7の27「リーンと育児」
リーンの術の発動から、八ヶ月が経過した。
世界樹の迷宮15層。
赤肌の民の村を、ニトロが訪れた。
リーンの自宅の庭。
彼女はそこで、安楽椅子を出してくつろいでいた。
ニトロは彼女の前に立ち、紙束を差し出して言った。
ニトロ
「どうぞ。今月の報告書です」
リーン
「ありがとう」
リーンは椅子に座ったまま、紙束を受け取った。
彼女は長い間、真珠の輪のリーダー的存在だった。
そんな彼女が、クローンを妊娠したことで、一線を引くことになった。
べつにリーン自身は、妊娠をつらいとは思っていない。
だが、万が一の事が有っては困る。
周囲がそう配慮した結果、リーンは長い休暇を取ることになった。
それによって、真珠の輪による魔族への弾圧は、勢いを弱めることになった。
魔族は世界中に居る。
王都の人族は、魔族に対して優勢を保っている。
だが、真珠の輪の魔手も、世界の裏側にまでは届かない。
魔族が人族より幅を利かせている国も、少なくは無かった。
ブラッドロード商会の本拠が有る魔国などもその一つだ。
そして魔国には、リーンに匹敵する力を持つ魔王が居る。
真珠の輪が総力をあげても、魔国を滅ぼすのは簡単では無いだろう。
神の力が無くては、人族の世界を作るなど不可能だ。
結局のところ、真珠の輪の活動などは、世界を変えるようなものでは無い。
大がかりで悪趣味な、娯楽のようなものだ。
神の復活は、全てに優先する。
リーンたちはそれを理解していた。
なので、真珠の輪の活動が多少弱まろうが、それを気に病むことも無かった。
とはいえ、組織としての体裁を保つには、最低限の活動は続けていく必要が有る。
そのために、ニトロはリーンが行っていた仕事を、何割かは引き受けることにしていた。
リーン
「……痩せたわね。あなた」
リーンの瞳に映ったニトロは、前に見た時よりも、痩せているように見えた。
顔色も、以前より悪く見える。
別に何事でも無い。
そう言いたげに、ニトロは薄く笑った。
ニトロ
「あなたが私をこき使うからですよ。それより……」
ニトロ
「だいぶ大きくなりましたね」
ニトロの視線が、リーンの腹へと向かった。
妊娠八ヶ月の腹は、はちきれんばかりに膨れていた。
リーン
「セクハラよ。それ」
ニトロ
「えぇ……」
リーン
「……あなた、護衛の聖女はどうしたの?」
ニトロが供を連れていないことに気付いて、リーンはそう尋ねた。
世界樹の迷宮の魔獣は強い。
元々はラビュリントスの魔獣も、同程度には強いものだ。
だが、聖女が鎮めることによって、凡人でも戦えるレベルになっている。
世界樹の迷宮には、聖女の力は働いてはいない。
常人が足を踏み入れれば、あっという間に八つ裂きにされてしまう。
それほどの危険地域のはずなのだが……。
ニトロ
「一人で来ました」
事もなげに、ニトロはそう言った。
ニトロ
「世界樹下層の構造にも、慣れてきましたからね」
リーン
「今のレベルは?」
ニトロ
「118ですね」
リーン
「へぇ……」
レベルというものは、ただ戦っていれば上がっていくものではない。
魔獣の強さとレベルは、実は正比例の関係には無い。
レベル1の冒険者がレベル1の魔獣を倒す。
レベル50の冒険者がレベル50の魔獣を倒す。
この二つでは、後者の方が圧倒的に難しい。
強い魔獣に立ち向かおうと思えば、最終的には個人の才覚が重要となってくる。
レベル100を超えたニトロの才覚は、並大抵では無い。
リーン
「聖剣さえ無事なら、あなたが邪神殺しの英雄になっていたかもしれないわね」
ニトロ
「ただの子悪党ですよ。私は」
ニトロ
「何かを成し遂げるような器ではありません」
リーン
「そう」
リーン
「才能が有っても、覇気が無くてはね」
ニトロ
「私とは、いちばん縁遠い言葉です」
リーン
「しゃっきりしなさい」
ニトロ
「こう見えて、多少はやる気を出してきた所ですよ」
リーン
「そう?」
ニトロ
「いつまでも、娘になさけない顔を見せていられませんからね」
リーン
「そういえば、あなたにも子供が居たのね」
リーン
「……どんな感じかしら? 娘が出来るって」
ニトロ
「ずっと独身だったんですか?」
リーン
「私ね、女の子が好きなのよ」
ニトロ
「なるほど」
リーン
「大昔には、私にも好きな人が居てね。だけど……」
ニトロ
「死に別れましたか」
リーン
「ええ」
リーン
「敵だったから、殺したの」
ニトロ
「それは……」
リーン
「味方に裏切られて傷ついていたところを、なぶり殺しにしてあげた」
リーン
「悲しかったけど、興奮したわ」
ニトロ
「ちょっと理解できないですね。それは」
リーン
「そうでしょうね」
リーン
