幻翼奇談
問題は多いし、連載するならもっと詰めないとなとは思うけども。
二宮忠八が飛行器飛ばしていたら?というお話。
ただ、彼の考えで飛んだかというと、飛ぶだけでまともに操作できるものにはならなかったというのが再現実験や後にラジコンを製作した人たちの意見の様だ。
そこで、歴史を弄って転生者を息子に放り込んでみた。
「不味いな」
目の前の男が食事に文句を言っている。
「そうですかね。場所が場所だけにそうでもないと思うんですけど」
そう取り繕ってみるが、顔が物語ってる。
「今は我慢してください。我が国へ来れば、それなりの食事も用意できると思いますので」
男は疑いの目を向けてくるが何も言わない。それが余計にプレッシャーではあるが。
「ちょうど、近くに捕虜収容所がありましてね。たしか、そこでは音楽や食品の技術が伝えられていたはずです。中には定住する者も居ると思うので」
そう言ってみたが、どうもダメらしい。
「後の話は良い。いつまでここに居るのかだ。クソマズイ英国料理をいつまで食えば良いんだ?」
そう不平を言ってくる。
「確かに、ドイツのビールと腸詰は他では真似ができませんが、もう少しの辛抱ですよ」
そう言って何とか宥めすかす。
「おい、二宮」
青色の軍服を着た男がこちらへとやって来た。
「貴様の要望が通ったぞ。そのドイツ人はお前の会社に招聘して構わない」
「ありがとうございます」
軍人は対面の男にも同じことを告げ、ようやく、顔が少し緩んだように見えた。
「カール・ガスト技師、わが帝国は二宮飛行器製造への招聘を認める」
他にも声をかけるべき相手はいるのだろうが、この時期に思いつく人物が他に居なかった。
第一次大戦が終わってまだそう時間が経っていない。日本軍の実戦部隊も大半が帰国したが、まだ一部に欧州へ残る部隊や要員が居る。
俺はその伝手を頼って欧州から日本へと技術者を勧誘したのだが、あまり振り向いてくれる人が居なかった。
「しかし、ニノミヤの人間がわざわざヨーロッパへ来るか。ワシみたいな者がどれだけ役に立つんだ?」
ガスト氏も俺に訝しげな眼を向ける。
驚かないで欲しいが、俺は転生者だ。
二宮忠八と言えば世界中が知る飛行機メーカーの創業者だってのは、1922年の今では当たり前だが、俺はそうではない世界から来た。
そもそもだ、俺が居なけりゃ親父は飛行機を飛ばせちゃいないだろう。そして、軍を止めて商社へ入り、そこで成果を出し、起業していたはずだ。もちろん、飛行機メーカーなどではない。飛行機は戦争以前の欧米の飛行機発明家や起業家たちがどんどん飛ぶさまを見て諦めていたはずだ。
だが、ここではそうならなかった。
日露戦争の前、物心ついた俺は自分が転生者だと自覚した。まさか、100年以上前に逆行転生しただなんて信じられるか?
だが、事実だ。
そして、俺が見た親父は、未来の素人が見ても飛ばなそうな模型を作って飛ばそうとしていた。
そりゃあ、紙飛行機が飛ぶんだ。翼さえあれば多少は浮くだろう。しかし、模型や飛行機は鳥ではない。微妙な羽根の調整や体重移動で旋回なんか出来やしないんだ。市井を制御するには水平、垂直尾翼やフラップが必要になる。
こんなのは軍事やラジコンの知識があればすぐにでも理解できると、21世紀では考えられる程度の知識なんだが、20世紀に入ってすぐにはそんなものは無かったようだ。
俺は親父が何か作っている横で、紙を折って紙飛行機を飛ばしては驚かれ、余った紙と木の端材で飛行機を作っては驚かれた。
俺の知っている前世においては、動力飛行に漕ぎつけなかった親父だが、俺の作った模型飛行機を参考に、二宮式飛行器を開発、まずは無動力の滑空機を製作して飛行して見せた。
その時、上司もその飛行を見学に来ており、ただしつこく夢想を語る奴程度だった認識が根底から変わってしまったらしく、それ以後、親父のために色々働きかけをしてもらえるようになったという。
そして、日露戦争中には気球隊が組織されたが、その運用に当たって、グライダーの採用も働きかけられたが、理解者が少なく不採用となってしまった。
