StreetYze
“ミス・フィッツ”と俺が呼んでいた看板の女が死んだのは旧正月のことだった。
通りにずらりと並んだ浮遊LED倒福の傍ら、ばらばらになった投射スクリーンの破片は道路にまで及び、それは明らかな“死”の印象を俺に与えたのだった。
彼女が死んだのは、雨の降る夜だった。
その時、路地にいた俺は夢を見ていた。“ミス・フィッツ”が俺を呼ぶ夢だ。次に大きな金音がした。それは現実の音だった。急いで路地から出ると、彼女の死体が散らばっていた。
「デーノー。用がないなら帰れよ」
制服警官が呼ぶ。雨は止んでいた。
デーノー。誰のことだ? 俺のことだ。
ミス・フィッツには“あなた”としか呼ばれなかったから、自分の名前をすっかり忘れていた。
「誰がこんなことをしたってんだよ、だってこれはほら……。酷すぎるだろ」
俺の口はそんなことを喋った。いつも俺の喋る言語は、思考の中の言葉よりも少し馬鹿っぽく聞こえる。
「酔っ払いか、自分は社会からいつでもはみ出せるって誇示したいガキか。片付けるからどいていろ」
すぐにリフトが来てひしゃげたモニターの枠を持ち去って行った。葬儀はもちろん行われないだろう。
「犯人は、犯人は捕まえるって話になるんだよな?」
俺が訊くと、警官は面倒そうに首を振った。
「デーノー、お前なんだってそんなにこのホロ広告を気にしている? もちろん器物破損だから容疑者がいれば逮捕する。だが別に……」
警官はその先を続けなかった。急に俺とやり取りするのが阿呆らしくなったというような風だった。
「だが別に、何だって言うんだよ」
「いや。ただ、まだ捕まっていない無差別銃撃犯もいるのに、こんなことにわざわざな」
「こんなことって何だよ。それは、言えよ」
警官はその質問には答えず、そのままパトロールカーに乗ると無音の赤色灯をつけた。ボンネットについた雨の水滴の、その中の無数の俺が俺自身を見つめ返し、問いかけていた。
お前はどうする?
この街でミス・フィッツを悼み、彼女の無念を晴らせるのは俺くらいだろう。
俺はすぐに寝床に戻って武器として選んだ塩ビ管を取り出すと、それに砂を詰めてから捜査を開始することにした。
現場に戻ると、とっくにそこは何事もなかったかのようになっていた。ホログラム規制線も片付けられていた。水たまりでさえそっくりそのまま、素知らぬ顔を決め込んでいた。俺はそれが何より憎らしかった。近くをのんびり掃除しているロード・ウォッシャーを腹いせに蹴ろうとしたが、そこでふと考えついた。
まずは目撃者探しといきたかったが、そもそも彼女が壊された時間さえもわからなかった。だが、このロード・ウォッシャー(LW)が第一目撃者なのではないか?
俺は屈み込むと、LWの背面のパネルのエラー報告履歴を検索した。パスワードは交通局の職員が打ち込んでいるのを前に見たことがある。そいつは寝起きの俺が見ていることに気づいていないようだった。それか、別に俺が見てようがどうでもよかったのかもしれない。
とにかく、この道路上に撒き散らされたエラー……つまり障害物の直近のスキャンは深夜2時ということがわかった。俺の寝ていた時間だ。2時13分32秒に最初の障害物スキャン。その15秒後、より広範囲に道路に小さな障害物が撒き散らされる。つまり、犯行はその間に行われている。
俺は、その場面を想像する。
−−ミス・フィッツは、近づいてくる人影に声をかける。俺にするよりもいくらか事務的に。それが彼女の仕事だからだ。
ネオ・カンクンへの旅行を勧めようとした矢先、犯人は不明な凶器で彼女の投射スクリーンを粉々に打ち砕く。ミス・フィッツはやめてと懇願しただろう。だがしかし犯人はそれを聞き入れず、15秒後にもう一度なんらかの手段でミス・フィッツのフレームごとプロセッサを叩き壊す。その際、更に破片が道路にまで飛び散る。LWがそれを感知。
彼女は死ぬ。
しかし何だって犯人はミス・フィッツを叩き壊したのか。彼女は無害な、ただ毎日24時間仕事をしていただけの女性だ。警官が言ってたように単に酔っ払いか、どこかの子供の仕業なのかもしれない。動機のない殺人。それは余計腹立たしかった。そのものの真の価値の分からない人間が、簡単にそのものを踏みにじるというのは。
俺はある冬の夜のことを思い出していた。その夜もまた、雨の降る夜だった。俺の身体を冷やし、耐え忍ぶ一秒を永遠に感じさせるような。そんな夜でも、“ミス・フィッツ”は俺に話かけてきてくれた。
