6の32「イジューと夏期講習」
看護師に部屋番号を聞き、イジューはシホの病室を訪ねた。
戸を開き中に入ると、イジューは室内を見回した。
物の少ない病室に、ベッドが一つ、ぽつんと置かれていた。
その上に、シホの姿が見えた。
シホは病室のベッドで、ただ寝転がっていた。
首を動かすこともできない。
人が入って来た気配に、ただ視線だけを動かしていた。
イジューはシホの視界に入るよう、彼女の顔を覗き込んだ。
イジュー
「…………」
シホ
「…………!」
愛する人の、突然の出現。
シホは大きく目を見開いた。
だが、それだけだった。
シホは喋ることすら出来ない様子だった。
イジューの表情が曇った。
彼はスーツのポケットから、二つの指輪を取り出した。
念話の指輪だった。
イジューはシホの左手の指に、その指輪を嵌めた。
そして、もう片方の指輪を、自分の指に嵌めた。
イジュー
(シホ……。聞こえるか?)
イジューは指輪の力で、シホに話しかけた。
すると指輪を通して、震えるような念が返ってきた。
シホ
(いじゅ……くん?)
イジュー
(いや)
イジュー
(ただのクソ野郎だ)
シホ
(顔、怪我してるよ?)
イジュー
(ちょっと転んだ)
シホ
(どうして来たの?)
シホ
(私と仲良くすると、良くないんでしょ?)
イジュー
(別れろと言われただけだ)
イジュー
(別れた。おまえを捨てた)
イジュー
(幼馴染の見舞いに来て、何が悪い)
シホ
(屁理屈だと思うけどなあ。それって)
イジュー
(…………)
イジュー
(何か、おまえにしてやれることは有るか?)
シホ
(んーっと、それじゃあさ)
シホ
(私を死なせてくれる?)
イジュー
(断る)
シホ
(ケチ)
シホ
(嫌なんだよね。このまま寝たきりで、何十年も生きるなんて)
シホ
(入院費もバカにならないしさ)
イジュー
(金なら俺が出す)
イジュー
(金持ちに、なったんだ)
イジュー
(入院費を出すくらい、わけもない)
シホ
(そっか。けどさ……)
シホ
(このまま生きてても、きっと良いこと無いよ)
イジュー
(それでも……俺はおまえに生きていて欲しい)
シホ
(それじゃあさ)
シホ
(私にキスしてくれる?)
イジュー
(分かった)
イジューはベッドの側面に歩いた。
そして姿勢を低くすると、シホの顔に、自身の顔を近付けていった。
やがて、二人の唇が触れ合った。
長く、長く。
イジュー
(友情のキスだ)
唇を話すと、イジューはシホにそう言った。
シホ
(……うん)
シホ
(生きてて良かったかも)
シホ
(もう1回して)
イジュー
(ああ)
二人は2度目の口付けをした。
そのキスは、1度目よりも長かった。
シホ
(毎週してくれる?)
唇を合わせたまま、シホはそう尋ねた。
シホ
(それなら、生きられるかも)
イジュー
(毎日じゃなくて良いのか?)
シホ
(社長ってヒマなんだ?)
イジュー
(実はな)
イジュー
(部下をアゴで使って、遊び放題だ)
シホ
(そうなんだ?)
シホ
(それじゃあ毎日お願いしようかな)
イジュー
(任せておけ)
それから長い間、二人は話をした。
日が暮れると、イジューは帰宅していった。
それから毎日、社長の業務を早めに済ませて、イジューは病院に通っていった。
そんな日々の傍らで、リホはすくすくと育っていった。
シホの望みで、リホに母親のことは告げられなかった。
寝たきりの、負担になるだけの母親など、居ない方が良い。
シホはそう考えていた。
マーサやイジューは、別の意見を持っていた。
たとえ寝たきりでも、母親は居た方が良い。
シホのような優しい母なら、なおさらだ。
二人はそう考えていた。
だが最終的には、シホの意思が優先された。
やがて、リホは13歳になった。
リホには生まれつき、超人的な頭脳が有った。
才能を見込まれたリホは、魔術学校の試験を受けることになった。
最優秀成績をおさめた彼女は、奨学金の権利を勝ち取った。
学費、入寮費、教材費など、全てが免除される。
返済不要の、最もグレードの高い奨学金だった。
リホは魔術学校に通うことになった。
リホ
「それじゃ、行ってくるっス」
マーサ
「ええ。行ってらっしゃい」
「がんばれリホねーちゃん!」
「がんばえー!」
孤児たちの声援を受け、リホは孤児院を出た。
魔術学校での暮らしが始まった。
一方、ドミニ工房の社長室。
イジュー
(心配だ……)
イジュー
(ハーフのリホが、学校でうまくやっていけるだろうか)
イジュー
(学力は問題が無い。シホの娘だからな。彼女は天才だ)
イジュー
(だが就職事情は、純血の魔族よりも厳しいはずだ)
イジュー
(純血であれば、ブラッドロード商会の庇護を受けることも出来る)
イジュー
(リホにとっては、人族も魔族も味方では無い)
イジュー
(ちゃんと就職できるだろうか……?)