「異性愛者には、同性愛者の気持ちなんて分からないわ」
ニトロ
「いや……」
リーン
「何よ?」
ニトロ
「別に」
リーン
「それで、どうなのよ?」
ニトロ
「何がですか?」
リーン
「娘さん。可愛いんでしょう?」
ニトロ
「そうですね」
ニトロ
「一時は殺してやろうと思った時期も有りましたけど」
リーン
「……頭おかしいの?」
ニトロ
「あなたほどでは無いです」
二ヵ月後。
リーンは無事に、トルソーラの転生体を出産した。
ニトロは出産祝いのために、リーンの元を訪れた。
ニトロ
「っと……」
ニトロがリーンの家を訪ねた時、彼女は庭で赤ん坊に授乳をしていた。
女性の乳房を無遠慮に見るのは、紳士の振る舞いにふさわしく無い。
ニトロは慌ててリーンに背を向けた。
リーン
「別に構わないわよ。男に見られても、全然感じないもの」
ニトロ
「気にする気にしないの問題ではなく、神殿騎士としての振る舞いというものが有るからね」
リーン
「女をさらって手篭めにしてた変態のくせに」
ニトロ
「そうだけどね」
リーン
「終わったわ」
ニトロ
「うん」
授乳を終えたリーンは、服装を正した。
ニトロはリーンへと向き直った。
リーンは腕の中に、赤ん坊を抱きかかえていた。
ニトロ
「トルソーラさま……とお呼びすれば良いのかな?」
リーン
「どうかしらね」
リーン
「今のこの子に、神としての自我が芽生えているようには思えない」
リーン
「産まれてすぐに立ち上がって『天上天下唯我独尊』とか言ってくれたら分かりやすかったんだけど」
ニトロ
「それなら、何と呼べば?」
リーン
「別に。私はクローンと呼んでいるけど」
ニトロ
「ダメだよ。名付けはきちんとしないと」
リーン
「面倒くさいわ」
リーン
「どうせ、ガイザークを倒すまでの仮初の肉体でしょう?」
リーン
「ただの使い捨てよ」
ニトロ
「生みの親がそういう態度なのは、感心しないな」
リーン
「……はぁ」
リーン
「クローン=リーンだからクリーン。これでどう?」
ニトロ
「投げやりだけど、クローン呼ばわりするよりはマトモだね」
リーン
「それじゃ解決ね。解散」
ニトロ
「……これ、いちおう出産祝い」
ニトロはそう言って、リーンに小包を差し出した。
リーンは包みを受け取り、ニトロに礼を言った。
リーン
「ありがとう。中身は?」
ニトロ
「赤ちゃん用の服とか、おもちゃ、あと育児の本」
リーン
「おもちゃ? 何に使うの?」
ニトロ
「何って、遊んであげなよ。お母さんなんだから」
リーン
「お母さん? 止めてよ」
リーン
「この子は私のクローンであって、娘でも何でもないんだから」
ニトロ
「そうかな?」
リーン
「そうでしょう?」
ニトロ
「今日はこれで失礼するよ」
リーン
「ええ。また」
用件を終えたニトロは、一人で世界樹の迷宮を抜け、大神殿へと帰っていった。
……。
数日後。
リーンはテーブルの上に、育児の本を広げていた。
リーン
「なるほど。この高い高いというのをすると赤ちゃんは喜ぶのね」
リーン
「ほーら、高い高~い」
クリーン
「きゃっきゃっ」
本に書いてあるとおりに、リーンはクリーンを持ち上げた。
するとクリーンは、楽しそうに笑ってみせた。
無邪気に笑うクリーンを、リーンはふしぎそうに見た。
リーン
「何が楽しいのかしら? 変なの」
クリーン
「だーう?」
リーン
「知性の欠片も無いわね。あなた」
クリーン
「うー」
リーン
「……っと。トルソーラさまが目覚めた時に、不敬だって言われないかしら?」
クリーン
「だうだう」
……半年後。
クリーンは、自らの力で立ち上がった。
リーン
「立った……!」
クリーン
「あうあー」
リーン
「本には赤ちゃんが立ち上がるには、一年くらいかかるって書いてあったのに……!」
リーン
「凄いわ! さすがは私の……」
リーン
「…………」
リーン
「トルソーラさまの転生体ね」
クリーン
「まーま」
リーン
「ママ……?」
リーン
「違う」
リーン
「私はあなたのママなんかじゃない」
リーン
「違うから……」
……さらに六年後。
クリーン
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
リーン
「はいはい。どうしたの?」
クリーン
「おっきいお芋が取れたのです」
リーン
「まあ本当」
リーン
「偉いわね。よしよし」
リーンはそう言って、クリーンの頭を優しく撫でた。
クリーン
「えへへへへ」
リーン
「今夜はお芋鍋にしましょうか」
クリーン
「はいなのです」
そのとき。
村の重鎮であるザックスが、クリーンに声をかけてきた。
ザックス
「大婆さま」
ザックス
「お話が有ります」




