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神の徒事  作者: 葦元狐雪
25/33

17

 私たちが次に訪れたのは、ちょうど隣の絶巓ぜってんに聳え建つ塔であった。白壁に苔がはだらに塗されている。窓や通気口は見られない。筒型のどこまで続くか知れぬ塔の先頭は、空の果ての青さに紛れて判然としない。


 これによって登る気力が失せた。そもそも、入り口が見当たらない。矯めつ眇めつ眺めてみたけれど、やはり伺い知れなかった。


 すずろに鑢で磨き上げたかのごとく光沢を宿す壁面に触れると、抵抗なく指の腹は摩擦熱を蓄えつつ滑り下りた。指先が名残惜しそうに壁を離れ、ひとしきり帯びた熱の残滓の感覚に彷彿したのは軽石である。重い鉄の冷たさでもなく、超然とした岩の強堅さでもなく、コンクリートの人為的な浮薄さでもなく、まさに火山の隠然たる膂力の証であった。拳背で叩くと、実に軽薄な音がした。


 透過して内部へ侵入する。右手にミーネの小さい手をたしかめながら、私は徐々に水の張った膜に、身体の浸る疑似を感ずる刹那に、一種の安息と失意が兆すのを予覚した。


 果然、それは如実に現れた。目を留めた。塔の内側の楕円形にくり抜かれた地表は新緑の芝が群生し、取り囲む壁は外壁と同種の光沢がくすんでいる。狭窄した天から射す、ドレスの裾の広がりを思わせる円錐状の白光は、中空に漂う幾千もの塵の反照が降下してゆく様を、静やかに映している。


 かかる光景だけがそこにあった。どれくらいの間、その場に立っていただろうか。私は水面に浮かぶ一片ひとひらの花弁を見つけた時のような自然な歩武で円錐の縁まで進むと、そこに腰を屈めた。掌を差し出した。しかし、しろたえのさやかな手の腹に応えるのは、陽のあたたかさのみであった。


 私は立つと、背後にいるミーネの方に向いた。

「次、行こっか」

「うん」

 

 ミーネは頷いた。


     $


 隣の山頂にある、巨大なガスタンクに煙突を突き刺す形をした、謎の建造物もまた何もなかった。

 ただ広い空白の空間だった。薄い黒のプラスチックを通した鈍い明りと、沈静した空気がいっぱいに充ちていた。


 そこにいることさえ憚られる雰囲気。息が詰まりそうだ。

 ——早くここから出たい。


 強くそう思った私は、外で待つミーネの元へ散じた。ミーネは煙突の天辺の丸い縁に腰掛けていた。

 彼女はよほど私を心配する面持ちであったが、私は彼女に有り体を述べず、あえて自心を詐る演技に徹した。余計な心配はさせたくない。しばらくしたのち、ミーネは懸念を微かに残すごとき笑顔で応えた。



 最後はスペースシャトル大の天体望遠鏡が、山頭から斜めにニョキっと生えていた。

 今にも飛び立ちそうである。先頭の巨大なレンズが陽光を反射して輝いている。純白の全身の部分々々を、サイケデリックな模様が染めている。ひと目見たときは、ペンキを適当にぶち撒けたのでないかと思ったのだけれど、しかしよくよく検分してみれば、どうやら或る規則に沿って塗られたらしいことが何とはなしに判った。色合もさることながら、顔料自体が類いない独自の感があった。何か複数の物を混ぜているのだろうか。


 凝然と見ていても仕様がないので、私たちは望遠鏡の生え際まで寄った。

 側面に扉があった。黒木の瀟洒な扉だった。小窓やドアスコープは付いておらず、況してやドアノブもなかった。


 私は誰そあれかしと願い、二三扉をノックした。

 肉厚の木の板が篭った音をささやく。

 つと涼やかな横風が雪白の地表に吹き、満足に固まっておらぬ各所から、砂糖の粉雪がさらさらと舞い上がる。あたかもタンポポの綿毛があてどなく旅立つかのように、碧落にかがようた。


 返事はなかった。

 私は躊躇なく扉を透かした。どうせ誰もいないのだから、構やしないわ。きっと、この天体望遠鏡も今や使われていないのでしょう。そして、この扉はただの板で、戸口を塞ぐためだけにあるのだわ。


「入ろう」

 ミーネの返答も待たず、今度は薄膜を裂く心地で潜った。半ば捨て鉢だった。しかし境を劃した途端、向こう側の景色は、およそ想像も寄らざる事様を呈した。

 七畳はあると思しき、雑然と物が散らかる部屋の壁一面に、幾千本の細いパイプが張り巡らしてある。サークル型の蛇口がそこここに見られる。床全体は夜空を写すごたる、無数の星々が闌干らんかんとして明滅を繰り返している。七色の電球が漆喰の低い天井からてんでに吊り下げられ、その下には堆く積み上げられたダンボールの山がある。

 

 はなはだ奇妙な部屋である。匂いを嗅いでみると、微かに花の香りを感じた。現下何者かが住んでいるのは自明だ。留守なのか? それとも、どこかで息を潜めているのか?

