はにかんだ。
待ちに待っていた時なのか、願わくば訪れてほしくなかった時なのか、よくわからない。
あたいにだってそういう時はあるさ。
川縁に船を着けた少女は、あの頃と替わらない姿で、昔と同じように笑っていた。
「すっかり老けたねぇ」
―― 大分長いこと生きさせていただきましたから。
「んでもって日向ぼっこしてたらぽっくり来ちまったのかい。あんたらしいったらないね」
頬のえくぼを深くした死神の少女は、右肩に担っていた死神「らしい」模造鎌を彼の足下に差し出した。
「乗りなよ、御老体」
―― お言葉に甘えます。小町さん。
少女、小野塚小町と過ごした日々よりも、ずっと動かせなくなってしまった足を、刃の付いていない鎌の上に乗せる。
小町は軽々と彼ごと鎌を引き上げ、船の上に下ろす。
人とそうでない者の違い、今更気にするようなことでもない。
―― 私も人間ではなくなってしまいましたけどねー。
木造の小舟にゆっくりと腰を落とす。
以前見た時よりも幾分黒ずんでいるようだった。
「だすよー」
小舟の舳先を三途の川へ向け直し、鎌を櫂に持ち替えた小町が元気に言う。
近所に散歩へ行くような、寺子屋へ送り出した曾孫たちと同じような明るい声だった。
嬉しいのか、悲しいのか。
楽しいのか、苦しいのか。
分からないから、明るくいよう。
いつものように。
小町の話によれば、彼岸に着くまで、そう時間はかからないそうだ。渡し銭もかなり余ってしまうらしい。
「意外と善行積んでたんだねぇ、悪い男だと思ってたのに」
不満そうに口先を尖らせながら彼女は言う。
―― 私もそう思ってましたよ。
彼も残念そうな声色を混ぜた声で応えた。小町と話せる時間はそう長くはない。
雰囲気を変えるように、からかう調子で小町は笑う。
「何人の女を泣かせたのかも分からないのにねぇ」
―― 一人だけです、きっと。
「あぁ、そうかい」
思いがけない返答だったのか、小町は目をパチクリさせた後、笑い顔に少しだけ苦いものを混ぜた。
そして、彼をちらりと見遣り、一度深く呼吸をして再び口を開く。
「どうだった? あんたの人生は」
―― とても楽しかった。多分。
自らの歯切れの悪さに彼も苦笑しつつも、以前とは違う応えが出来たことに満足していた。
友に恵まれ、妻に愛され、子を愛した。小町に出会わなければこんな人生を送ることは出来なかったはずだ。
だから、
―― あなたに会えて本当に良かった。
それを言葉を聞いた小町は櫂を動かす手を止め、くつくつと笑う。
「何言ってんだい、あんたから会いに来たくせして」
死んで早々墓穴を掘った、そう思いながら彼は血の通っていない頬を再び紅潮させた。
―― 言わないでください。恥ずかしい。
「誰に聞かれるわけでもあるまいに」
それに、と彼女は続ける。玩具を見つけた子猫のような瞳だった。
「あたいにだってこんくらいの権利はあるだろ」
にやりと口の端を上げる小町に、彼は言い返すことが出来ない。
「外の世界から幻想郷に迷い込んで、真っ先に三途の川渡ろうとしたじゃないか、あんたはさ」
ちっぽけな絶望だとあたいは笑った。
ちっぽけな希望だとあたいは笑った。
足して引いたら何も残らないけど、それでもあんたはまた生きてみることを選んだ。
それが、ちょっとだけ嬉しかったんだ。
気が付くと死んでいた。
そう思えたのは、自分が古めかしい幽霊衣装に身を包み、霧に包まれた川を渡る小舟に乗っていたからだ。
その小舟を櫂で漕いでいるのは、赤毛の少女だった。彼女は鼻歌交じりに腕を動かす。
しかし、彼が目を覚ましたのに気付いたのか、鼻歌を止め、
「やっと起きたかい、お兄さん」
少女は影のない笑顔を向ける。
「よっぽど死にたかったんだねぇ、船に直接乗ってくる死人なんて見たことも聞いたこともなかったよ」
お陰で昼寝も出来なかった、と彼女は付け加える。
彼は何と応えれば良いのか分からず、
―― えぇ、あの、すみません。
「まったくだよ。渡し銭はほとんど持ってない、川幅は広い、オマケに本人は出航しても目を覚まさない。あたいの昼寝を邪魔したくせに」
呆れた顔でそう言う少女は、その言葉ほど怒ってはいないようだった。
櫂を小脇に挟み、彼女は彼と対面するように小舟へ腰を下ろす。
「ただ問題があってね。お兄さん、このままじゃ渡し銭が足りなくて彼岸に連れていけないんだよ」
―― えっ?