「寒い夜ですね。でもここから暖かいネオ・カンクンまでは一時間で行けますよ!」
俺はそうだな、と呟くと、ビニールシートを彼女のフレームにかけた。彼女もまた寒そうに見えたからだ。相変わらず雨は冷たかったが、その一秒は苦痛ではなかった。
俺は頭を振ると、物思いを断ち切った。捜査に集中しなければ。
次に俺が知りたかったのは凶器だった。傷害事件において警官は凶器を探すという。それは、凶器というのが犯人をやがて結びつけるからだろう。
しかし、これが意外にも難儀した。本当に酔っ払いや子供の仕業なのか怪しいと俺が疑いだしたのはここからだった。もしそうであれば、適当に選んだ凶器(俺は鉄の棒のようなものを想像していた)を、ことが終わった後に適当にその辺に放っておくだろう。だが、犯人はそうしなかった。これはどうにも臭かった。
第二の目撃者探しで、俺は近くの路地の監視カメラに目をつけた。ミス・フィッツそのものは画角に入っていないだろうが、犯人は十分に映っている可能性があった。
「監視カメラを見せて欲しいと言ったら俺は何か、どうしたらいいだろうか」
俺がこのような言葉で監視カメラのオーナーである電気屋の親父に尋ねると彼はこう答えた、お断りだね、と。
「お前みたいなのを店にあげるのも御免だね」
電気屋の親父はそんなことさえ付け加えてきた。
「ここが本当に電気屋なのかというとそれは怪しいと思ってる、俺は。見てたら、奥にあるだろう。その、違法なものが。銃とか、それに近いものが」
これを言うと親父はぎよっとしたようだった。
「お前、漁ったんだろ。うちのゴミを」
俺はこれには答えなかった。しばらくお互いに沈黙していたが、黙って店の親父は奥へと案内してくれた。彼の予想は正しく、以前に俺がこの店の廃棄物を調べているとき、バラバラに破かれた弾薬箱の欠片が出てきた時があった。Aクラス政府職員以外の者の銃器弾薬類の所持は、最低でも三年の刑だ。売買するための違法所持なら、その倍は貰うことになる。
予想に反し、店のカメラには何も映っていなかった。そのカメラは入り口近くしか映しておらず、店に出入りする者だけが早送りされてゆく。いかつい顔をした男が手ぶらで入って、長い箱を抱えて出てくる。これがこの店の“顧客”の一人なのだろう。
犯行の時刻になっても、結局カメラから何の手がかりも得られなかった。
「もういいか」
店主の親父に言われ、俺は頷いた。
「二度とうちの店に近づくなよ。これはお前のためでもある」
俺はこの言葉にも素直に頷いた。
手がかりを得られないまま通りを歩いていると、短いサイレン音がしたので顔を上げた。目の前にパトロールカーが停まっていた。
「デーノー。お前何してる?」
警官が窓越しにそう尋ねてきた。昨日少し喋った男だった。
「なんにも。いや、なんにもだよ」
俺がそう答えると警官は疑り深い目でしばらく俺を観察してきたが、やがて諦めて前を向いた。
「デーノー。最近、お前みたいなのを痛めつける輩が出没してる。気をつけろよ」
「なんでだって俺みたいのを? 何も金目のものなんかありゃしないってのに」
「目的が金目のものじゃあないからさ。暴力そのものが目的。そういうことでしか発散できない輩なんだよ」
「奇妙な奴もいるんだな、変な奴」
そこで少し間を置き、警官は俺の目の前にタブレット端末を差し出してきた。そこには男のモンタージュが表示されていた。
「こいつだよ、その変な奴は。見かけたら、気をつけた方がいい」
俺はその顔にいやに見覚えがあった。つい最近、どこかで見た顔だ。だが、どうにも思い出せなかった。
「気をつけるよ、うん」
俺はそうとだけ言ってパトロールカーから離れた。警官はしばらく俺の方を見ていたが、前を向き直し、そのままアルマ・エンジンを吹かして去っていった。
俺は現場に戻った。そこには、新しい“ミス・フィッツ”がいた。もう既に広告会社は替えを用意していた。
「ねぇ、あなた。ネオ・カンクンまでは軌道シャトルで一時間。今なら七十連合ユーロで楽園までひとっとびできるわ」
俺は手を払い、新しい“ミス・フィッツ”を追い払った。俺がそんな金を持っているかどうかもわからない、パーソナライズ・センサーですら搭載していない安いホロ広告。それが“ミス・フィッツ”の本質だった。俺にさえどうにもできない、純然たる事実だった。
