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神の徒事  作者: 葦元狐雪
20/33

14

 ザハク殿の邸宅から西の下級神の村まではおよそ一時間を要する。これは空を飛んで行く場合である。

 御多分に洩れず、七天神の我々が同じ手段をとるかというと、そうではない。

 怠慢なザハク殿はかくのごとき面倒を甘んじて受けるをよしとしなかったのだ。

 ——秘密の抜け道があった。

 

 邸宅の瓦葺屋根の或る部分の瓦を取り外してゆくと、人ひとりが通れるくらいの小さな襖が顔を出す。開くと短い木製の梯子があり、下りたところで首をめぐらせると、縦横の幅が六尺六寸ほどの狭い廊下がしばらく続いている。ザハク殿の落書きやら絵画、浮世絵、アニメキャラクターのシールなどが漆喰の壁一面に雑然と貼り付けられ、乳白色の天井には等しい間隔に蛍の尻みたいな電灯が幾つもあった。避難口誘導灯のごとき淡い緑の光である。廊下は歩いて数分もかからずに同種の梯子と襖に到るから、そこを抜けると村のはずれの池のほとりに出る。


 ザハク殿はそれを秘匿しているらしかったが、ヴォルトラとアマユリはこのことを了知しているそうな。

 私は存じ得なかった。

 玄関を飛び出して飛び立とうとする私が、一寸の間にヴォルトラに手を引かれて墜落した際に彼女に教えられたのであった。


 かくて私たちは池のほとりに立った。ヴォルトラの左手の人差し指に灯した白い明かりが、下草の湿り気を帯びたありさまを照らし出した。上を見やると、額を寄せる枝々の葉叢が穴ぼこの天蓋をして、間断なく敷かれた曇天越しのわずかな光さえ到らざらしむ。それかあらぬか、不断は清冽とした浅い池があの夜の黒い海のそれと同種だった。水面下に何かが息を潜めていて、不用意に手を入れようものなら、それに手を食いちぎられてしまうのではないかという一種の懸念が走った。私は無意識的に右手首をさすっていた。澄んだそよ風が頸を撫ぜる。余人の突然の愛撫に似たそれは、いきおい私を総毛立たせた。

 

 ふと、ヴォルトラが私の指先に彼女の人差し指を添えると、私の指先も明かりを灯した。

 しかし中指だった。隣の指が触れると熱いから、常にF○CKのサインをして歩かなければならなくなった......

 なんと酷いことをするのだろう。誰彼なく挑発を仕掛ける灯台である。他の神々の目に入ったらどうするのだ。確実に向後の関係に響く。だが、明かりを隠すと盲になる。仕方がないから、中指を突き出した。


 私は憮然としてヴォルトラを睨んだ。彼女は意に介するでもなく、

「ほら、行くぞ」

 と愉快げに言った。



 やがて村の入り口に着いた。村のぐるりを木の柵が並列している。申し訳程度の門構えがある。木の柵の背丈は腰くらいまでしかないので、安易に中の様子が知れる。まるで意味がない。外部の侵入を拒もうという気組みがさらさら感じられない。木の針に刺されないよう気をつけながら柵に手をかける。ちょっと揺するとミシミシと軋む音がして、すぐに手を離した。枯凋こちょうの極点はまさしく今であった。


「おい、なんだかおかしくねえか?」

 ヴォルトラが慄然とした声音で言った。

 闇に目を凝らすと、なるほど亥字の景色にたしかめたかった証左がありありと映った。

 息を呑んだ。

 私の誤謬あれかしと望んだのとは裏腹に、現前の闘牛場を彷彿とさせる蕭然たる更地が、私の懸念の規模を押し拡げて行く。

 

 この場にはおよそ百二十の下級神が住まうための、竪穴式住居が軒を連ねているはずだった。善悪を問わず、種々雑多の神々が暮らしていた。しかし、それらすべての形跡が烏有と化した。

