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喫茶店は酒場と化していた。
トラックの中で神とやらのはなはだ物騒な啓示を懇切丁寧に断り狼狽させたかと思えば、現前の景色が一転。歩道に佇む己を確かめる間もなく、出し抜けに手を引き連れ回すこの国色天香はいったい何者であるのか。トラックはどこへ消えたのか。危うく轢き殺すところだったあの男は無事だろうか......
うずたかいそびらを睨めつけながら考えていると、いつの間にやら酔客たちの下種張る純喫茶『麦芽天然工房』の一角の座を占めている。
荒木トキの心中は、あたかも吹き荒ぶ嵐の渦中に、ふんどし一丁で大童に日本舞踊を嗜むもかくやという心慌意乱たる有り様である。
しようことなしにメニュー表を見ようとしたけれど、そもそもメニュー表が置いていないことに気がつく。するとなみなみと麦酒の注がれた、二杯の樽型の大ジョッキが卓子をことさらに大きく揺らした。目をやると、いかめしい顔をした年齢不詳の巨軀の女性が、無愛想に伝票を机上に叩きつけている。フリフリの素敵なフリルをふんだんにあしらってある。やがて、そのはちきれんばかりの黄色いワンピースを着る彼女は去っていった。伝票には『生大2』と辛うじて読める筆づかいで記されている。おそらく、生ビール・大ジョッキ・二杯という意味だろう。
なんだこの店は。
客に有無を言わせず麦酒を提供する喫茶店があって良いのか、とトキは思った。
世の頽唐の沿革にひどく疎い彼は、現時全国津々浦々ありとあらゆる喫茶店がお祭り野郎たちのオアシスであることを知らない。与り知るところではない。
しかしそれどころではない。
女性の屹然とこちらを見定めるような凛とした濁りなき両眼に、爽昧に吹かれる澄明な空気のごとく清らかな佇まいがトキを畏れさせ、無言の対峙に苦痛さえ感じ始めていた。していると、ようよう彼女の細い唇が動きをみせた。しかし小鳥の囁くような美しい声音の紡ぎ出す言葉は、まったくもって予想外であった。
「麦酒はお嫌いですか」
申し訳なさそうに訊く。トキは一寸返答に窮した。
「嫌い......ではありません。でも、今は仕事中なのでアルコールはダメなんですよ、すいません」
「左様でございますか。配慮が行き届かず、たいへん申し訳ございません」
女性はうやうやしく低頭した。
トキは慌ててそれを手で制した。
「そんな、顔をあげてください。あなたは何も悪くない」
「お心遣い痛み入ります。あの、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
女性はやおら面を上げた。瞳が怪しく輝いた。
「あなたは神を信じますか」
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宗教の勧誘だ、とトキは思った。
同時に、うまうまと聞こし召したる己の愚鈍を悔いた。
いまどきの美人局はレベルが高いもんだな、と呑気に思ったりもした。
騙されたのは自分だけではないはずだ、教派はどこだ、いったい、どれほどの民を門徒に仕立て上げたのだ!
いかんともしがたい怒りを感じた。
先頃の不可思議な現象は彼女に依るものではないかという猜疑が沸いたけれど、仕方がどうにもわからないので反故にした。けだし蓄積された疲労から見る悪夢であろう。もとより今日は仕事が休みだったのかもしれない。(もしそうなら、今すぐ病院に行く必要がある)それに、あのとき聞いた声とはまるで違うのである。
眼前のかまくらから生まれてきたのではないか、と思えるほどに肌の白い傾城の美人局の声音は、言おうようない色香と静謐を湛えている。一方、「轢け」とのたまう自称神は先頃形容した通り、ちょっと幼いのである。小さい子が威丈高に振る舞うみたいで微笑ましいのだが、いかんせん言葉遣いが野蛮じみている。いや古い。ありていに言えばジジイみたいだ。よしこれがある種自身の妄想肥大的偶像が作り出した夢幻だとするならば、今すぐ病院に行く必要がある。
トキは深く息を吸い込んだ。
「あいにく僕は、神を信じていません」
「なぜです」女性は訊いた。
「会ったことも話したこともない、そんなモヤモヤっとした存在を僕は信じません」
「モヤモヤ、ですか」
「モヤモヤです。他人の夢のようで、実体がなく、確かめようがない」
「神様は可愛いですよ」
まるで見知ったかのように言う。
どっぷり傾倒しているらしい。女性はジョッキに手を伸ばした。
「いただいてもよろしいですか」
「どうぞ」
それはそれは見事な飲みっぷりだった。左手でジョッキの底を支え、あたかも煎茶を飲むごとく儀礼的な所作で、瞬間的に麦酒を飲み干した。
トキは感嘆した。もう一杯よろしいですか、と言うので自分の分も喜んで献上した。
またたく間に飲んだ。白いハンケチで口許の泡を丁寧に拭っている。
「よく飲まれるようで」トキが言った。
「はい。好きなのです」
「主に麦酒を?」
「いいえ、普段は清酒を少し。娘たちの手前、あまりはしたないことはできませんから」
女性はそう言うと、にっこり微笑んだ。
娘たち。この美人局は少なくとも二児以上の母であったか。
トキは労うような口調で言った。
「大変でしょう」
「そうですね。でも、みんな良い子ばかりですから苦ではありません。たまに悪戯をすることがありますけど、それは私に気を許しているからだと思うのです。もちろん、その場合はきちんと叱りますよ」
女性は愛しむように目を細めた。
怒る、と言わないところが良いと思った。
そのとき、五人ほどの酔客たちが彼女の周りを取り囲んだ。白昼堂々相席している男がいるにもかかわらず、ナンパがはじまった。
「綺麗だなあ、実に綺麗だなあ」
「着物とは珍しい。匂いを嗅いでもよろしいですかな」
「外人さんかい? 良い匂いですね」
「項を嗅がせていただけないでしょうか」
「では、私は膝頭を」
ナンパというより、セクハラである。
小太りの男ひとりを除いて、他の者は生粋の変態らしかった。清々しいほどに嗜欲を発露させている。
女性は冷静だった。何を言われようと無駄だぞ、取りつく島もないぞ、と冷ややかな目つきがそう言っている。
「先ほど、あなたは神が信じられないとおしゃいましたね」
女性はそよ風を吹かすようにやさしく言った。トキは肯首した。
「え、ええ。そうです」
「こっちにかまってくれよお」
「その着物を着させてはくれまいか」
「売ってくれ、その着物」
「着物を脱いで」
「膝頭を」
色事師もとい変態たちは、野鄙な言葉を遠慮会釈もなく口々に捲し立てた。
女性が何かを乗せているみたいに掌を表に向ける。そのまま口の前へと運び、掌の上にフッと息を吹きかけてやると、凄まじい冷気の奔逸が女性の周囲に渦となって顕現した。
逆巻く冷気は変態たちをカチンコチンに凍りつかせ、トキは目の当たりにした怪力乱神におののき、思わず席を立った。
「あなたは、いったい......」
「これで信じていただけますね」
女性は肩に付いた氷の粒を手で払うと言った。
「私が神です」