しかし、今や誰も俺のことを気にかけないこの街で“ミス・フィッツ”……彼女は唯一、俺に話しかけてくれる存在だった。それが単なるホロ広告であろうと、この街に他に同機種が千八百台設置されているモデルだろうと、“先代のミス・フィッツ”は俺にとって特別な存在だったのだ。
「では次のニュースです」
“ミス・フィッツ”が急に消え、テレビ番組に切り替わったので俺は驚いた。新しく設置されたものには、街頭モニターの役割もあるらしい。
「イースト・フォートの無差別銃撃犯の映像が公開されました。録画を妨害するザッパー・マスクを取った瞬間を宅配ドローンが偶然にも映像に残しており……」
俺はそこで初めてこのニュースを見たが、犯人の顔を見て全てが繋がった。“ミス・フィッツ”殺しの犯人がわかったのだ。
深夜二時。
寝ぐらにしている路地に足音が近づいてくる。
「お前だな」
男に訊かれ、俺は身体を起こし、あくびをした。
夜も遅く、周囲に人通りはない。
「あんた、なんだ、誰だい」
俺が訊いても、男は何も答えない。男の中でさっきの問いかけの答えは出ていたのだろう。
暗がりの中から出てきた男の顔には、つるりとした白色無地のマスクが付けられていた。マスクから微かにモスキート音がする。ザッパー・マスクだ。
男は懐からナイフを取り出す。
俺は刃渡りのあるナイフをただ見つめた。路地は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
最初の一言以外に何も言わず、どんどん男は俺の方に近づいてくる。そのまま体重をかけたナイフをそのまま俺に刺そうとした。
その瞬間、静寂を破って甲高い音が響き渡り、路地は赤一色に染まった。
「警察だ、武器を捨てて投降しろ」
路地の両側で、5.56mm再生資源弾を込めたカービン銃を持った警官たちが男を狙っていた。
「ユーヴ・ケイソン。イースト・フォートにおける十二件の殺人容疑で逮捕する」
警官たちが素早く取り囲み、男からナイフとマスクを剥ぎ取った。出てきた顔は、俺がニュースで見た銃撃犯の顔……そして電気屋の監視カメラで見た男の顔だった。
「お手柄だな、デーノー。まさか本当に……」
後ろで待機していた、前に話した制服警官に声をかけられた。俺は頷いた。彼の協力がなければ、俺は男を罠にかけられなかっただろう。
ニュースを見た時、彼がタブレットで見せてきたモンタージュ……それも銃撃犯の顔と酷似していることに俺は気づいた。彼にそのことを伝えると、彼は組織にかけあい、今回の大捕物の段取りを立ててくれた。“ミス・フィッツ”以外にも、この街には俺のような男の言うことを聞いてくれる者がいることが今回、わかった。
俺のような者たちを襲っている男……そいつが狙っているのはまさに俺だったのだ。電気屋から銃を購入して出てきたところを、ゴミを漁っている俺に見られたと思ったのだろう。実際には俺はよく見ていなかったが、それでも勘違いした男は銃撃事件の後で目撃者の口封じをしようと思ったのだ。だが、肝心の俺に辿り着くのは困難だった。彼のような者からしたら、俺みたいな者を見分けるのは難しい。そして俺を始末するより先に、ついに俺に銃撃犯だと結びつけられてしまった。
しかし、俺には腑に落ちていないことがひとつあった。“ミス・フィッツ”を殺したあの晩、男は確かに俺に近づいていた。いや、あの晩、あと一歩で俺を殺せたはずだ。なのに、なぜそうしなかったのか? 代わりになぜ、ホロ広告を破壊したのか?
俺はそれを訊こうと思ったが、パトロールカーに引きずられていく男の悪態がそれを中断した。
「くそ! あのバグったホロ広告! ふざけるな!」
その言葉に、俺は思わず身を乗り出した。
「そのホームレス野郎を殺そうと路地に近づいたら……あのホロ広告が何回も旅行を勧めてきやがった! 周りに聞こえるような音量で! ずっと俺の前に出てきやがって、クソ、そうじゃなきゃ今頃……」
警官がうるさいぞ、と男を怒鳴りつけた。男はそのままパトロールカーに乗せられた。
「だからな、ぶっ壊して……」
防弾ガラスが、男の声を遮った。
俺は、“ミス・フィッツ”が殺された夜のことを思い返していた。
俺はあの夜、夢の中で“ミス・フィッツ”に呼ばれた気がしていた。
だがそれは間違いで、きっと彼女は、本当に俺の名前を呼んだのだ。
(終わり)