「そうなると途中で悪龍の泳ぐこの三途の川に落とすしかなくなっちまう。困ったねぇ」
全然困った風ではなかった。
彼女が言うには、もし悪龍に呑まれようものなら、地獄煉獄よりもずっと辛い目に遭うらしい。いまだに死んだという実感は薄いが、なるべくなら苦行の類いは避けて通りたい。
―― そうならないようにする方法はないんですか?
じゃあさ、と少女は目を弓形に細める。
「お兄さんの話、聞かせてよ」
何故聞くかって訊かれたら、『仕事だから』答えるだろう。楽しいしね。
善人の話には含蓄がある。
悪人の話には諧謔がある。
じゃあどちらでもないヤツはどうだって?
何もないから楽しいんだよ。
小野塚小町と名乗った死神の少女は、何の中身もない彼の話を、時々相槌を打ちながら楽しそうに聞いていた。
彼はそれを不思議に思いながらも、何も無いなりに話を続ける。
―― 学校でも目立たないほうで。目立たないようにしてて。俺はただ何となく生きてて。
「『ガッコウ』って寺子屋のことだろ? お兄さんホント地味っぽいしねぇ」
からからと小町は笑った。
どれくらいそうしていただろうか、川の半ばまで来たかどうかも分からない場所でとうとう彼の話の種が切れる。
今、自分が何故ここに居るかくらいしか、話すことがなくなってしまった。
―― ふと思ってしまったんです。何もない俺なら、消えてしまってもいいのかなって。
その瞬間、彼は全く知らない世界にいた。
騒音のない世界、淀んだ空気のない世界、人工の光が見えない世界。
怖いほどの静寂に包まれた世界。澄んだ空気が肺に痛いくらい滲みる世界。吸い込まれそうな星空が広がる世界。
そのすべてが恐ろしく、美しいと思い、そして彼は水底に沈んだ。
「『死にたい』じゃなくて『消えたい』だったんだねぇ。だから船に乗るのも急いだのか」
小町は頬杖をついて、ちっぽけな絶望だね、と呟いてからにんまりとする。
「死ぬのが目的だったら、三途の川に着いた時点で目的達成してるしね。お兄さん、消えちゃいたかったのか」
―― そうかもしれません。
「でも幻想郷は綺麗だと思ったんだ」
―― そう、かもしれません。
小町から聞いたあの世界のことを思い出す。いたのはほんの一瞬だけだったが、そのイメージは鮮烈に彼の目に焼き付いていた。
だったら、と小さく息を吐いた小町は面白そうに口角を上げた顔のまま言う。
「ちょっと勿体無い」
―― どういうことですか?
「生きれるよ、まだ」
―― 生きれる…?
「そう、生きれる。この川を渡るための時間は、現実にしてみたらほんの一瞬でしかないからね。お兄さんが戻りたいって本当にそう思うなら、まだ間に合う」
ちっぽけな希望だけどね、と茶化すように小町は付け足した。
―― 俺は…。
決めあぐねていると、死神は櫂を手に立ちあがる。
「お兄さんが決めることだよ。あたいら死神には生きようが死のうが、あんまり関係ない」
ただね、
「どうだった? あんたの人生は」
言葉を紡ぐ彼女の表情は、相も変わらず、明るかった。
自らの生に満足していなかったことを、死人に気付かせるのは辛い。
でもそうしなければ、彼らは次の生も全う出来ない。
だからあたいたちは笑ってるんだ、いつだって。
彼は生きることを選んだ。
空っぽのままで生を終えるのは嫌だった。まだ生きることに満足していなかった。それに気づいてしまったから。
しかし、
「生き返ろうとしたは良いけど、それからだって大変だったねぇ」
―― 本当にご迷惑をかけました。
彼は此岸に還り、自らの身体に魂を戻したが、肝心のその身体は湖の冷たい水底に沈んだままだった。
完全に溺死してしまっては元も子もない。水中でもがく彼を陸まで引き上げてくれたのは、他ならぬ小町だった。
「おまけに人工呼吸と心肺蘇生までさせられて。死神が人命救助とは何事だい」
小町はただただ面白そうに言うが、彼は顔を上げることができない。
「上司に散々説教されたよ。『越権行為です』ってね。まぁ確かにあたいの仕事ではなかったけどさ」
―― なんで助けてくれたんですか?
