8 コーヒーを飲みながら
調整が終わり、ダイニングキッチンに移動した。和田さんは、男の1人暮らしにしては整っているキッチンに興味津々で、あれやこれやと調理器具を手にとってニコニコしている。
「森山さん。これ何ですか?」
和田さんが手に取ったのは、コーヒー豆の焙煎器である。その名を「いるいる」といい、「ゲゲゲの鬼太郎」の「目玉親父」を連想させる、茶色いセラミックの小鍋である。
「それ、コーヒーの焙煎器よ。コーヒーの生豆を煎る道具」
「面白そうですね。コーヒー煎ってみたい!」
冷蔵庫に保管しているモカの生豆を取り出し、「いるいる」に入れて15分ほどコンロにかける。焦げないよう、かつ美味しく飲めるような豆を煎れるようになるには、それなりの経験の積み重ねが必要である。
比較的容易な前半を和田さんにやってもらい、「爆ぜ」が始まってからは、慣れた私が…。彼女の好みに合わせ、浅煎りに仕上げた。そしてミルで豆を挽き、ハンドドリップで淹れる。狭いダイニングキッチンに、コーヒーの良い香りが広がった。
小さなテーブルで、2人でコーヒーを飲む…至福のひとときである。和田さんの視線が、ふと小さな写真立てに向けられた。第2回離婚調停の後、子どもたちに会った際に撮影した、私と3人の子どもたちの写真である。
「…あ、これね。私の子どもたちの写真。今でも月に1回は会ってるよ。この家に来ることはないんやけどね」
「そうなんですね。お子さんたち、いい表情してる…」
私はふと、お世話になった女性の調停委員さんの顔を思い出した。確か、校長先生をしていたとか言うてはったなぁ…。
そういえば、和田さんは元々教育心理を研究しており、学校現場の経験もあると聞いている。彼女なりに、写真を見て感じるところがあったのだろう。その会話をきっかけに、私は恭子との離婚のことを彼女に話し始めた。彼女は、私の目を見ながら、時々頷きながら、真剣に聞いてくれた。
私は離婚問題について、家族ぐるみで付き合いのあった一部の親友たちにはやむなく話をしているが、全く関係のない他人に真剣に話をしたのは初めてかもしれない。誰もこんな話は聞きたくないだろう。でも、和田さんにはそれを受け止める懐の深さがあった。
「そうか、これが国松課長が言ってた『すごい子』の意味か…」
私は妙に納得してしまった。
「森山さん。私がこんなことを言うのは失礼だとは思いますが…離婚されて正解だったと思います。夫婦間に争いがある中で育った子どもには、将来何らかのトラブルが起こります。課題の多い恭子さん側にお子さんたちが行ってしまったことに、少し不安材料はありますが、森山さんとお子さんたちの関係をきっちり続けていけば、親子の絆が切れることはないと思います」
和田さんは、そう私に語りかけてくれた。
気がつけば、時刻は18時を回ろうとしていた。
「和田さん。話を聞いてくれたお礼に、夕食ご馳走するわ」
「ありがとうございます。私も手伝います」
ありあわせの物でサラダとスープとパスタを作り、2人で食べた。小さなテーブルの上は、「家族」的な空気に溢れていた。
「1人じゃないっていいよな…」
洗い物を済ませた後、そんなことを思いながら、自転車で帰る和田さんを見送った。
「…またおいでよ」
「…はいっ!またコーヒーご馳走してください!」
和田さんは一瞬頬を赤らめ、照れ隠しをするようにおどけて答える。
いい人だ。あと10何年か早く…一卵性親子に捕まる前に出会っていたら…私の「失われた10年」は存在しなかったかもしれないな…。
ふとそんな思いが頭をよぎった。