イジュー
「……………………」
1時間後、営業部長のザブンが訪れた時……。
社長室は、もぬけの殻となっていた。
……。
肝心のイジュー=ドミニの姿は、魔術学校に有った。
彼は応接室で、校長のティートと面談をしていた。
ティート
「光栄です。あなたほどの人に、うちの生徒を教えていただけるなんて」
イジューは自分の方から、特別講習の講師になると申し出たのだった。
このとき既に、ドミニ工房は、王都一にまでのし上がっている。
その社長ともなれば、気軽に講習を頼めるような人物では無い。
それが向こうからやって来たとなれば、ティートの側に、断る理由は無かった。
イジュー
「ただ教えるだけではありませんよ」
イジュー
「もし使えそうな生徒が居たら、うちでスカウトさせていただきます」
ティート
「はい。それはもちろん構いません」
ティート
「ただ一応、事前に授業内容を、確認させていただいても構いませんか?」
イジュー
「ええ。私が教えようと思っているのは……」
イジューはティートとの打ち合わせを進めていった。
……。
そして、夏期講習の初日がやって来た。
ティート
「それではよろしくお願いします」
イジュー
「任せておいて下さい」
校長室でティートとの面談を済ませ、イジューは教室に向かった。
廊下を歩いていくと、すぐに教室が見えた。
イジューは教室の戸に手をかけて、体の動きを止めた。
イジュー
「……………………」
イジュー
(シホ、シホ)
イジューは病院に居るシホに、念話の指輪で語りかけた。
シホ
(どうしたの急に?)
イジュー
(リホに会うの、緊張するんだが)
シホ
(お父さんでしょ。しっかりしなさい)
イジュー
(あ、ああ……)
イジュー
「行け。イジュー」
イジューは自身にそう言い聞かせ、扉を開けた。
まっすぐに教壇に向かい、そして生徒たちを見た。
一人一人の顔を見渡した。
イジュー
「あ…………」
イジュー
(リホ……)
リホ
「?」
リホと目が合い、イジューは慌てて視線を下げた。
そして、社長業の時のような、厳格な表情を作り、言った。
イジュー
「今回、特別講師を務めることになった、イジュー=ドミニだ」
イジュー
「1週間という短い間になるが、よろしく頼む」
教室内は、騒然となった。
そして……。
「これじゃあダメっスかね?」
座学が終わり、製図実習の初日。
リホは鞄から、クシャクシャの製図用紙を取り出した。
イジュー
「それは?」
リホ
「ウチが考えた魔導器っス」
イジュー
「見せてみろ」
リホ
「ういっス」
リホは机の上に、その図面を広げた。
イジューはリホの後ろから、図面を覗き込んだ。
イジュー
(クシャクシャすぎる……)
イジューはリホの製図用紙を見て、ショックを受けていた。
図面を大切にするのは、設計士の常識だ。
そんな常識を教えてくれる仲間が、リホには居ないというのか。
だが、今のイジューは講師だ。
いつまでもショックを受けているわけにはいかない。
すぐに気持ちを切り替えて、真剣に図面を見た。
イジュー
「む……」
リホ
「どうっスか?」
イジュー
「ちょっと……待て……」
イジュー
「……………………」
イジュー
(これが13歳の図面か? 凄いな。シホ。リホは天才だぞ。知ってたけど)
……。
イジュー
「卒業したらうちの工房に来い」
図面の評価を終えると、イジューはリホにそう言った。
リホ
「……良いっスよ」
リホは教室から出ていった。
イジューにはまだ、講師としての仕事が残っていた。
目的を果たしたとはいえ、受けた仕事を雑に済ませるわけにはいかない。
イジューは真剣に、生徒たちの面倒を見ていった。
やがて授業が終わると、イジューは自宅に帰った。
広い居間のソファで、一人くつろいだ。
イジュー
(これでリホの将来は安泰だ)
イジュー
(そして、サザーランドという生徒……)
イジュー
(底知れない才能を感じた)
イジュー
(まあ、リホの方が天才だろうが)
イジュー
(あの車椅子が実現出来たら、シホは喜ぶかな?)
イジュー
(彼女は……私たちの希望になるかもしれない)
その後イジューは、クリスティーナの才能に投資していった。
やがて車椅子が完成した。
イジューは車椅子を押して、シホの病室を訪れた。
イジュー
(シホ。来たぞ)
シホ
(うん)
イジュー
(今日はシホに、プレゼントが有るんだ)
シホ
(何かな?)
イジュー
(今、おむつは大丈夫か?)
シホ
(いきなり何!?)
イジュー
(答えてくれ)
シホ
(だいじょうぶだけど……)
イジュー
(体、動かすぞ)
シホ
(うん)
イジューはシホを抱き上げた。
そして車椅子に乗せた。
イジューは優しい手つきで、シホの姿勢を正していった。
シホの手が、手すりの魔石に添えられた。
シホ
(これは……?)
イジュー
(魔法の車椅子だ)
イジュー
(車輪が動くように念じるんだ。やってみると良い)
シホ
(うん)
シホが念じると、車椅子の車輪が動き出した。
シホ
(わっ! 凄い! 凄いよこれ!)
イジュー
(ああ。凄いんだ)
シホ
(これ、いじゅくんが造ったの?)
イジュー
(いや。それを造ったのはクリスティーナ=サザーランドという人だ)
イジュー
(俺なんかと違って、天才だよ。彼女は)
ちょうど同じころ、病院の庭に、クリスティーナとマリーの姿が有った。
クリスティーナ
「どうだい? 完成品の乗り心地は」
マリー
「快適」
マリー
「……凄いね。お姉ちゃんは」
クリスティーナ
「ボク一人じゃあ、何もできなかったよ」
クリスティーナ
「本当に凄いのは、イジュー=ドミニ。あの人だ」