 やはり、彼女たちだけではなかったのだ。となると、あの世界には下級神たちがまるっと転居しているわけだ。


 ——常軌を逸している。

 たとい彼女たちが力を集約し、たとい能う限りを尽くそうとも、彼処の世界に無断で足を踏み入れることは断じて不可能だ。下級神は最上神の力に干渉する術がないし、誰彼の好き勝手の出入りを允可するのであれば、それはザハク殿の意に悖るからである。ゆえに、我々さえも侵入するべからざる鉄壁を彼女は設えたのではなかろうか。よしそうでないのなら、第三者がザハク殿と荒木鴇を何らかの目的をして、我々から半ば隔離したと考えるのが尤もだろう。しかしその公算は極微である。最上神のザハク殿に対抗できるのは我々七天神、とりわけアマユリ以外存在し得ないからだ。


 だが。

 もし、万が一、七天神の誰かの目論見であったなら......


「いや......」

 呟くと、下を向いたままに私は頭を振った。

 考えすぎだ。精神に混乱が来している可能性が高い。私は木の針が掌に刺さるのも厭わず、柵を力強く握った。この揣摩しまは七天神、否、家族に対する最大の侮辱ではないかしらという良心の呵責がそうさせた。


「おい、あそこを見ろ」

 ヴォルトラの光る指先が夜の一端を示した。

 私は素早く顔を上げた。すると、夜目におぼめく墨画の如き濃密な影が人の背姿をして、ひとかたならぬ気を帯ているのであった。

 影は幾つもの円の窪みのひとつに佇んでいる。翩翻と夜風にはためく何かが、私には金魚の鰭に形容された。

 

「あれはまさか!」

 思い立つより先に、私は柵を飛び越えていた。声を発したのは何時だったか、はや忘却の彼方へ没していた。

 地面擦れ擦れを駆ける両足は焦慮にはやった。骨が空洞のポリ塩化ビニルに代わった感覚が軽すぎる。加速する。瞬く暇に音速の域に達した。


 自制の効かぬこの身がようよう影に達する束の間、金魚の鰭もかくやと思われたそれが着物の袂であると断じた私の眼前の色は、突如鮮やかな萌葱もえぎに急転した。


 草履の裏は草々を踏んだ。青い香りが足元から迫り上がってきて、おもむろに空を見上げた私の真っ白な意識に、確かな鮮烈が瀰漫びまんした。

 ——ここは別の世界だ、ザハク殿の世界だ。

 私は瞼を閉じた。着物の袂の紫を思い返しながら。


 

      $



 巨躯のあしおとと獣の弾む息との顫音せんおんが、森閑とした叢林地帯をわななかせる。

 縫うように道無き道を駆ける大狼は、背中にしがみ付いているトキを案じてか、ややもすると突き出している枝や、垂れ下がる蔓を的確に避けて行った。


 やがて人道らしきやや整備された按配の土道に遭った。

 緑の剥げた香染の直線的に続く一本の道。種々の花々が彩るアーチを伴う。

 しかし大狼の前足が踏み入るや、雑木や羊歯の葉がアーチの隙間のいたるところから伸びては絡まり合い、彼らの行く手を阻んだ。

 

 大狼は吠えた。

 他を脅かす重厚な咆哮は、網目状に結び留めたる雑木や羊歯類の葉の聯関を瓦解させた。枯葉を巻いてゆく追い風のように、そして大狼が追い風そのものであるように、いくばくもなく花弁を纏う黄金の疾風を、埒の果てが迎えた。


 その最中、柔毛に手の全体を絡ませ、肌奥の熱っぽさを指先に感じながら、トキは不意に首を巡らせた。

 躍動する三本の尻尾の間に、何やら伺い知れた。それは奇に青く、四五人の隊列の、不気味な統御の様態が見え隠れしている。小さい。まるで小人のようだ。 

「なんだろう......」

 トキの思う暇もなく、追走者の姿は狭窄的悠遠の一顆となった。




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