戦後は実際に二宮式飛行器がどぶ様を見た陸軍の人々がこぞって協力してくれるようになるが、如何せん、誰も飛行機の知識など有していない同好会程度の集まりでしかなかった。
しかし、1907年、海外で飛行機が飛んだというニュースが入ってくると、陸軍では自分たちも飛ばしていると二宮式飛行器を宣伝し、動力飛行のための資金と技術者も手配するに至る。
そして、エンジンの目途が付いた1908年、とうとう動力飛行に成功するのだが、飛ばした機体は世界最先端と言って良かった。
そりゃあ当然の話で、元々が21世紀のラジコン飛行機の技術知識で作られたグライダーをベースにしていたんだから。
こうして陸軍飛行隊は発展するのだが、ある時、親父は上司に呼ばれて退役を勧められたという。
「陸だけで飛行機を囲い込んでおくわけにもいかん。海軍さんにもコレを提供するのは、民間として会社を作らにゃ、あちらも受け取りはせんだろう。二宮の名前は知れ渡っとる。貴様が会社を作って飛行機を作れば、海軍さんだって受け取るんじゃななかろうか」
その様に言われ、1911年には退役し、二宮飛行器製造という会社を立ち上げることになった。
それに合わせて欧米からも技術者を招聘しようと欧州へと渡り、二宮式飛行器の実演を行ったのだが、東洋の小国が作った飛行機が自分たちの飛行機とそん色ない事に衝撃を受けた彼らは、二宮飛行器製造との情報交換を積極的に行い、双方が必要とした技術の取得が大いに捗ったという。
それから少しして、第一次大戦がはじまった訳だが、この頃には俺も会社を手伝うようになっていた。
なぜか理解が出来た機械式機銃同調装置を技師の指導を受けながら設計し、実際に飛行器へと装備して実験も行った。
これが見事成功した訳だが、ここまで歴史が変わったならば、あの戦争の歴史も変えられるんじゃないかと、この機構と機体をもって欧州へ参戦した方が良いと親父に掛け合った。
しかし、日本政府は動かなかった。
1917年にようやく海軍の派遣が決まると、陸軍では航空機に限って派遣しても良いと打診、ようやく二宮式飛行器が欧州へと向かうことになった。
すでに同調式機銃など当たり前の世界だった欧州では二宮の機体も優位性は無かったが、何とか戦える機体として改めて欧州に二宮の名前が知られることとなった。
事が大きく動いたのは何ともばかげた話なんだが、欧州からの陸軍派兵要請を断る方便として、飛行隊は陸軍ではないからという理由作りとして空軍が設立されたことだろう。
陸軍は元々、海軍が艦艇を派遣することに対抗して飛行隊派遣を決めたはずだった。しかし、飛行隊を出したのだから、基地要員とさらには警備要員、そして戦闘部隊をと欧州からの要請はエスカレートする一方となった。
困り果てた陸軍では、「実はあれは空軍という組織でして」と、逃げの一手を打ったわけだ。
未だ飛行機に理解のない有力政治家や元老といった人がそれに乗っかり、あれよあれよという間に、元飛行班やその支援者たちを中心に肩が叩かれ、空軍という組織が出来上がることとなった。
そうなると、片手間だった今までと体制が変わり、組織として欧州参戦が本格化していくことになる。
二宮からも技術者が派遣されたし、停戦間際には俺も欧州へと向かった。
講和会議でも日の丸飛行隊が戦場を飛んでいたことは大きくは右舷力に影響し、俺の知る歴史よりとは幾分変わっている。
そうは言っても大勢に影響がある訳でもなく、俺はそのまま欧州留学という形で英仏で4年ほど過ごし、空軍の伝手でドイツへも足を延ばして、ガストさんを何とか捕まえたわけだ。
他にも声をかけて回っては見たが、確かにニノミヤの知名度はあったが、日本行きを了承してもらえる人はいなかった。
機体だけなら俺だけでもどうにかなるし、エンジンは英国で伝手は出来たので、しばらくは問題ないだろう。
俺も親父も政治力はない、空軍くらいしかコネもない。大幅な歴史改変は無理だとは思うが、どこまでやれるかやってみようと思う。
多分、書くとすれば、連載版は「とある世界の日本」でという事になると思う。