「昔と同じ質問するんだね。何となく、だよ」
乗り掛かった船だしね、と彼女は付け加える。
小町は櫂を船底に置き、彼と向かい合うように腰を下ろし、白く長い指で透明な水面を撫でた。
「質問と言えばさ、覚えてるかい?」
―― 何をですか?
「餓鬼はどうすれば報われるか、って話」
彼女は川の上を滑らせていた指を、飛沫が飛ぶようにばしゃばしゃと遊ばせる。
彼には視線をやらず、滴る水滴がつくる波紋と飛沫を、目を細めて眺めていた。それは笑顔ではなかった。
「あんたは幻想郷で暮らし始めてから、あたいに此岸彼岸、生死輪廻について色々訊きたがったろ? その一つさ」
―― 覚えてますよ。
石塔の立っていた岸の方を振り返り、彼は言う。
―― あの質問だけは答えてもらえませんでした。
「仕方ないだろう。あたいだって分からないんだから」
少し恥ずかしそうに小町は再び笑うと、また水面を撫でた。
―― 今も、ですか?
「今も、だよ。だからあたいもあんたに訊きたい。どうやったら餓鬼共は報われるんだと思う?」
小町の視線は飛沫と波紋にだけ注がれ、彼に向くことはない。
その両目で何を見なければいけなかったのか。
その両耳で何を聞かなければいけなかったのか。
彼の想像が及ぶところではなかった。
だが、彼の口は言葉を紡ぐ。
―― 誰かが手を引いてあげれば良いと思います。
「餓鬼の手を?」
彼は首を縦に振る。
―― 苦しくて、悲しくて、どうしようもなく憤ってるなら、誰かが無理矢理にでもその手を引っ張って気付かせれば良い、そう思います。
餓鬼の後悔を受けとめる『誰か』がいる。それを教えられたならば。
餓鬼の無念を笑い飛ばす『誰か』がいる。それを伝えられたならば。
―― 次の命を精一杯生きたいと思わせてくれる『誰か』がそこにいたならば、きっと。
その続きの言葉は飲み込んだ。
「難しいことを言う。完全に死神の仕事から外れてるよ」
小町は指先でぐるぐると川をかき混ぜる
「覚えてるかい?」
彼女は繰り返した。
「あたいたち船頭死神の仕事をさ」
―― 覚えてますよ。
彼も繰り返した。
「あたいたちはお客の話を聞いて、彼岸に渡すだけ。その手を引くことは仕事に含まれない」
―― でも、禁止されてるわけでもないんでしょう?
「口が達者だ」
―― 貴女が俺の手を引いてくれたからですよ。
小町は目を丸くした後、心底楽しそうに水面を叩いて笑った。
涙を流し、空いた左手で腹を抱える。
しばらくそうしていたが、少し落ち着くと、目尻を拭って彼のほうを向いた。
「今のあんた、少しだけ若い頃みたいだったよ」
―― ありがとうございます。
小町が息を整えるように深く息をする。
「ねぇ、もう一つだけ訊いていいかい?」
―― なんでしょう。
数瞬、間があった。
「なんであたいのことを愛してくれたんだい?」
―― 私がガキだったからです。
はにかむようにして彼は笑う。
「そうかい」
小町も同じようにして笑った。
笑えて良かった。
こんな時、切なさはいらないから。
―― お世話になりました。
彼は小舟を降り、彼岸の河原に立っていた。深く小町に頭を下げる。
「あぁ、本当にね」
小町は笑顔で小舟の舳先に立ち、それを見ていた。
「あたいのことが大好きな閻魔様にこっぴどく説教されるが良いさ」
―― 小町さんが言うと現実味ありますね。
うるせぇやい、と口先を尖らせた彼女は、肩に鎌を担って、また笑った。
そして、それに瞳に少しだけ影を混ぜ、言う。
「ねぇ、好きだったよ」
―― えぇ、好きでした。
「逝ってらっしゃい」
―― 逝ってきます。
大丈夫だよ。
今は泣いても、すぐに笑うさ。
そして、手を引くから。
大学生の頃(10年以上)に、友人にお題を出してもらって書いた作品です。
その友人がTaNaBaTaという音楽サークルが好きで、そのサークルの「落日」という曲をテーマにして一作書いてくれないか、という依頼でした。
全然落日の描写入れてませんが。
友人も気に入り、私も結構好きな作品となりました。
もし読んでくださる方がいらっしゃれば、是非TaNaBaTaの「落日」を聴きながら読んでいただければ幸いです。