「わ! すごいところだねえ」


 ミーネが感嘆の声を上げた。次いで、彼女は興味津々にあちこちを物色し始めた。

 家主の存在が知れた以上、勝手に人様の家内を検めるのは一寸気が引けたが、ともあれかくもあれ、私たちはミーネを箱詰めにした、若しくはこの世界に私たちを転移させた犯人を探し出し、糾明せねばならないので、当座に限り、これより犯す愚行は大目に見てしかるべきである——などという詭弁を己に弄して、私もミーネに倣った。


 周囲をあらかた探し終えた頃だった。中央に聳えるダンボールのピラミッドがぐらぐらと揺れだした。地震かと思ったけれど、ピラミッドだけが揺れているのである。驚いたミーネが手にしたスパナを落とし、それが夜空にけたたましい音を立てながら滑って行く。彼女が私の腕に抱きついて言う。


「ダンボールが生きてる!」

「落ち着いて。そんなはずないわ」

「でも見て! あんなにプルプルしてるよ、まるでゼリーみたいに!」

「崩れると危ないから、私の側を離れちゃダメよ」


 私は右腕でミーネを抱き寄せた。

 ピラミッドの揺れ幅は大きくなり、上から順々にダンボール箱が落ちてゆく。箱は星の瞬きを隠した。虚弱の王墓の瓦解は、虹の下であららかに為された。

 とこうするうち、瓦礫の小山と化した中から、褐色の健康そうな手が飛び出した。柔らかみを帯びた形状から女性と推測される。

 それはしばらく静止していたが、突然に激しく動き出し、終いには私たちに向かって手招きをするのである。


「ねえ、カラクラ。もしかして、自力で出られないんじゃない?」

 とミーネが言った。そして困惑した調子で、

「助けてあげた方がいいのかな......」


「ミーネはどうしたい?」

 私は訊いた。


 ミーネはちょっと考えてから、「助けたい、かな」と答えて、はにかんだ笑顔を見せた。

 私はその笑顔に応えた。

「わかった。じゃあ助けよっか」

「うん! はやく引っ張り出してあげようよ」


 私たちはおっかなびくり得体の知れぬ手を掴むと、息を合わせて思い切り引っ張った。

 そのとき、引く力が強すぎたために、すっぽ抜かれた手の主は中空を放物線を描いて飛び、見事な空中三回転ひねりをやった後、音もなく着地したのである。

 体操選手のやるごとく、シルエットが『Y』になるように両腕を高く上げ、息を深く吐きつつ、ゆっくり腕を下ろした。そして、正面がこちらに向いた。


 私は声を失った。

 褐色の彼女はたしかに見覚えのある、しかも、割方昵懇の間柄と言えなくもない者であったからだ。

 背丈がおよそ三尺九寸の彼女の白銅色の髪は、肩あたりで短く切り揃えられている。やや上がり気味の両目が瞬きをする。修道服を身に纏う彼女は、怪訝な表情で私をじっと見つめると、ハッとし、さも嬉しそうな顔で近付いてきた。


「やあやあ、まさかまさかのカラクラちゃんじゃないかあ! ひっさしぶりだねえ〜、元気してたあ?」

「ええ、まあ、はい......」

 私は胡乱な調子で答える。

 彼女の視線は私からミーネへと移る。


「おやおや、隣にいるのはミーネちゃんだ。こうして会うのは初めてかもしれないねえ」

「こ、こんにちは!」

 ミーネは若干上擦った声で言った。彼女は人見知りをするのである。


 私は袖をちょいちょいと引かれた。ミーネが何かこっそりと言いたげなので、耳を傾けた。

「ねえ、誰? 知り合い?」

「ああ、あの方はね」


 私は指呼の間に至る、修道服の彼女を見据えて言った。

「閻魔大王様よ」

 


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